第21話 ノアの過去
「…………」
窓から中庭を見下ろしていたヴァージニアは、小さく溜息を吐くとカーテンを閉めた。
地上よりだいぶ高いところにあるヴァージニアの自室からは、当然何を話しているかまでは聞き取れなかったが、雰囲気から察するにノアと兄の婚約者であるアリーシャは兼ねてからの知り合いらしい。
ノアがアリーシャを抱き締めた時には驚いたが、兄の婚約者に想いを寄せているとか、そういう空気でもなさそうだった。
きっと二人には、ヴァージニアが思いも寄らない繋がりがあるのだろう。
彼が別の女の子を抱き締めたことに関して、不思議なことに嫉妬の念は抱かなかった。
それはアリーシャがすでにセルフィエルの婚約者だからかもしれないし、ノアにアリーシャに対する恋情を感じられなかったかもしれない。
でもきっとその最たる理由は、もっと大きなことに気付いた故の動揺の方が勝ったからだった。
(……私、ノアのこと、何も知らない)
自身が物心付いてからのノアの交友関係はある程度把握している。
もちろん、親しげな女の子がいたら気付いただろう。
兄たちからアリーシャの経歴は聞いていた。
アリーシャの祖母は先王グリエル・エストレアの乳母で、両親を亡くしたアリーシャは幼いときに王宮に引き取られ、ここで暮らしていた。
……10年前、彼女が先王グリエルを刺して、姿を消すまで。
ノアは、兄のセルフィエルと同じ22歳。
4歳のヴァージニアが彼と初めて出会ったとき、ノアは11歳だった。
それ以前の、王宮に来てからの彼の詳しい経歴を、ヴァージニアは一切知らない。
アリーシャと話しているときのノアの表情は、ヴァージニアが見たことのないものだった。
戦災孤児のノアと、両親を亡くし唯一の肉親を頼って王宮に引き取られたアリーシャ。
確かに二人の境遇は似ている。
年も近いし、アリーシャが王宮で暮らした数年の間に、何らかの交流があってもおかしくはなかったのだろう。
でも、あの中庭での二人の雰囲気は、ただの昔の知り合い以上の何かを感じさせた。
(……知りたい)
父に敗戦国で拾われて、王宮に連れてこられてからヴァージニアに出会うまでの約十年間、ノアが何をしていたのか。
きっとヴァージニアが聞けば、きちんと教えてくれるに違いない。
何故なら、これまでノアが結果的にヴァージニアの命令を断ったことなど、一度もないのだから。
(今まで私が聞かなかったから、言わなかっただけだわ。私が教えなさいって言えば、教えてくれるはず。だって私は、あいつの主なんだから)
***
翌朝、セルフィエルとアリーシャは、王侯貴族たちへの挨拶回りのために朝早く城を出て行った。
滞在期間が短いので、二人が都にいるうちはスケジュールがびっしり詰まっている。
笑顔の兄と緊張した面持ちのアリーシャを見送りながら、ヴァージニアは心中でアリーシャに同情した。
慣れない王都で、王弟の婚約者として一日中人に会い、無遠慮に浴びせられる質問にそつなく答え、表情、立ち振る舞い、礼儀作法にも気をつけなければならない。
生まれたときからそういった場に慣れているヴァージニアでさえ想像しただけでうんざりする。
しかもアリーシャは平民だ。
身分差を気にする貴族たちにぶつけられる嫌味は、一つや二つではないだろう。
そう考えると、アリーシャの苦労は押して知るべしだった。
「……アリーシャ義姉様……あんまりひどく、お疲れにならなければいいけれど」
思わず声に出して呟くと、傍らのノアが微笑んで言った。
「大丈夫ですよ、セルフィエル殿下がついていますからね」
「…………」
何やら訳知り顔のノアが無性に腹立たしくなり、
「……えい!」
丸めた拳を、勢いをつけてノアの横腹に当てる。
「ぐっ……!ちょ、何するんですか、ヴァージニア様……」
「うるさい!何よ、知った風なこと言っちゃって。王族として、貴族のおっさんたちににこにこしながら媚を売らないといけない気持ちなんて、あんたなんかには絶対わからないんだからね!」
「まあ、そうですけど……。でも、その苦労を知っているエルが一緒だから、大丈夫ですよ」
「……エル?」
随分と、懐かしい呼び方だ。
「あ、はい。昨夜、セルフィエル殿下から、昔のままの話し方で話せ、と言われまして。ですので呼び名も言葉遣いも、以前のように改めたんです。ザフィエル陛下にはさすがに、このままですけどね」
「わ、私も……っ」
「はい?」
「……なんでもない」
とっさに出た声を、すんでのところで飲み込んだ。
そして軽く混乱する。
(え、今のは別に言っても良かったんじゃないの?自然な流れだったわよね?あああ、私のバカバカ、一度止めたら、言い辛くなっちゃったじゃない……!)
不思議そうに自分を見遣るノアに背を向け、ヴァージニアはがっくりと肩を落とした。
「ヴァージニア様?」
(ううう。ま、まあ、名前は呼んでくれてるんだから、良いわよね……)
気を取り直し、傍らの騎士を上目遣いに睨む。
「なんでもないって言ってるでしょ!……それより、ノア、戻るわよ。ちょっと、訊きたいことがあるから」
「……?はい」
ノアがきょとんとした顔で頷くのを待たずに、ヴァージニアは王族居住区に向かって踵を返した。




