悪役令嬢、断罪されたので謝罪します ~前世が百貨店クレーム対応部長(勤続25年)なので、プロの謝罪で全員黙らせてもいいですか?~
一 断罪イベント発生
王立フィリアーネ学園、卒業記念舞踏会。
シャンデリアの光が広間を照らしている。貴族の子弟二百名。正装のドレスと軍服。オーケストラの生演奏。テーブルに並ぶ料理は一流の宮廷料理人が手がけたもので、ワインの銘柄だけで平民の年収を超える。
私はシャンパンのグラスを傾けていた。
味は分からない。前世の「三島屋」社員食堂の五百円ランチのほうが美味しかった。あの唐揚げ定食は絶品だった。異世界に持ち込みたかった。でも、異世界に持ち込むなら唐揚げ定食より「クレーム対応マニュアル」のほうが有用だ。実際、持ち込んでいる。頭の中に。
さて。
そろそろだ。
十七年間、この日のために準備してきた。
乙女ゲームのシナリオを把握し、断罪イベントの発生条件を分析し、対応マニュアルを頭の中で作成した。前世の「クレーム予測」と同じだ。お歳暮シーズン前に予想されるクレームのパターンを予測して、対応マニュアルを作る。断罪イベントもお歳暮クレームも、「予測可能なトラブル」という点では同じだ。
第一王子レオンハルト・アレクシス・フィリアーネが立ち上がった。
金髪碧眼。背が高い。顔がいい。服が高い。——典型的な乙女ゲームの攻略対象だ。攻略対象としてのスペックが高すぎて、逆にテンプレ感がある。前世の百貨店のイケメン囲いの委員会で、「金髪碧眼の王子様がランキング一位」という結果を見たら、部下たちは「それはまあそうですよね」と言うだろう。
前世でゲームをやったことはないが、転生神ツクヨから「乙女ゲームのシナリオに基づく世界です」と説明は受けた。五十五歳のおばさんに乙女ゲームの説明をするツクヨの困った顔が忘れられない。
そして私の役どころは——悪役令嬢。乙女ゲームでいうところの「嫌な先輩」だ。前世でいうところの「難しいお客様」だ。——いや、逆だ。私が「難しいお客様」側なのだ。役割が逆だ。
断罪イベントは、ゲーム通りなら卒業パーティの最中に発生する。
来る。
「ヴィクトリア・フォン・シュタインベルク!」
来た。
王子の声が広間に響いた。オーケストラが止まった。全員の視線が私に集まる。
「お前の罪を、この場で明らかにする!」
(——来ましたね)
グラスをテーブルに置いた。音を立てないように。
(これは、クレームだ)
前世の百貨店で、毎日のように見た光景。お客様がカウンターに来て、怒りの声を上げる瞬間。あの空気と本質的に同じだ。
規模が違うだけ。
カウンター越しか、舞踏会の広間か。二人きりか、二百人の前か。
でも、対応の基本は変わらない。
(「クレーム対応マニュアル」第一章。お客様が怒りを表明された場合の初動について——)
まず、深呼吸。
私の名前はヴィクトリア・フォン・シュタインベルク。十七歳。シュタインベルク公爵家の令嬢。
前世の名前は松田幸子。享年五十五歳。「三島屋」お客様相談室・統括部長。勤続二十五年。クレーム対応件数、生涯で推定七万件以上。
心筋梗塞で倒れた。最後に見たのは、対応中のお客様の怒った顔と、天井の蛍光灯だった。
転生先で待っていたのは、公爵家の豪邸と、「悪役令嬢」という役割と、「チートはありません」というツクヨの申し訳なさそうな笑顔だった。
魔法は使えない。剣も振れない。ステータスは全項目が「平均以下」だった。なろう系の悪役令嬢なら、ここで「実は超絶魔力の持ち主でした」とか「聖女より強い光魔法が使えました」とかいう展開になるんだろうが、残念ながら何もない。本当に何もない。
ステータスを確認したとき、ツクヨが「えーと、強いて言えば『傾聴力』が人類平均の三倍です」とフォローしてくれた。「それ、チートとは言えないですよね」「言えません」。正直だった。
持っているのは、「人の怒りを鎮める技術」だけ。
乙女ゲームの悪役令嬢の武器としては、歴代最弱だろう。だが、クレーム対応の武器としては——十分だ。
二 初動三十秒
クレーム対応の鉄則その一。
「初動三十秒が、全てを決める」。
お客様が怒りを表明した最初の三十秒で、対応者がどういう態度を取るか。それで、その後の展開が八割決まる。
パターンは三つ。
一、恐怖で固まる。——最悪。お客様の怒りが加速する。
二、逆ギレする。——論外。泥沼になる。
三、冷静に受け止める。——正解。
私は椅子から立ち上がった。
ゆっくりと。慌てず。でも、遅すぎず。
表情を作る。
申し訳なさを八割。誠実さを二割。笑顔は禁止。泣き顔も禁止。「真剣に受け止めています」という表情。これは前世の新人研修で百回練習した顔だ。鏡の前で。乙女ゲームの悪役令嬢は「高笑い」か「激怒」が定番らしいが、どちらもクレーム対応としては論外だ。
「レオンハルト殿下」
声のトーンを半音下げる。落ち着いたトーン。前世の「三島屋」では「クレーム対応ボイス」と呼ばれていた声だ。高すぎず、低すぎず、相手に「この人は聞いてくれそうだ」と思わせるトーン。
「お話を伺わせてください」
お辞儀。角度四十五度。深すぎると卑屈に見える。浅すぎると誠意がない。四十五度が最適解。前世の部下たちには「松田の四十五度」と言われていた。
広間が静まった。
(——来た。「最初の沈黙」)
クレーマーは、相手が恐怖で固まるか、逆ギレすることを想定している。冷静に頭を下げられるのは——想定外なのだ。
王子の目が一瞬、泳いだ。
ほんの一秒。でも、見逃さない。前世で七万件のクレームを処理した目は、相手の動揺を百分の一秒単位で捉える。
王子の隣に立つ少女が口を開いた。
聖女リリアナ・ミルフィーユ。栗色の髪。大きな瞳。清楚な白いドレス。——乙女ゲームのヒロインだ。目が潤んでいる。乙女ゲームのヒロインは、いつも目が潤んでいる。涙は最強の武器だ。前世の百貨店でも、涙を流すお客様は対応難易度が一段上がる。——だが、対処法はある。
「ほら見て、レオンハルト様! 謝ってる! 自分の罪を認めたのよ!」
(——出た。「火に油を注ぐタイプ」。クレーム対応で一番厄介なのは、お客様本人ではなく、横から煽る同伴者。前世の「三島屋」では、このタイプを「取り巻き火災型」と呼んでいた)
「申し訳ございません、リリアナ様」
穏やかに。笑顔なしで。目を見て。
「わたくしはまだ何も認めておりません。殿下のお話を伺いたいと申し上げております」
(クレーム対応の鉄則その二。「D言葉を使うな」)
「でも」「だって」「ですが」。
この三つの否定語は、相手の怒りを増幅させる。前世の研修で「D言葉禁止令」と呼ばれていた鉄則だ。
代わりに使うのは「クッション言葉」。「申し訳ございませんが」「恐れ入りますが」「おっしゃる通りですが」。柔らかく、しかし確実に、自分の立場を維持する。
リリアナが口を開きかけた。
だが、王子が手で制した。
「……いいだろう。聞けばいい」
(よし。——第一関門、突破。対応開始から三十秒。前世なら、ここで対応時間を記録する。異世界にはストップウォッチがないのが不便だ)
三 お客様の声
クレーム対応の鉄則その三。「傾聴」。
お客様の言葉を、最後まで聞く。途中で遮らない。相槌を打つ。頷く。
そして——「オウム返し」。お客様の言葉を、そのまま繰り返す。
「聞いてもらえている」という安心感を与えるためだ。これだけで、怒りの温度が十パーセント下がる。
「殿下。お怒りはごもっともです。まず、殿下がお感じになった点を、すべてお聞かせいただけますか」
王子が告発を始めた。
「第一に、お前はリリアナに対して、日常的に嫌がらせを行った!」
私は頷いた。メモは取れないが、脳内で記録する。前世の習慣だ。本当は「対応記録用紙」に書きたい。日時、対応者、お客様名、苦情内容、対応結果。後で上司に提出する書式が、骨の髄まで染みついている。異世界に転生しても抜けない。
「嫌がらせ。——殿下は、わたくしがリリアナ様に対して不当な扱いをしたとお考えなのですね」
(オウム返し。完了。——前世の新人に教えていた「オウム返し三原則」。一、相手のキーワードを拾う。二、自分の言葉で言い換える。三、確認の形で返す。これだけで怒りの温度が二割下がる)
「第二に、お前は婚約者でありながら、俺に対する態度が冷淡だった。愛情がない!」
「婚約者としてのわたくしの振る舞いに、ご不満をお感じだったのですね」
(前世の「三島屋」で、お歳暮の包装紙の角度が二ミリずれていたと三十分怒り続けたお客様に比べれば、論点が明確で助かる)
「第三に——お前は傲慢だ! 貴族であることを笠に着て、平民出身のリリアナを見下している!」
「わたくしの態度が、周囲の方々にとって威圧的に映っていたということですね」
三つの告発。整理完了。
(内容を分類する。クレーム対応では、苦情を三つのカテゴリに分類する)
一、「事実に基づく苦情」——お客様の言い分に正当性がある場合。
二、「認識のずれによる苦情」——事実と異なるが、お客様がそう感じた場合。
三、「言いがかり」——事実も根拠もない場合。
(第一の告発——「嫌がらせ」——はカテゴリ二。学則を伝えただけだが、伝え方が不快だった可能性はある。第二の告発——「婚約者の態度」——はカテゴリ一。これは正直に言ってその通りだ。私は婚約者として冷淡だった。前世の五十五歳のおばさんが十代の王子に恋愛感情を持てと言われても無理がある。第三の告発——「傲慢」——はカテゴリ二か三。要確認)
さて。
「恐れ入りますが、殿下。いくつか確認させてください」
「確認?」
「はい。正確な事実は、正確な解決につながります。——わたくしも、事実と異なる点があれば正したいのです」
(クレーム対応の鉄則その四。「事実確認は、相手に許可を取ってから行う」。いきなり反論すると対立になる。「確認させてください」と許可を取れば、「真摯な態度」として受け取ってもらえる)
王子が頷いた。
ここまでは順調だ。
「まず、リリアナ様への嫌がらせについて。具体的には、いつ、どこで、どのようなことがあったか、教えていただけますか」
王子がリリアナを見た。リリアナが前に出た。また涙を浮かべている。だが、二度目はもう効かない。クレーム対応のプロは、同じ手に二度は動揺しない。
「最初は四月の花園で! ヴィクトリア様に『あなた、場違いよ』と言われました!」
「四月の花園。——ああ、覚えております」
私は穏やかに答えた。
「あの日、わたくしはリリアナ様に『花園は午後三時以降は上級生の時間です。下級生の利用は午前のみと学則に定められています』と申し上げました。——お伝えの仕方が不十分だったのであれば、おわび申し上げます」
広間がざわめいた。
「お、おわび?」
「はい。規則をお伝えすることは必要ですが、その伝え方で不快にさせてしまったのであれば、それはわたくしの至らなさです」
(「限定謝罪」。これが、プロの謝罪の核心だ)
(全面的に謝ってはいけない。「何に対して謝っているのか」を限定する。事実——「学則を伝えた」——は間違っていない。でも、「伝え方」が不快だったという点については謝る。これにより、「非を認めた」という印象を与えながら、事実は守る)
リリアナの目が泳いだ。
「で、でも! 他にもあるわ! 廊下で睨まれたし、図書室で無視されたし——」
「具体的な日時をお教えいただけますか? わたくしの記憶と照合いたします」
「え……日時?」
「はい。正確な事実確認のために」
「そ、それは……覚えてないけど、確かにあったの!」
(——出た。「具体性のないクレーム」。前世の百貨店でもよくあった。「いつも態度が悪い」「前にもこんなことがあった」。でも「いつ」「どこで」「誰が」を聞くと答えられない)
(もちろん、感情は本物かもしれない。でも、事実確認ができないものは、事実として認定できない。それは、異世界でも同じだ)
王子の眉が寄った。
彼もまた、何かに気づき始めている。
さて、第二の告発も確認しておく。
「婚約者としての態度について、殿下。これは——おっしゃる通りです」
「……は?」
「わたくしは婚約者として、殿下に十分な愛情をお示しできませんでした。これは事実です。おわび申し上げます」
広間がざわついた。悪役令嬢が、自分の非を認めた。
(第二の告発はカテゴリ一——正当な苦情だ。認めるべきところは認める。全部否定するのは「たらい回し」と同じだ。前世の「三島屋」でも、認めるべき苦情を否定した店舗は、必ず大火事になった)
四 改善提案と逆転
クレーム対応の鉄則その五。「解決策は三つ提示する」。
一つだと「選択肢がない」と不満が出る。五つだと「多すぎて選べない」と混乱する。三つが最適解だ。前世の上司「鬼の山田部長」が三十年かけて導き出した黄金数だ。山田部長。身長百五十センチ、体重九十キロ。見た目は完全に楽天のパワーヒッターだが、クレーム対応時の声は絹のように柔らかくなる。「見た目と声のギャップでお客様が混乱するのが私の武器だ」が口癖だった。そんな武器はない。
「殿下。お話を伺い、状況を整理いたしました」
私は広間の全員に向かって話した。声は通る。前世のクレーム対応で鍛えた声量だ。クレーマーが怒鳴っている向こうで、冷静に話す声の出し方は体に染みついている。
「わたくしの態度が、殿下やリリアナ様に不快な思いをさせたことは事実であり、この点について心よりおわび申し上げます」
改めて四十五度のお辞儀。
「その上で、今後の改善策を三点、ご提案させてください」
「改善策?」
王子が面食らっている。断罪イベントで「改善策」が出てくるとは思っていなかったのだろう。当然だ。普通は泣くか、怒るか、逃げるかだ。乙女ゲームの悪役令嬢なら、ここで逆ギレして「わたくしを誰だと思っているの!?」と叫ぶのが定番らしい。絶対にやらない。それはクレーム対応の「やってはいけないことリスト」の第一位だ。
改善提案書を出す悪役令嬢は、歴史上——たぶん、私が初めてだ。
「第一に、婚約の解消について」
広間が息を呑んだ。
「わたくしから申し上げます。殿下のお気持ちがわたくしにないことは、かねてより理解しておりました。形骸化した婚約を維持することは、殿下にとってもわたくしにとっても不幸です。——婚約は、わたくしの方から解消を申し出ます。違約金は請求いたしません」
ざわめき。
悪役令嬢が、自分から婚約を解消する。しかも違約金なし。
(前世のクレーム対応でも、「お客様のご意向を最優先にする」は鉄則だ。相手が望んでいることを、相手が言う前にこちらから提示する。これにより、「交渉」ではなく「贈り物」に変わる)
「第二に、リリアナ様の今後について」
リリアナが身構えた。
「リリアナ様は平民のご出身で、貴族社会に不慣れでいらっしゃいます。今後、宮廷で活動される際に、礼儀作法や社交の慣例でお困りになることもあるでしょう。——わたくしの侍女を一名、リリアナ様の教育係としてお付けすることを提案します」
広間が、しん、と静まった。
(自分をイジメたと言っている相手に、サポートを申し出る。——矛盾しているように見えるだろう。でもこれは、クレーム対応の「上位互換」だ。相手の問題を解決する側に回ることで、立場を逆転させる)
「な……なんで、あなたが私の心配をするの?」
リリアナの声が震えていた。台本通りに進んでいないのだ。乙女ゲームのシナリオでは、悪役令嬢はここで「くっ……!」と言って逃げ出すか、「許さないわ!」と逆ギレするはずだ。サポートを申し出るのは——台本にない。
「わたくしは公爵家の令嬢です。平民出身の方が宮廷で苦労されないよう配慮するのは、貴族の務めです」
(前世の言い方をすれば、「企業として顧客の不便を解消するのは当然のサービスです」になる。言い方が違うだけで、構造は同じだ)
「そして第三に、再発防止について」
広間が固唾を飲む。
「今回の件は、わたくしとリリアナ様の間のコミュニケーション不足が原因です。直接お話しする機会がなく、誤解が誤解を生んだ。——今後は月に一度、茶会の席を設けて対話の場を作ることを提案します」
(クレーム対応マニュアル、最終章。「再発防止策は、仕組みで解決する」。個人の努力に頼ると同じ問題が起きる。仕組みを作れば、誰がやっても一定の品質が保たれる。——前世で何百回書いた再発防止報告書の結論は、いつも同じだった)
王子が呆然としている。
断罪イベントが——「問題解決会議」に変わっている。前世の「三島屋」なら、ここで議事録を取るところだ。「日時、出席者、議題、決定事項、担当者、期限」。——この世界に議事録の概念はあるのだろうか。ないなら作る。
「……ヴィクトリア」
王子の声のトーンが変わった。怒りが消えている。
「お前、なんで——そんなに冷静なんだ」
「冷静ではございません、殿下。わたくしは——ただ、問題を解決したいだけです」
(嘘だ。冷静だ。前世で「土下座しろ」と言いながらカウンターを叩くお客様を年に五十回は対応していた。「上の者を出せ」と怒鳴られたことも年に百回。そのたびに「私が統括部長ですが」と名乗り、「え、部長?」と驚かれた。王子の断罪は、あれに比べれば穏やかなものだ。お歳暮シーズンの三島屋・一階クレーム窓口を経験した人間に怖いものはない)
「ちょっと待って!」
リリアナが声を上げた。顔が紅潮している。
「なんで!? なんで謝ってるのに、そっちが有利になってるの!?」
広間が静まった。
(——出た)
クレーム対応のプロは知っている。一番危険な瞬間は、「相手が冷静さを失った時」だ。
そして——一番の味方は、「相手が自分で自分の本音を露呈する瞬間」だ。
「有利?」
「だって——あなたは悪役でしょう!? 私をイジメた悪い人でしょう!? なのに——なのに、なんで私のほうが悪者みたいに——」
(前世の百貨店でもあった。最初は正当な苦情だったのに、対応が冷静だと焦って、感情的になって、自分からボロを出すお客様。興奮して暴言を吐いた瞬間に、立場が逆転する)
(クレーム対応のプロは、相手を追い詰めない。相手に喋らせる。喋れば喋るほど、本音が出る)
広間の空気が変わった。
貴族たちの目が、リリアナに向いている。
「あなたは悪役でしょう」——その言葉が、何を意味しているか。全員が気づいた。
リリアナにとって、ヴィクトリアは「悪役」でなければならなかったのだ。
王子が、リリアナを見た。
そしてヴィクトリアを見た。
広間の後方で、貴族の令嬢たちがささやき合っている。「リリアナ様、あれはちょっと……」「いえ、でもヴィクトリア様もすごいわ。断罪されてあの対応?」「私もあんなふうに謝られたら、許しちゃうかも……」「というか、透き通る肌に完璧な対応って、ヴィクトリア様のほうがヒロインじゃない?」
(——乙女ゲームのヒロインと悪役令嬢が逆転している。前世の「三島屋」でも、クレーム対応があまりに見事だと、お客様が「すみません、言い過ぎました」と謝って帰ることがあった。クレーム対応の究極系は、「お客様に謝らせる」ことだ。——前世の上司「鬼の山田部長」の口癖だ)
「……なんか、こっちが悪い気がしてきた」
(クレーム対応の七割は、この一言で終わる。お客様自身が「あれ?」と思った瞬間が、解決の始まりだ)
「殿下。誰も悪くはございません」
私は穏やかに言った。
「人と人の間に誤解が生まれるのは、自然なことです。大切なのは、その誤解を解く努力をすることです。——わたくしにも至らない点がありました。それは認めます。しかし、それは一方的な『罪』ではなく、双方のコミュニケーション不足の結果です」
(前世の先輩が言っていた。「怒りの裏には、必ず悲しみがある」)
(王子は怒っていた。でもその怒りの根っこには、「婚約者に愛されていない」という悲しみがあった。リリアナを救いたかったのではなく——自分が大切にされたかったのだ)
(そしてリリアナも——たぶん、同じだ。平民出身で貴族社会に放り込まれた少女。周りは全員、生まれた時から礼儀作法を叩き込まれた人間ばかり。その中で、「場違いだ」と感じないほうが難しい。ヴィクトリアを「悪役」に仕立てなければ、自分の居場所がなかったのだ。——前世の百貨店でも、転勤したばかりの新人が、先輩を「敵」に設定することで自分の居場所を作ろうとするケースがあった。あの子に必要だったのは、断罪ではなく、居場所だったのだ)
(それは——クレームも同じだ。怒鳴るお客様は、怒りたくて怒っているんじゃない。困っているのだ。聞いてほしいのだ。「自分は大切にされていない」と感じているのだ)
「殿下。最後に一つだけ」
私は王子の目を見た。
「わたくしは婚約者として、殿下のお気持ちに寄り添うことができませんでした。それは——わたくしの最大の反省です。形式だけの婚約に甘え、殿下の孤独に気づこうとしなかった」
王子の目が——揺れた。
「……お前」
「おわび申し上げます。殿下」
四十五度のお辞儀。三度目。
でも、この三度目だけは——本心からの謝罪だった。
五 クレーム対応完了報告書
断罪イベントから三日後。
結果を整理する。これも前世の習慣だ。クレーム対応が終わったら、必ず「対応完了報告書」を書く。
案件名:卒業記念舞踏会における断罪イベント対応。
対応者:ヴィクトリア・フォン・シュタインベルク(松田幸子)。
対応結果:円満解決。
詳細。
一、婚約解消は正式に成立。シュタインベルク公爵家と王家の関係は、「婚姻関係」から「協力関係」に移行。父は「違約金を取れなかったのは残念だが、外交関係が維持できたなら良し」と言っていた。さすが公爵。コスト感覚がある。
二、リリアナへの教育係の派遣は、王家から感謝された。リリアナ本人は複雑な顔をしていたが、宮廷の礼儀に苦労していたのは事実らしく、三日目にはすでに侍女に懐いている。
三、月一回の茶会はまだ実施されていないが、侍女のマリアが準備を進めている。茶菓子の手配まで済んでいるらしい。有能だ。前世の「三島屋」なら主任に推薦したい。人事評価をしたいが、この世界に人事評価制度がない。作るか。
四、顧客満足度:未計測。アンケート用紙を配布したいが、この世界にアンケートという概念がない。作るか。——「作るか」が多すぎる。この世界、サービス業のインフラがなさすぎる。
五、王子レオンハルトは、断罪イベントの翌日、私のもとを訪ねてきた。
「……昨日は、すまなかった」
「いいえ、殿下。お気持ちは十分に受け止めました」
「お前、前世の記憶があるのか?」
知っていたのか。転生者の存在自体は、この世界では珍しくないらしい。
「はい」
「何者だったんだ」
「百貨店のクレーム対応部長です」
「百貨店? くれーむ?」
「お客様の怒りを鎮める仕事です」
王子は長い間、黙っていた。
「……それは、名刺はあるのか?」
「名刺。……ありません。この世界に名刺はないですね」
(前世では、クレーム対応の後にお客様と名刺交換することがあった。「いい対応だった」と言われて。そのお客様が後に常連になることもあった。クレームは、関係構築の入口でもあるのだ)
「……だから、あんなに冷静だったのか」
「二十五年やりましたから」
「二十五年も、人に怒られ続けたのか」
「そうです」
「……すごいな、それ」
(それは——初めて言われた言葉だった)
(前世では、誰も言ってくれなかった。クレーム対応は「裏方」の仕事だ。売上を作るわけでも、商品を開発するわけでもない。お客様の怒りを受け止めて、頭を下げて、解決策を出して、また次のクレームに対応する。地味で、消耗する、報われない仕事だと——自分でもそう思っていた)
(でも、異世界の王子が、「すごい」と言ってくれた)
◇ ◇ ◇
その夜、夢を見た。
真っ白な空間。安っぽいカウンター。
「お疲れ様です、ヴィクトリアさん。——いえ、松田さん」
ツクヨがカウンターの向こうに座っていた。今日はなぜかエプロンをしている。百貨店の制服を意識しているのだろうか。似合っていない。
「定期フォローです。断罪イベント対応、お見事でした。実は上層部が映像記録で見ていたんですが、『あれ、本当にチートなしなの?』と三回確認されました」
「三回確認。……前世の『三島屋』でも、私のクレーム対応を見た新人が『松田さん、何か超常現象ですか?』と言っていました。チートじゃないです。経験です」
「普通じゃないですよ。上層部が騒いでまして」
「またですか」
「はい。先日の外交官さん——藤堂さんの件に続いて、凡人枠の成果が突出しています。藤堂さんは異世界に法律を作り、中村さんは行政を作り、松田さんはクレーム対応を作った。ROIがチートの百倍という試算が出まして」
「ROI。前世の人事評価でも見た数字です」
「ちなみに、A級チートの悪役令嬢はどうなったかご存知ですか」
「いえ」
「断罪イベントで魔力が暴走して、舞踏会場の東翼が崩壊しました。死者はいませんでしたが、修繕費用が国家予算の三パーセントを占めるそうです」
「……クレーム対応のほうが安上がりですね」
「でしょう? 別の世界では、A級チートの悪役令嬢が王子を返り討ちにして国を乗っ取ったケースもありまして。乗っ取った後の統治が雑で、三年で国が破綻しました。——あと、『ざまぁ』した後に政敵が増えすぎて、毎週新しい断罪イベントが発生するケースも」
「毎週断罪。……それは大変ですね」
「力で解決すると、その後が大変なんですよ。前世の百貨店でも、クレーマーを力ずくで追い出した店舗は、ネットで炎上してもっと大変なことになりましたから。——あと、悪役令嬢の『ざまぁ』後に攻略対象が『ハーレムルート』に入るケースもありまして、それはそれで別の問題が……」
「ハーレムルートが何かは分かりませんが、別の問題が発生するのは困りますね。クレーム対応でいうところの『二次クレーム』です」
「そうです、二次クレーム」
「やっぱり、凡人枠の方がいいんですよね。穏便に。平和的に」
「穏便というか——問題を解決するのに、力は必要ないんです。必要なのは、聞くこと。理解すること。そして、相手の立場に立って解決策を出すこと」
ツクヨが嬉しそうに笑った。
「それ、上層部に報告していいですか?」
「どうぞ。クレーム対応マニュアルの前文に書いてあることですが」
「あ、衣装のことですが」
「エプロンは似合ってないですよ」
「え、これじゃなくて……次回は百貨店の制服を」
「いりません。とんがり帽子のままで結構です」
「中村さんにも同じこと言われました」
「公務員さんとクレーム対応のプロは、虚飾を嫌うんです」
夢が薄れていく。
最後に聞こえたのは、「凡人枠の制服予算、削られそうです」というツクヨの悲しそうな声だった。
◇ ◇ ◇
朝。
シュタインベルク邸の書斎で、お茶を飲んでいた。
侍女が手紙を持ってきた。
「お嬢様。王宮から書状が届いております」
封を開けた。
『ヴィクトリア・フォン・シュタインベルク殿
先日の舞踏会における貴殿の対応に深く感銘を受けた。
つきましては、王宮・市民相談室の設立に際し、貴殿に顧問としてのご助力を賜りたく——
国王フリードリヒ三世』
市民相談室。
つまり——クレーム対応窓口だ。
また仕事だ。
今日の予定を確認する。
午前:リリアナ様への教育係の派遣状況確認。
午後:第一回・月例茶会の準備。
夕方:王宮・市民相談室の設立計画書の作成。
夜:クレーム対応マニュアル(異世界版)の執筆(第一章:初動三十秒について)。
前世より忙しい。しかも給料がない。公爵家の令嬢なので生活には困らないが、労働に対する対価がないのは気になる。前世のクレーム対応部門は薄給だったが、それでもゼロではなかった。
地味な一日だ。
断罪も、反撃も、魔法も、ざまぁもない。「悪役令嬢もの」の主人公なら、ここで王子を見返すか、逆に王子を惚れさせるか、少なくとも演出の派手な展開があるはずだ。「婚約破棄されたけど実は王子のほうが元婚約者に未練があって∞」的な展開も、私には一切起きない。できれば、そういう展開は勘弁していただきたい。五十五歳のおばさんが十代の王子と恋愛するのは、精神的にあまりよろしくない。
あるのは——クレーム対応マニュアルと、改善提案書と、月例報告書と、「お客様の声」カードの設置計画書だ。
でも——それでいい。
怒鳴られても、馬鹿にされても、理解されなくても。
お客様の怒りの裏にある悲しみに寄り添うこと。問題を一つずつ解決すること。
それが——クレーム対応のプロの仕事だ。
前世で二十五年。今世でも、続ける。
ただし、今世ではマニュアルを書く。この世界に「クレーム対応」という概念がないなら、作ればいい。
別の世界で外交官の藤堂さんが法律を作ったように。
別の世界で公務員の中村さんが行政を作ったように。
凡人は、凡人の仕事をする。
地味に。静かに。でも——確実に。
【新連載のお知らせ】3月7日(金)より、凡人枠シリーズ初の長編連載を開始します!
→【連載版】チートで荒らされた領地に赴任したら、前世が地方公務員だったので普通の行政で立て直すことにした
短編版を全39話に大幅拡張。
松田さんがツクヨとの会話で言及した「中村さん」の物語が、ついに本格始動です。
排水溝の掃除から始まる領地再建——謝罪のプロが認めた「凡人の仕事」を、ぜひご覧ください!
毎日18:00更新。ブックマーク登録で更新通知が届きます!
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お読みいただきありがとうございます!
「クレーム対応は、武器になる」——そんなお話を書いてみました。
現実世界のクレーム対応の基本は、実はとてもシンプルです。
「聞く。理解する。解決策を出す」。
でもそのシンプルなことを、怒号の中で冷静にやり続けるのは、途方もなく難しい。
全国の接客業・サービス業の皆様に、心からの敬意を込めて。
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