第1章 第5節 紫の抱擁亭の夜
雪の夜のベルンハイムは、まるで世界ごと息を潜めたように静かだった。
街灯が作る淡い光の輪の中を、紫の灯がひとつだけ、ゆらりと揺れている。
――娼館《紫の抱擁亭》。
外の冷たさとは裏腹に、扉を開けるとすぐに柔らかな香と暖炉の音が迎えてくれた。
昼の《金獅子亭》が喧騒の象徴なら、ここは夜の安らぎだ。
「よ、また来たのか、名無し」
低い声が響く。黒豹の獣人、ラグ・ドランガルがグラスを磨きながら振り返った。
「こんばんは、ラグ君。……今夜も相変わらずの静けさだねぇ」
「外は雪だ。静かにもなるさ」
「寒い夜ほど、香りの立つ場所に来たくなるのさ。悪い癖だろ?」
「ま、悪くはねぇ」
ラグは鼻を鳴らして笑う。
二階の手すりから、澄んだ声が降ってきた。
「その“悪い癖”で、何人の娘を落としたのかしら?」
淡金の髪を束ねたエルフ、ティア・メルヴィンが微笑んでいた。
背の弓と矢筒が彼女の生き方を物語っている。
「ティアちゃん、そういう怖い質問は心臓に悪いよ」
「心臓があるなら、ね」
「はは、冗談が冷たいなぁ。雪よりも」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
「おう、また来たのか!」
階段を上がる重い足音とともに現れたのは、カスパル・ローデン。
頑丈な腕で酒樽を担ぎ、戦槌のような笑顔を浮かべている。
「今夜は賭け抜きだぞ。こないだのツケ、まだ覚えてるからな!」
「お前さん、まだ言ってるのかい? あれは勝負というより、運試しだよ」
「それを勝負って言うんだよ!」
「じゃあ、また運試ししてみるかい?」
「冗談じゃねぇ!」
笑いが館に溶ける。
そのとき、奥の扉が静かに開いた。
紫の光が深く揺れ、夜の女王のような女が姿を見せる。
――レディ・バイオレット。
「まぁまぁ……またあんた? ほんと、うちを下宿だと思ってるでしょ?」
「あなたの顔を見ないと落ち着かなくてねぇ。悪い癖さ」
「もう、口が上手いのも程々にしなさい」
彼女はゆっくりと歩み寄り、俺の口元から煙管をするりと奪う。
「……少し、もらうわね」
煙が灯りに溶け、白と紫が混じる。
「やっぱり、あなたの煙は落ち着くわ」
「俺の煙より、あなたの息の方が長いよ」
「ふふ……減らず口は相変わらずね」
ティアが手すりの上でくすっと笑い、
カスパルが「出た、“おっかさんの息子いじり”だな」と呟いた。
ラグは微かに笑いながらも、周囲に気配を張り巡らせている。
暖炉の火がぱちりと弾ける音。
その小さな音の向こうに、街の息遣いが確かにあった。
「そういえばね、名無し。あの盗賊団の件――もう街中が知ってるわよ」
「やれやれ、噂ってのは脚が早いねぇ」
「“双煙の剣聖、北の森で五十人を両断”――そんなふうに言われてる」
「ずいぶん派手な話にされちまったねぇ。
実際は、剣を振った回数なんて数えられるほどだったのに」
「数えられるほどで五十人。……怖いこと言うわね」
「怖くなんてないさ。必要だからやっただけのこと」
「そういうところよ。あんたが怖いのは」
バイオレットは静かに煙を吐き、紫の瞳で俺を見た。
「でも――街を救ったのは事実。
あんたがいなかったら、雪の上は今頃赤に染まってた」
「……そうならなかったのは、みんなが動いたおかげさ」
「ほんと、そういう言い方しかできないのね」
彼女の声は呆れ半分、優しさ半分。
そして少しだけ、母親のようだった。
「それと、もうひとつ」
「うん?」
「――あの領主、動いてるわ」
「やっぱりか」
「やっぱり?」
「ギルドでも似たような噂を聞いたよ。
王都の貴族と繋がって、街の金を裏で回してるってねぇ」
「ふふ、あなたが話そうとしてたこと、もう全部知ってるのよ」
「さすが“夜の母”だねぇ。耳が早い」
「耳だけじゃないわ。目も、舌も、心も、磨いてるの」
「そりゃ敵に回したくないねぇ」
「なら、味方のままでいなさい」
微笑の裏に、静かな圧があった。
彼女の言葉には力がある。
夜を生きる者の、重みのある言葉だ。
「……あの男はね。誰かを守るためじゃなく、自分を守るために動く。
そういう人間がいちばん危ないのよ」
「同感だねぇ。風向きが悪くなったら、人を盾にする」
「それでも、あなたは見捨てないんでしょ?」
「……ま、そんなもんさ。
人を切るより、信じてる方が俺には向いてる」
「ほんと、出来の悪い息子ほど可愛いって言うけど……
あなた、まさにその言葉どおりね」
「ありがたい言葉だねぇ」
煙が、再び紫の灯に混じる。
ラグが見回りに出て、ティアが窓を閉め、カスパルが火をくべる。
館の中には、心地よい静寂だけが残った。
「ねぇ、名無し」
「ん?」
「無茶、しないでね」
「無茶はしないさ。ただ……止まれない時もある」
「ふふ、知ってるわよ」
彼女はそっと煙管を返し、指先が触れた。
その瞬間、ほんのわずかに時が止まったような気がした。
外では雪が舞い、灯りがそれを照らしている。
俺は煙を吸い、静かに吐いた。
「雪の夜は、どうも目に沁みるねぇ」
「それは、煙のせいじゃない?」
「……かもね」
バイオレットは微笑む。
その笑顔が、冬の街のどんな灯よりも、あたたかかった。




