第1章 第2節 金獅子亭の午後
昼下がりの《金獅子亭》は、相も変わらず賑やかだった。
冒険者たちの笑い声、木製の椅子のきしみ、そして香ばしい肉とスープの匂いが立ちこめる。
ベルンハイムで一番大きなギルド兼酒場――この街の心臓みたいな場所だ。
カウンターの奥で、ヘザー・ハロルドが大鍋をかき混ぜながら怒鳴った。
「ほらほら! 文句言う前に皿運びな! うちじゃ喧嘩より働く方が先だよ!」
その声で喧騒が一瞬止まり、すぐに笑いと「へいへい!」の返事が飛ぶ。
この人の声には、不思議と人を動かす力がある。
怒鳴っても嫌味がなく、むしろみんな嬉しそうに働くのだ。
俺は窓際の席でコーヒーを啜りながら、その様子を眺めていた。
「……今日も平和だねぇ」
「おや、名無しさん。またサボってんのかい?」
ヘザーが笑いながら近寄ってくる。
腰に手を当てたまま、堂々とした立ち姿。
彼女が来ると、場が少し明るくなる。
「サボりじゃないよ。コーヒーは仕事みたいなもんでねぇ」
「はいはい、口だけは一丁前。あんたの“仕事”は飲んで、吸って、口説くことだろ?」
「全部、円満な社会を作る秘訣さ」
「屁理屈言うんじゃないよ、まったく!」
ヘザーは笑いながら俺の肩を軽く叩く。
力強いのに、痛くない。
まるで母親に叩かれたみたいな、不思議な温かさがあった。
そのやり取りを見ていたのか、看板娘の一人――クラリスが、ワイングラスを磨きながら小さく笑った。
「あなた、本当にヘザーさんにだけは勝てないのね」
「そりゃそうだよ。あの人に逆らえる男がいたら見てみたいねぇ」
「ふふ、グレンさんでさえ尻に敷かれてるものね」
「お互い幸せそうで、何よりだよ」
そこへ、帳簿を抱えたセリアが割り込む。
「またサボってる……。ほんっと、あんたって人は。少しは働いたらどうなの?」
「コーヒー淹れた後は休憩時間なんだよ」
「いつまで休憩してんのよ。三年も前から休憩してるじゃない」
「三年も休憩してる人間が他にいるなら、ぜひ会ってみたいねぇ」
「もう……!」
セリアが呆れたようにため息をつくと、ヘザーが笑いながら声をかけた。
「セリア、そんなに怒んなさんな。あんたが眉間にシワ寄せてたら、客が怖がるよ」
「……気をつけます」
「うんうん、いい子だ」
――ほんと、このギルドはヘザーが太陽みたいなもんだ。
怒鳴り、笑い、全部ひっくるめて人を明るくしてくれる。
そんな中、入口の方で騒ぎが起きた。
酔っ払いの男が、新人の給仕――エリシアに絡んでいる。
「なぁなぁ、もう一杯付き合えよ、可愛いじゃねぇか」
「や、やめてくださいっ!」
その声を聞いた瞬間、俺は立ち上がっていた。
「おっと、ああいうのは放っとけないねぇ」
近づくと、男が俺を見て鼻を鳴らした。
「なんだ、おっさん、邪魔すんなよ」
「いやいや、若い子が困ってる時は、年の功で割って入るのが礼儀ってもんだよ」
「うるせぇ!」
男の拳が振り上がる。
その瞬間――俺はコーヒーを片手に、その腕を軽く受け流し、指先でテーブルの端を弾いた。
「っと」
次の瞬間、男は腰を抜かして床に尻もちをつく。
「い、痛っ……!」
「おっと、テーブルが可哀想だねぇ。大丈夫かい?」
エリシアがきょとんとした顔で俺を見上げる。
「だ、大丈夫です……! ありがとうございます、名無しさん!」
「怖かっただろう。けど、無事ならそれでいい」
男が逃げ出した後、ヘザーが声を張り上げる。
「はいはい! もう喧嘩は終わり! ついでにそのテーブル、名無しさんが直しときな!」
「俺が?」
「当然だろ。原因はあんたみたいなもんなんだから!」
「はは、肝っ玉女将には敵わないねぇ」
「分かってりゃいいの!」
周囲が笑いに包まれる。
エリシアは頬を赤らめたまま、そっと礼を言った。
「……本当に、ありがとうございました」
「気にしないでいいよ。可愛い子を助けるのは、年寄りの特権だからねぇ」
「えっ、年寄り……? そ、そんなふうに見えません!」
「はは、いい子だねぇ」
クラリスが少し離れたカウンターで微笑み、セリアは呆れた顔で首を振る。
ヘザーは両手を腰に当てて言った。
「ったく、うちは冒険者ギルドなんだか、保育園なんだか分かんないね!」
「どっちも守るのが肝っ玉女将の仕事でしょ?」
「うるさい! ほら、働け、コーヒー野郎!」
笑い声が広がる。
雪がちらつく午後、金獅子亭の中だけは、いつも通り暖かかった。




