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双煙の剣聖  作者: 黒丸
第2章
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第2章 第1節《影の取引》

雪が窓を叩く音だけが、静まり返った夜の城に響いていた。

 ヴェルノア王国北部――ベルンハイム城。

 この地を治めるのは、ローデリック・ヴェルナー辺境伯。

 かつては北方防衛の要と称された名家も、いまや衰退の象徴でしかない。


 ローデリックは震える手で酒杯を傾けた。

 「……“名無し”とかいう冒険者、か。たった一人で五十の盗賊を斬り捨てたという……」

 唇を濡らすより早く、怒りが喉を焼いた。

 「なぜだ! なぜ、私ではなくあの流れ者が称えられる!」


 机の脇に控える執事クラウス・グレイスが静かに言った。

 「閣下……怒りは判断を狂わせます。今はご静養を」

 「黙れ、クラウス! お前まで私を見下ろすか!」

 クラウスは眉ひとつ動かさない。

 「いいえ。ただの忠告です。――貴方はもう、道を見失っておられる」


 その言葉を切り裂くように、扉が開く。

 重い雪風とともに、三つの巨影が室内へ踏み入った。


 「……久しいな、辺境伯殿。」


 黒狼の獣人、ヴァルク・グレンド。

 背の大斧《黒哭》が炎を映して鈍く光る。

 その眼は怒りと悲しみを呑み込み、燃えるように赤く揺らいでいた。


 後ろに熊獣人のドルガ・バロウズ、銀髪のエルド・フェンレイ。

 そして最後に――黒衣をまとったミルダ・シェランが姿を見せた。

 彼女の目の下には、泣き腫らした痕がまだ残っている。


 ローデリックはその顔ぶれに怯えつつも、どこか安堵の色を見せた。

 「お、おお……来てくれたか、黒獣連合の諸君!」

 「言葉はいらん」ヴァルクの声は低く、震えていた。

 「……“名無し”という剣士を討て。それが貴様の願いか」

 「そ、そうだ! あやつのせいで私の威信は地に堕ちた! あれさえいなければ、私は――」


 「黙れ」


 ヴァルクの声が、火を裂いた。

 その一言で、空気が凍る。

 「貴様にとっては威信だろうが……俺にとっては息子の命だ。」


 ローデリックの顔が強張った。

 ヴァルクの両眼には、獣の怒りが宿っている。

 「息子リドを殺した“名無し”。あの名もなき剣を、俺はこの手で斬る。」


 その背後で、ミルダが静かに唇を結ぶ。

 「……かしら、落ち着いてください。」

 彼女の声は震えていた。

 「リドは……戦って死んだんです。きっと、誇りを持って。」

 「誇りなど要らぬ!」ヴァルクが怒鳴る。

 「俺は父だ! 息子の死を“誇り”で納得できるものか!」


 暖炉の火が揺れ、ミルダの瞳が潤んだ。

 「……私だって、納得なんてしてません。

  だからこそ、あなたの怒りが――わかるんです。」


 沈黙の中、ヴァルクは深く息を吐いた。

 その肩がわずかに震えていた。


 「……そうだな。怒りでしか、生きられねぇ。」


 その時、ローデリックが焦燥の声を上げる。

 「そ、それで……報酬は? 金貨四百、王都商会の取引も――」

 「金などどうでもいい。」ヴァルクの声が鋭く遮る。

 「俺が欲しいのは“首”だ。あの男の、ただひとつの。」


 ドルガが舌打ち混じりに笑う。

 「へっ……血の臭いがしてきたぜ。

  酒と女と殺し――やっぱり俺たちの生きる場所はここだな。」

 「黙れ、ドルガ。」


 だが扉が再び開いた。

 メイド服の少女――リディア・グレイスが盆を抱えて入る。

 「失礼いたします、閣下。お茶をお持ちしました。」


 湯気が立ちのぼり、暖炉の灯が彼女の横顔を照らす。

 ドルガの濁った瞳が、いやらしく光った。

 「へっ……紅茶もいい香りだが、娘の方がずっと甘そうだ。」


 クラウスの手が剣の柄に伸びる。

 「その言葉、二度と娘の前で吐かないことをお勧めします。」

 「おいおい、冗談だっての。」ドルガが舌なめずりする。

 「だが――“今は”冗談でも、いつか本気になるかもな。」


 「ドルガ」ヴァルクが低く唸る。

 「次にその口を開いたら、舌を引きちぎるぞ。」

 「へへっ……了解、かしら。」


 リディアは一歩も退かず、静かに盆を置いた。

 「お茶は冷めます。どうぞ、お早めに。」

 ヴァルクがその強い眼差しに一瞬だけ息を止め、ふっと目を細めた。

 「……黒獅子の娘、か。親に似て、いい眼をしてやがる。」


 クラウスは無言で一礼したが、手はまだ柄を離さなかった。

 暖炉の炎がドルガの牙を照らす――

 まるで“次に会う時は獲物にする”とでも言いたげに。


 ヴァルクが静かに立ち上がる。

 「……取引は終わりだ。俺たちは動く。」

 「よ、よろしく頼むぞ、辺境伯として正式に――」

 「貴族の肩書きなど興味はねぇ。」ヴァルクの声が低く落ちる。

 「俺が動くのは、息子のためだ。それだけだ。」


 ミルダが目を伏せたまま、震える声でつぶやく。

 「……リドが、生きていたら……あなたを止めたでしょうね。」

 「――だからもう、生きていねぇんだ。」


 雪が吹き込み、蝋燭の火が揺れる。

 ローデリックはそれでも、必死に虚勢を張って酒をあおった。

 「私は……間違ってなどいない……!」


 クラウスがその姿を静かに見つめ、ため息を漏らす。

 「……閣下。もう、引き返せませんね。」


 その夜、ベルンハイムに吹く雪は血のように赤く見えた。

 ――黒獣連合の再集結。

 それは父と婚約者の怒りが呼び寄せた、最悪の“契約”だった。

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