第20話 再会の夜
その夜、ノアはセルフィエルに呼び出され、中庭にいた。
「……セルフィエル様?」
誰もいない中庭をぐるりと見渡す。ふと気配を感じて振り返ると、建物の影からセルフィエルの婚約者、アリーシャが姿を現した。
「呼び出したりして、ごめんなさい。……お久しぶりです、ノア兄さん」
昔のままの呼び方で呼ばれ、ノアは一瞬時が戻ったような錯覚を覚えた。
やや決まり悪げな、しかし懐かしさと嬉しさが滲み出た複雑な表情でアリーシャは頭を下げる。
セルフィエルの計らいか、とノアは察する。
ノアの記憶の中の小さな黒髪の女の子と、目の前の少女が重なった。
(大きくなったなあ……)
数秒感慨深くアリーシャを見つめると、ノアは ふ、と目を細めて微笑った。
「……久しぶり、アリーシャ。元気そうで、安心したよ。……十年ぶり、かな?」
「はい、……兄さんも、お元気そうで何よりです」
緊張とは微妙に違う、やや思いつめた硬い顔で微笑むアリーシャ。
こちらから話のきっかけを作るべきかと、努めて淡々とノアは口火を切った。
「十年前、何があったのか……セルフィエル様から聞いたよ」
その言葉に、アリーシャが決心したように顔を上げる。
「ノア兄さん、私、ずっと、謝りたくて」
「謝る?俺に?何故?」
「十年前、私は兄さんから、グリエル様を奪ってしまいました。当時、兄さんがどれだけグリエル様を慕っていたか知っていたのに。その上自分だけ逃げ出して、十年も戻らずに……。遅すぎて、今更と思われるかもしれませんが……本当に、すみませんでした」
当時、アリーシャは王直属の暗殺者として仕事を始めたばかりで、すでにその任に就いて何年か経過していた同業のノアを実の兄のように慕っていた。
祖母のいたアリーシャとは違い、ノアは天涯孤独の身の上だった。
「慕っていた、か……。うん、確かに、今思えば、あれはたぶん、純粋な敬慕だったんだろうなあ……」
ただ単純に、役に立てることが嬉しかった。
仕事をこなして褒められるたび、生きていていい、ここにいていいと言われている気がした。
そしてそれは多分、アリーシャも同じだったはずだ。
だからこそ考えたのだろう。
あの頃のノアは本当に人形のように仕事をこなし、グリエルの命令のためだけに生きているように見えた。
そんな彼が突然グリエルを失って、この十年をどんな風に生きてきたのか。
(……ああ、そうか)
「……もしかして十年間、気に病ませてしまった?」
「い、いえ、あの……!」
予想外の返しだったのだろう、アリーシャは目を見開いて慌てた。
そんな彼女を痛ましげに見つめ、ノアは顔を俯ける。
「 あの頃俺たちの存在は王宮内でも一部の人間しか知らなかったし、俺は自分のことに手一杯で、そこまで気が回らなかった。……ごめんね」
「兄さんが謝ることはありません!私が、私が全部、……壊したんですから」
最後の言葉は独り言のように。
ノアの言葉が静かに続く。
「かつて、俺にとってグリエル様の命令は全てだった。あのまま一人取り残されたら、きっと壊れていたと思う。どうなっていたかわからない。……でもね」
「…………?」
「幸運なことにね、グリエル様が身罷られる少し前に、見つけられたから。だから俺は、絶望することもなく、その後の人生を生きてこられた」
「……見つけられた?」
「うん。眩しいくらいに輝く、希望の光をね」
それは、今も燦然と、色褪せることなく。
きっと、これからもずっと。
「…………」
呆けたように幼い表情でノアを見つめるアリーシャに、ノアは満面の笑みを返す。
「だからね、アリーシャ。俺は君を、恨んでなどいない。そんな風に気にかけてくれているのを知っていたら、どうやっても君に伝えたのに。俺は大丈夫だよ、だから自分の幸せを考えてって」
くしゃりと顔を歪め、唇を噛み締めてゆるゆると首を振るアリーシャに歩み寄ると、その小さな背中に腕を回し、そっと抱き締めた。
その瞬間、誰もいないはずの背後から殺気を感じたが、あえて無視をする。
普通や平和とは程遠い環境で幼少期を過ごした。彼女も、自分も。
「……十年間、 一人で辛い思いをさせてごめんね」
彼女の艶やかな黒髪を指で梳き、現れた小さな耳に囁いた。
「……っ、いえ、いいえ、私こそ、ごめんなさい、兄さん、ごめんなさい……っ」
促されるままにノアの肩口に顔を埋めたアリーシャが、ついに堪え切れずに声を上擦らせた。
お互いに唯一の、同じ闇を共有する者同士。
十年分の、自分たち二人だけにしか、わからない思いがある。
「…………」
肩を震わせて嗚咽を漏らすアリーシャの頭を優しく撫でていると、突然その温もりが腕の中から消えた。
「……そろそろいいか?」
真正面から聞こえる地を這うような声音に、大した驚きは覚えない。
むしろ、よくここまで許してくれたものだ。
だから純粋な感謝の意を込めて、ノアは目の前でアリーシャを自分の腕に閉じ込めこちらを睨む旧友に、笑って頷いた。
「ええ、久しぶりに、アリーシャと話せてよかったです。ありがとうございました、セルフィエル殿下」
「……その話し方はやめろと、言ったはずだけど」
さらに低くなる声音。
数拍間を置いて、ノアは苦笑と共に言い直した。
「…………ありがとう、エル。……あ、そうだ。ヴァージニア様は、アリーシャのことをどこまで知っているの?」
「……詳しくは話していない。両親を亡くしてから父上の乳母に引き取られ、一時王宮で暮らしたが、……その、あの事件の際に城を出て、最近まで国の外れの小さな村で生活していた、ということくらいだ」
「じゃあ、その……。アリーシャや俺が、あの頃城で何をしていたかまでは」
「全く知らない」
「……そうか。感謝するよ、エル。ありがとう」
「ああ。……それにしてもアリーシャ、他の男の胸で泣くなんて、そんなに俺に嫉妬して欲しかったの?」
「い、いいえ、そんなつもりは」
セルフィエルの腕の中で固まっていたアリーシャがようやく我に返り、じたばたと暴れ始める。
それをますます強く抱き込むことで押さえながら、セルフィエルは妖しく口角を上げた。
「言い訳は聞かない。あとでたっぷりお仕置きしてあげるからね。……じゃ、ノア、また明日な」
「な、理不尽です……っ!ノア兄さん、お話できて嬉しかったです!おやすみなさい」
「うん、…………っ」
それは突然の情動だった。
セルフィエルに手を引かれて歩き出しながら、おやすみなさい、とこちらを振り向いたアリーシャの笑顔に、ふと胸が詰まった。
一言で表すならば、それは―――羨望。
一瞬の間に、憧れ、羨み、そして焦がれた。
自分と同じ過去を持ちながら、いや、それ以上に辛い過去を持ちながら、必死に光の中に生きようとする彼女に、どうしようもなく。
無意識に、ほぼ無意識に、その背中に手を伸ばした。
「……駄目だよ」
「……っ」
不意に響いた声に、びくりと肩を震わせる。
セルフィエルが立ち止まり、こちらを振り返っていた。
口元には薄く笑みを浮かべ、その紅茶色の瞳は冷ややかに細められて。
恋情ではない。ただ、どうしても自分には超えられない壁の向こうにいるもう一人の自分への、強い憧憬。
だが、それさえも許されないのだろう。
夢見ることすら、許さない。
強烈な独占欲。
(……しかしまあ)
「本当に……恋はここまで、人を変えるものなんだねぇ、エル」
しみじみと呟くと、
「うるさい」
照れ隠しか、ややぶっきらぼうな声が返る。
「セフィさま?どうかされましたか?」
「ん、なんでもないよ」
不思議そうに問うアリーシャの背中を押し、セルフィエルは建物の中に消えた。
「はは……うるさい、か」
(でも、否定はしないんだね)
変わった、と、そしてそれが良い変化であると、本人にも自覚があるのだろう。
セルフィエルを変えたのは、アリーシャだ。
アリーシャをあんな風に笑えるようにしたのは、セルフィエルだろう。
では、自分は?自分もまた、変わることが出来るのだろうか。
「…………」
数秒の思考の後、ふっと肩の力を抜くと軽く伸びをして、ノアもまた自室へ戻るために踵を返した。




