1章 閑話《雪明かりの夜》
夜のベルンハイムは、白い息を呑んだように静まり返っていた。
屋根の雪がしんしんと降り積もり、灯のひとつひとつが凍てついた空気を照らす。
その灯を背に、俺は《紫の抱擁亭》の奥の一室で、ひとり煙管をくゆらせていた。
火皿の赤が小さく揺れるたび、煙がふわりと立ち上り、窓に滲んだ月明かりへと消えていく。
指先に残る火の熱だけが、まだ生きている証のようだった。
「まったく……またこんな時間まで起きてるのかい、あんた」
艶のある、けれどどこか疲れた声が背後から降ってくる。
振り向けば、レディ・バイオレット。
深い紫のドレスをまとい、白髪の混じる金髪をゆるく束ねていた。
その仕草一つに、長い年月を生き抜いてきた女の風格がにじむ。
「もう閉めた時間だろう?」
「そうさ。けどねぇ、あんたの煙の匂いが残ってると、どうにも寝つけなくてね」
「そりゃあ悪かったねぇ。俺はてっきり、あんたは夜の王様かと思ってたよ」
「王様なんて柄じゃないよ。母親みたいなもんさ。手のかかる子ばっかりでねぇ」
そう言って、バイオレットは俺の隣に腰を下ろした。
グラスの中の琥珀が、かすかな灯を受けて揺れる。
「街が静かだよ。……雪が降ると、泣く女も笑う女も減るんだ」
「静かな夜は苦手かい?」
「いや、好きさね。ただ、音が消えると、考えたくもないことが顔を出すのさ」
「人を斬った夜ってのは、そういうもんだよ。心が勝手に喋り出すのさ」
バイオレットはゆっくりと酒を口に運び、目を細めた。
「初めてだったんだろう? 血の匂いを嗅いだのは」
「……見りゃ分かるかい?」
「そりゃあ分かるよ。女ってのはね、鈍そうに見えて痛みには敏い生き物なんだ。特に、人の心の痛みにはね」
俺は笑って、煙管の灰を落とした。
「隠したつもりだったんだけどねぇ」
「隠せるもんかい。……あんた、優しい目をしてる。それで刃物なんか持ってりゃ、心が削れるのも当然さ」
「初めてだったんだ。守りたくて斬った。でも、今になって、胸の奥がやけに重い」
「それでいいんだよ。人間ってのは、そうやって苦しんで生きるもんさ。平気な顔して眠れるようになったら、それはもう“人”じゃない」
彼女は立ち上がり、軽く溜息をついた。
「もう寝な。雪がやんだら、また朝が来る。……あんたが倒れたら、この街が泣くんだよ」
「……肝に銘じるよ。おっかさん」
「まったく。いい年して、まだ“おっかさん”に甘えてんじゃないよ」
そう言いながらも、彼女の声にはどこか笑いが混じっていた。
バイオレットは小さく肩を叩き、扉の方へ歩いていく。
「ねぇ、あんた」
「ん?」
「後悔は、明日まででいい。……それ以上抱えてたら、手遅れになるよ」
「忠告、ありがとねぇ」
バイオレットはゆっくりと微笑み、去っていった。
残されたのは、灯の揺らめきと、香る煙の余韻だけだった。
***
火を落とし、寝台に腰を下ろした時、
コン、コン、と控えめなノック音が響いた。
「名無しさん……起きてる?」
クラリスの声だった。
扉を開けると、白い息を吐きながら、彼女が立っていた。
肩までの栗色の髪には雪が少し残り、頬が夜気で赤い。
「もう遅いよ、クラリスちゃん。こんな夜更けにどうしたんだい?」
「……あなたの顔が、どうしても気になって」
「まいったねぇ。俺の顔なんて見ても、安眠妨害だよ」
「そんな冗談、今夜は聞きたくないの」
彼女は椅子を引いて、そっと座った。
静かな夜の中で、俺たちの呼吸音だけが重なっていく。
――この街に来たばかりの頃のことを、ふと思い出した。
何もかもが冷たく、よそ者の俺に声をかける者などいなかったあの日。
唯一、笑って飯を奢ってくれたのがクラリスだった。
その夜、行くあてもなく酔いつぶれた俺を、彼女は自分の部屋に連れていった。
灯りの消えた夜の中で、互いの孤独を埋めるように寄り添った。
あれから三年。
関係は静かに変わり、恋ではなく“信頼”になった。
けれど、その眼差しの奥に、あの夜の温もりは確かに残っている。
「名無しさん、人を斬ったの?」
「斬ったよ。……初めてだった」
「守るためでしょ?」
「それでも、重いよ。刀の重さも、命の重さも」
「……それでも斬った。あなたは、優しい人よ」
クラリスは、俺の指先にそっと触れた。
「ねぇ、今夜だけでいいの。何も言わないで、そばにいさせて」
その声には、涙の代わりに温もりがあった。
俺は彼女の手を包み、軽く引き寄せた。
雪が窓を叩く音と、灯の揺らぎの中で、
――静かに、影と影がひとつになる。
***
朝。
コーヒーの香りが部屋を満たしていた。
寝台の端で毛布を抱くクラリスが、ぼんやりと目を覚ます。
俺は服を整え、カップを二つ並べていた。
「おはよう、クラリスちゃん。……よく眠れたかい?」
「あなたって人は……ほんと、ずるいわ」
「悪い癖さ。朝になると、口が勝手に優しくなる」
クラリスが小さく笑い、視線を壁に向ける。
そこには、二つに折れた剣――リドの剣が立てかけられていた。
「今日、それを?」
「あぁ。鍛冶屋に持っていく。こいつには、まだ続きがあるからねぇ」
***
街の鍛冶屋は、雪を押し分けるように煙を吐いていた。
炉の火が息をするたび、赤い光が揺れる。
「おや、また妙なもん持ってきやがったな。訳ありの匂いしかしねぇ」
老人鍛冶師は折れた剣を手にして、眉を寄せた。
「……見事な切れ口だ。お前さん、いったい何を斬った」
「心を、かな。……あんまり綺麗に割れたもんで、ちょっと惜しくなってねぇ」
「ふん、性分の悪い客だ」
「職人なら悪い性分は褒め言葉だろう?」
「まあな。直せるかは分からんが、やってみるさ」
「頼むよ。この剣には、返すべき相手がいるからねぇ」
鍛冶屋を出ると、外は一面の白。
クラリスが店先で待っていた。
雪を払いながら、微笑んで言う。
「終わった?」
「あぁ。今日は、街をぶらぶらしていこうかねぇ」
「ふふ、誘い方が渋いわね」
「年を取ると、花より雪がよく見えるのさ」
ベルンハイムの市場は雪の中でも賑わっていた。
果実酒の香り、パンの焼ける匂い、笑い声。
そんな日常の中に、静かな幸福があった。
「あなたって、戦いのあとでも優しい目をするのね」
「優しいんじゃなくてねぇ……怖いだけさ。誰かを傷つけるってことが」
「……だから、あなたは優しいのよ」
彼女の手が袖に触れ、すぐ離れる。
「……またギルドでね、名無しさん」
「あぁ。風邪をひかないようにね、クラリスちゃん」
白い息が、二人の間で溶けて消えた。
雪は舞い、足跡を覆い、ただ静かに――世界を優しく包み込んでいた。




