第1章 北方の街ベルンハイム 第1節 雪の下の火
……寒い。
目を開けると、白い。あたり一面が、真っ白だった。
雪だ。
それにしても、冷えるねぇ。転生ってのはもっとこう、温かいもんだと思ってたんだけど。
羽織の袖で顔を覆いながら立ち上がる。
足元の雪を踏む音だけが静かに響いている。
笠の縁を指で持ち上げると、見えるのは無限に続く白銀の大地。
「……ま、どこに落とされても、文句は言えないか」
肩をすくめた時、遠くから轟音が聞こえた。
風の中に混じる、咆哮。
……獣の鳴き声だ。しかも、でかい。
雪煙を上げて走る男の姿が見えた。
後ろから追うのは、馬よりも大きな熊――氷の鎧を纏った魔獣。
北方にしかいないはずの魔物が、よりによって目覚めたばかりの俺の目の前を通り過ぎようとしていた。
「はぁ……転生初日から熊狩りとはねぇ」
腰の刀に手を添える。
腹は減ってるし、正直動きたくもないけど……見殺しってのも寝覚めが悪い。
吹雪の中、剣を構える男の顔が見えた。
鋭い目をしてる。だが息が荒い。
「くそっ、やべぇな……!」
どうやらもう限界らしい。
熊が腕を振り下ろす。
地面が裂け、雪が弾けた瞬間、俺は一歩前に出た。
――風が止む。
刀を抜いた覚えはない。
ただ、少し腕を動かしただけだ。
時間が動き出した時、熊の首は滑るようにずれて落ちていた。
雪の上に影が落ちる音だけが静かに響く。
「……なっ……いつの間に……!」
剣を構えていた男が、目を見開いて立ち尽くしている。
「いやぁ、腹が減ってる時に暴れる熊は、見てて食欲がなくなるんだよね」
冗談めかして言いながら、鞘に刀を戻す。
金属の響きが雪の世界にやけに澄んで響いた。
熊は、自分が死んだことすら理解していないのか、崩れ落ちる瞬間まで立っていた。
「お、お前……今の……」
「ん? 熊退治」
「抜いた瞬間、見えなかった……」
「見えない方がいい時もあるさ」
口にくわえた煙管に火をつける。
炎が短く揺れ、紫煙が白い空に溶けていった。
「ふぅ……まぁ、助けたのはいいけど、こっちが倒れそうだ」
次の瞬間、視界が揺れた。
足元がふらつき、雪の冷たさが頬を打つ。
「おい! 大丈夫か!?」
声が遠い。
あぁ……飯、食ってないんだった。
そこで意識が途切れた。
***
気がつくと、天井があった。
木の香り、焙煎豆の香り……それに、焚き火の音。
見知らぬ宿の一室らしい。
「……よう、目ぇ覚めたか」
声の主は、あの大剣の男だった。
今は鎧を脱ぎ、包帯姿で椅子に腰掛けている。
「命の恩人を雪の上に置いとくわけにもいかねぇからな」
「気を使わせたねぇ。助かるよ」
体を起こすと、男が苦笑した。
「お前、いったい何者だ?」
「ただの旅人さ。名前も思い出せない。だから、好きに“名無し”って呼んでくれ」
「名無し……か。変な奴だな」
「よく言われるよ」
男は豪快に笑い、手を差し出した。
「グレン・ハロルド。S級冒険者だ」
「へぇ、それは頼もしい。今後ともよろしく、グレンさん」
握手した瞬間、焙煎豆の香りが強くなった。
どうやら近くの部屋でコーヒーを淹れているらしい。
「……いい香りだねぇ。酒より、ずっと好みだ」
「酒じゃなくて豆が好きとは、ますます変わってるな」
「生まれつきだよ」
そう言って笑うと、グレンも笑った。
外では雪が降り続いていた。
暖炉の炎がぱちりと弾け、静かな夜が広がる。
――それが、俺とグレンの最初の出会いだった。




