第13話 どんなときも
「……そうよね、義姉様」
「え?」
呆然としていたヴァージニアはぐっと拳を握り、表情を引き締めてジャクリーンを見つめた。
「いくら気持ちが大きくても、ただ想って見てるだけじゃ、何も変わらないわよね。……見てて、義姉様。どこまで出来るかわからないけど、ノアに好きになってもらえるように精一杯努力するわ」
「……ええ」
軽く目を見開いていたジャクリーンは、小さな相槌と共に柔らかく微笑んだ。
す、と腕を上げ、ヴァージニアの髪を優しく梳く。
「ね、義姉様?私、もう、子供じゃ……」
頬を僅かに赤くして慌てるヴァージニアの顔を覗きこんで、ジャクリーンは微笑んだ。
いつか夫に、そして先程は彼の妹にもそう形容された、聖母のような笑みで。
「ねえ、ジーナ。ヴァージニア。私の、可愛い可愛い義妹。……人はね、誰かを好きになればなるほど、負の感情に支配されていってしまうの。一人の時には感じなかった寂しさ、苦しさ、嫉妬、憎悪……。でもね、それ以上に、今まで知らなかったたくさんの喜びも知っていくのよ。これからあなたは色んな経験をして、色んな気持ちを知っていくと思うけれど。時には涙が止まらないくらい辛いこともあるかもしれない。……でもね、どんなときも、忘れないでいて。恋愛ってね、……楽しいのよ」
「……義姉様」
「笑っていて。私、あなたの笑顔が大好きよ。いつもあなたの味方でいるわ。だから、頑張りなさい。自分が納得できるところまで」
「……うん、ありがとう、義姉様」
ヴァージニアは髪を撫でるジャクリーンの柔らかい手を取ると、自身の頬に当てて目を閉じた。
***
―――パタン。
ヴァージニアが一礼して退出する。
それを見送ると、ジャクリーンも手早くカップを片付けて灯りを消し、夫の待つ寝室への扉をそっと開けた。
「……遅かったな」
「……!」
暗闇から静かに掛けられた声に心臓が跳ねる。
部屋の中央に置かれた寝台辺りに目を凝らすと、夫が半身を起こしてこちらを見つめていた。
「…………」
無言で小さく溜息を吐き、部屋の隅の小さな寝台でベルベットが健やかな寝息をたてているのを確認すると、ジャクリーンは「失礼します」と断り静かに夫の隣に身を滑り込ませた。
「……驚かさないでください。起きていらしたんですか?」
隣に向かって小声で問うと、
「……お前が隣にいないと、落ち着かん」
ぽつりと無感情でぶっきらぼうな声が返る。
その言葉に思わず熱の上った頬を両掌で包んだ。……まったく、この人は。
ザフィエルがごろりと身を横たえる気配がする。
数秒の後、
「……いつ、お前が」
「え?」
淡々と響いた夫の呟きに、ジャクリーンは首を傾げた。
声の聞こえ具合から、夫は彼女に背を向けているらしい。
「何ですか?」
「いつ、お前が、押しかけて迫ったんだ」
「…………聞いていらしたんですか」
思わず、声に僅かな非難が篭もる。
「聞こえたんだ」
間髪入れない返答は、僅かにでも後ろめたい気持ちがあるが故か。
ジャクリーンは溜息を吐いて、表情だけで苦笑した。
「……いいですよ、もう。あなたの耳が良いことはよく存じておりますから」
事実だった。3兄妹の中で、一番聴力が優れているのはザフィエルである。
……それに。
「押しかけたのは、事実でしょう?」
「……あれは、押しかけたとは言わんだろう」
「当初の結婚予定相手がお姉様だったのも、私がお願いしてあなたの妃になったのも事実ですよ」
「……それだって追い詰めて追い詰めて、ようやく吐き出させたんじゃないか……」
疲れたようなザフィエルの声が返る。
「…………」
脱力したような夫の気配に、ジャクリーンは身がこそばゆくなるのを感じて僅かに笑んだ。
恥ずかしいような、くすぐったいようなこの感覚。
この気持ちを幸せと呼ぶのだと、ジャクリーンはもう知っている。
「とにかく」
ごそ、と衣擦れの音が聞こえ、ザフィエルの声が鮮明になった。
横たわったまま、身体の向きを変えたらしい。
「……とにかく、まるでお前だけが望んで俺が渋々受け入れたような言い方をするのはやめろ。あの時、俺がどれだけお前を俺の元に繋ぎ止めたかったか、知らないわけではあるまい」
「……ええ、存じていますわ」
「……どうだかな……お前は万人に優しい聖母様だからな。必死な俺が可哀相になって、つい絆されたんじゃないか?」
「……今夜はやけに絡みますわね。そうそう、ジーナにも同じことを言われましたわ」
確かに故郷でのジャクリーンはそう呼ばれていた。
しかしそれをこの国で言ったことは一度もないのに、何故か夫と義妹はジャクリーンをその懐かしい名で呼ぶ。
「……でもね、あなた。私が例え、そうだとしても。ただ一人、あなたの前にいる時、私は聖母なんかじゃないのよ。……あなたの前では私は、」
あなたを愛する、ただの女だわ。
最後の言葉は吐息と共に、彼の顔を間近で見下ろして紡ぐ。
「…………」
ザフィエルは一瞬驚いたように目を見張ったが、すぐに満足そうに微笑んだ。
「……光栄だ」
艶めいた低音でそう囁き返すと、ザフィエルは幸せそうに弧を描く妻の唇を下から掬い上げるように塞いだ。