第1章 第3.5節 雪に散る若き剣
夜は深く、雪は静かに降り続いていた。
風の音も、血の匂いも、白の中に溶けて消えていく。
黒地の羽織に笠をかぶった男が、ゆるやかに歩いていた。
腰の左には二振りの刀――黒煙と白煙。
その歩調は、戦場に似つかわしくないほど静かだった。
――名無し。
街では、そう呼ばれている。
遠くに焚き火の赤。
十数の影が雪を踏み荒らしていた。
その中央に、一人の若者が立つ。
背筋は伸び、剣を握る手に迷いはない。
けれど、その瞳の奥には、どこか悲しげな影が宿っていた。
「……おやおや、こんな夜に若い衆とは珍しいねぇ。」
名無しは笠を少し上げ、柔らかに微笑んだ。
「名を聞いても?」
「リド・ザルド。《黒牙団》第二隊を任されています。」
「ほう、律儀だねぇ。」
名無しの声は穏やかで、どこか懐かしさを帯びている。
「おじさん、こう見えて少しばかり腕に覚えがある。
本気でやるのかい? 命を懸けるには、ちと早い年頃じゃないか。」
リドは短く息を吐き、雪の中で言葉を絞った。
「……俺だって、本当は盗賊なんてやりたくない。
でも、父の団に生まれた以上、逃げられないんです。
この街を奪えば、父も団も俺を認めてくれる。
そうすれば、ようやくあの人――ミルダを迎えられる。」
名無しの目が細まり、笠の影が深くなる。
「愛する人のために剣を振るう、か。
ふふ……悪くない理由だねぇ。
けどね、若いの。女を想うなら、死んじゃいけない。」
風が止んだ。
雪が世界を包み、息を飲むような静寂が満ちる。
リドが踏み込む。
剣が閃き、鋭く空気を裂く。
二合、三合――その剣は真っ直ぐで、誠実だった。
だが、名無しはその中に潜む“ためらい”を見抜いていた。
踏み込みのわずかな遅れ、刃の震え。
若者の心が揺らいでいる。
「……悪くない。迷いながらも、優しい剣だ。」
名無しは小さく息を吐き、黒刀の柄に手を添えた。
「じゃあ――おじさんも、本気でいくよ。」
その言葉と同時に、黒刀が鞘走る。
金属の澄んだ音が、夜気を切り裂いた。
一瞬――世界が、白と黒に分かれた。
リドの剣が鳴動したかと思うと、柄の根元から真っ二つに割れた。
そのまま、切っ先が胸元を掠め、血の線が走る。
音が、消えた。
風も雪も、止まっていた。
リドはその場で膝をつき、震える唇でかすかに言葉を漏らす。
「……ミルダ……すまない……」
その声は、雪に吸い込まれるように消えた。
そして、静かに倒れ込む。
――剣も、心も、同時に折れたかのように。
盗賊たちは息を呑み、次の瞬間には絶叫していた。
「リド様がやられた! 逃げろッ!」
蜘蛛の子を散らすように闇へ消える。
名無しは笠を傾け、静かに青年を見下ろした。
まだ、胸が上下している。
「……急所は外れてる。やれやれ、手が勝手に加減しちまったねぇ。」
外套を脱ぎ、リドの身体にかける。
雪の中で、彼は小さく呟いた。
「惚れた女を想う男を、雪の下に埋める趣味はないさ。」
そして、静かに青年を抱き上げた。
――夜明け前。
金獅子亭の裏口。
扉を叩くと、グレンが現れた。
鎧にはまだ戦の土が残っている。
「……名無し? その背中のは……!」
「少し手を貸しておくれ。息はある。まだ間に合う。」
グレンは黙り込み、ただ頷いた。
その瞳に宿るのは、驚きでも怒りでもなく――静かな哀しみ。
何も言わず、扉を開ける。
ヘザーが駆けつけた。
「ちょっと! また厄介なのを拾ってきたね、あんたたち!」
「助けてやっておくれ。」
名無しは笠を取り、静かに頭を下げる。
「死にきれなかった命さ。まだ若い。」
ヘザーは短く舌打ちをし、すぐに表情を引き締めた。
「まったく……。グレン、誰にも口外しないこと。混乱になるだけよ。」
グレンは無言のまま頷き、扉を閉めた。
ヘザーが包帯を取り出し、血を拭う。
名無しはその様子を見ながら、低く呟いた。
「……本当は、あの子も盗賊なんてしたくなかったんだ。
迷いながら、それでも剣を振ってた。」
ヘザーはちらりと名無しを見る。
「……あんた、そういうところが人を惹きつけるんだよ。」
名無しは軽く笑った。
「優しさなんてねぇ、自分への言い訳さ。
それでも、見捨てるよりはましだろ?」
包帯を締め終えると、ヘザーが息をついた。
「……命は取り留める。だけどしばらくは動けないね。」
「助かるよ、ヘザー。」
名無しは笠を手に取り、軽く頭を下げた。
グレンが無言で斧を肩に担ぐ。
刃に映る灯火が、鋭く光った。
その目には、深い静けさと覚悟が宿っている。
名無しが背を向け、羽織を整える。
「残りがまだいる。少し歩いてくるよ。」
グレンは何も言わずに頷いた。
二人の間に、言葉は要らなかった。
扉が軋み、外の冷気が流れ込む。
笠の下で、雪明りがゆらめいた。
名無しは煙管を取り出し、火を灯す。
ひと息、白い煙が闇に溶ける。
「まったく、夜明け前にしては騒がしいこったねぇ。」
軽く笑いながら、笠を深く被る。
その隣で、グレンは肩の斧をゆっくりと構え直した。
寡黙な背中から、熱を帯びた闘気が立ち上る。
二つの影が、雪の夜へと消えていった。




