第19話 兄の婚約者
城へ戻る頃には、すでに日が暮れかけていた。
戻りの挨拶と今日の報告をしようと兄夫婦の部屋を訪ねると、先客がいた。
「ああ、おかえり、ジーナ。ノアも、元気そうだな」
「セフィ兄様!」
一週間前に王立師団長の職を辞し、知事に就任するためシェットクライド州へ旅立った兄のセルフィエルがそこにいた。
セルフィエル・シャノン・エストレア。
現エストレア国王ザフィエルの実弟、ヴァージニアにとっては二番目の兄である。
ほんの少しの間顔を見なかっただけなのに、ずっと昔に別れたように思うのは、ここ数日でヴァージニアの心に様々な変化があったからだろうか。
明るい紅茶色の瞳を細めて笑う兄に、ヴァージニアも笑顔を浮かべて駆け寄る。
「おかえりなさい、どうなさったの、一度向こうに行かれたら、しばらく戻っていらっしゃらないと思っていたのに」
嬉しそうに尋ねる妹に、セルフィエルは苦笑した。
「そのつもりだったんだけど。ドーラムで本格的に生活を始める前に、どうしても彼女を紹介しておきたかったんだ。今はまだ引き継ぎの段階だけど、いざ正式に知事の職に就いたら日々の仕事に忙殺されて、いつ戻ってこられるかわからないからね」
「彼女?……って、まさか」
「うん。俺の婚約者。……アリーシャ、俺の妹の、ヴァージニアだよ」
こんな笑顔を浮かべる兄を見るのは何年ぶりか。
それだけでも驚きなのに、セルフィエルが彼の背後に向かって呼び掛けた声音の優しさと甘さに衝撃を受けた。
彼が女性に甘い言葉を囁いている光景を見たことは数え切れないほどあるが、その時の声とは比べ物にならないほど、労りと愛情に満ちている。
(兄様、そんな声、出せたのね……)
驚きと呆れと、そして感動に身体を硬直させながら、ヴァージニアはセルフィエルに促されておずおずと進み出た黒髪の女性をまじまじと見つめた。
(……このひとが)
セルフィエルを、変えた女性。
そして。
――――ヴァージニアたち3人の父親であり先代国王でもあった、グリエル・エストレア死亡の直接の原因を作った女性。
「は……はじめ、まして。アリーシャと……申します」
静かな居間に、誰が聞いても極限まで緊張しているとわかる声が響いた。
落ち着いた、温かい声だ。
長く真っ直ぐな黒髪が、深くお辞儀をした彼女の表情を隠している。
身体の前で重ねられた両手が、よく見れば震えていた。
「…………」
俯いたまま顔を上げない、兄の婚約者。
その姿にヴァージニアはふと、胸が締め付けられるのを感じた。
セルフィエルから事前に聞かされている。
アリーシャの生い立ちも、過去に犯した罪も、その後どんな風に今日まで生きてきたか、どのようにセルフィエルの想いを受け入れたのか、その経緯も全て。
どれほど、勇気が要ったことだろう。
直接手を下したわけではないにしろ、先代国王が死んだのはアリーシャのせいと言っても過言ではない。
それはアリーシャ自身が一番よくわかっているはずだった。
彼女にとって王宮は、幼少時代に先王グリエルと共に過ごし、そして先王と祖母を同時に亡くした、因縁の場所だ。
その王宮に、グリエルの家族に会いに来るという行為に、どれほどの勇気が必要だったか、ヴァージニアには想像もつかない。
どんなに怖く、不安だったことだろう。
……それでも。
(それでも、セフィ兄様との未来のために……一歩を、踏み出したのね)
ここに足を運ぶまでのアリーシャの葛藤を思うと、ヴァージニアは自分の悩みがひどくちっぽけなもののように感じた。
「頭を……上げてちょうだい。顔を、よく見せてくださるかしら」
弱冠掠れたヴァージニアの声に、アリーシャの肩がぴくりと震えた。
数泊置いてゆっくりと上体が上げられ、ヴァージニアはアリーシャの顔を正面から見ることが出来た。
少しの戸惑いと不安、しかしそれ以上の強い決意を感じられる鳶色の瞳を真っ直ぐに見つめ、ヴァージニアは微笑んだ。
整った顔立ちではあるが、想像していたような、絶世の美女ではない。
しかし生きる意志をはっきりと持つ、深くて優しい瞳がとても印象的な女性だ。
このひとが、兄のセルフィエルが、生涯の伴侶に選んだ女性。
「はじめまして。ヴァージニア・メリッサ・エストレア、セルフィエル・シャノン・エストレアの妹、エストレア国の第一王女です。……ええと、……ひとつ、お願いがあるのだけれど」
「…………っ、なんなりと」
アリーシャが両手をぎゅっと握り締め、覚悟を決めた表情でヴァージニアを見つめた。
そんなアリーシャを見つめ、ヴァージニアははにかみながら言った。
「……アリーシャ義姉さまと、お呼びしても構わないかしら?」
「…………」
予想外の言葉だったのだろう。
アリーシャの瞳が大きく見開かれる。
何かを言おうと息を吸い、しかし言葉にならないまま僅かに開いた唇から短く吐き出される。
「…………」
セルフィエルが微かに微笑んで、アリーシャの肩を抱いた。
呆然と立ち尽くすアリーシャを、ヴァージニアは小首を傾げて不安げに覗き込む。
「やっぱり……駄目かしら?」
アリーシャの焦点の合わない瞳が、うっすらと透明な膜を張る。
それを見て驚き慌てたのはヴァージニアだ。
「あっ、あの、嫌ならいいの!忘れてくれて構わないわ、だから、あの」
「……いいえ」
しどろもどろの早口を、アリーシャの静かな声が遮った。
そしてゆっくりと、心底幸せそうに笑むと、ヴァージニアを真っ直ぐに見つめる。
「……っ」
その瞳の綺麗さに、ヴァージニアは思わず魅入った。
「……是非、そのようにお呼びくださいませ。身に余る光栄です、……ヴァージニアさま」
―――――ヴァージニアさま。
アリーシャのその声が、頭の中で反響する。
……なんだかひどく懐かしい気がした。




