第2章 第3節《雪に沈む村》
山風が唸り、白い嵐が峰を覆う。
黒い影が空を裂き、落雷のように咆哮を響かせた。
――ワイバーン。
獣とも竜ともつかぬ異形が、翼をすべり落ちてくる。
その爪は岩肌を裂き、息は凍てついた空気を砕く。
「いやぁ、朝の挨拶にしては騒がしいねぇ」
黒い和服に笠を被り、
俺はただ立っていた。
ワイバーンが翼をたたみ、突進。
爪が迫る――
……風が止んだ。
次の瞬間、
ワイバーンの首だけが、すれ違うように地へ落ちていった。
黒煙は、すでに鞘へ戻っていた。
「ごめんよ。
急いでるんだ。寝起きの悪い子とは、長話できない性質でねぇ」
残り香のように血の匂いが雪へ溶け、
俺は首を回収し街へ向かう。
*
《金獅子亭》
暖炉の明かりが赤く揺れ、
賑やかな声が店いっぱいに広がっていた。
「おかえりなさい、名無しさん。
また変な倒し方したんでしょ?」
艶のある黒髪を揺らし、クラリスちゃんが目を細める。
「変とは失礼だねぇ。ちょっと挨拶をしただけさ」
「挨拶で倒れる魔物なんて聞いたことないわよ、あなた」
「知らないままでいた方が、楽に生きられるよ」
「ほんと、そういうところがずるいんだから」
からかうように見つめられ、
俺は肩をすくめて煙管をしまった。
その時。
「……戻ったのか」
カウンター奥からグレンが顔を出す。
いつになく重い表情をしていた。
「どうしたんだい、グレン。
またヘザーちゃんを怒らせた?」
「怒らせてねぇよ……。
アルディス村の救援にブラッドホークを送ったが、まだ戻らねぇ」
――嫌な風だ。
「ブラッドホークが?」
クラリスが息を呑む。
店の奥では、帳簿を抱えたセリアちゃんが落ち着かない様子で扉の方を見ていた。
腕を組み、俯いたまま――しかし足先はそわそわ揺れている。
「……セリアちゃん」
「な、なによ」
「お父さん――ガレスさん、まだ帰ってないんだって?」
「……っ」
一瞬、弱い光が瞳に滲んだが
すぐに強がるように顔を背けた。
「べ、別に心配してないわよ。
あの人、昔っから無茶ばっかりしてるんだから」
声は震えていた。
俺は、静かに頷く。
「じゃ、行ってこようかねぇ。
どうにも胸騒ぎがする」
セリアはふいと顔を背け、
「す、好きにすれば。
べ、別に……あんたなんか、頼りにしてないし」
言葉と裏腹に、
その小さな声は祈りに似ていた。
グレンは深く息を吐く。
「悪いが……行ってくれ。
嫌な予感がする」
「任せなよ。
俺も――気になる」
笠を整え、寒風の中へ。
外では静かに雪が降り続いていた。
アルディス村へ着いた時――
そこはすでに終わっていた。
家は燃え崩れ、雪は黒く焦げ、
白と赤が混ざり合っていた。
「……ひどいねぇ」
風に乗って、呻き声がかすかに残る。
足元で誰かが動いた。
駆け寄ると、血まみれの男――
「……ガレス」
片腕――右腕が、ない。
「――な、なし……さん……」
かすれた声が俺を呼ぶ。
「喋らなくていい。今、助け――」
ガレスは首をゆっくり横に振った。
「へ……へへ……
見苦しい姿だろ……」
微笑もうとするが、
唇から血が零れる。
「セリアが……小さい頃……
震えて泣いて……
手を握ってきてな……
言ったんだ……」
肩から落ちた左手が、
それでも空へ伸ばそうとする。
「『父ちゃんの手は、あったかい』……ってよ……
だから誓ったんだ……
この腕で……守るって……」
彼の右肩。
肉は裂け、骨は露出し、雪に赤を広げていた。
「でもよ……
守れなかった……
セリアの未来を、
見てやれなかった……」
血が雪へ落ちていく。
「最後に言う言葉が……
“ごめん”なんてよ……
……父親、失格だよな……」
「そんなことはないさ」
俺は静かに言う。
笠の影で、目を伏せながら。
「あんたは……
ちゃんと守った。
次は――俺がやる」
ガレスは、かすかに笑った。
「……セリアを……
頼んだ……」
指が、空を掴む。
その手は、
娘に伸ばすように――
静かに止まった。
「――……あぁ。
任されたよ」
俺はそっと、
その手を胸元に置いた。
白い雪が降り積もり、
彼を包み込む。
風が鳴った。
ザッ、ザッ……
雪を踏みしめる足音が近づく。
五つの影。
その先頭の男が、
死体を見て鼻で笑った。
「おーおー、終わってんじゃねぇか。
いい景色だな?」
細身、二本の短剣、
薄ら寒い笑み。
「俺はロート・グラッド。
黒牙の副官だ。
覚えとけや」
俺は笠を少し押し上げる。
「へぇ、挨拶ができる子は嫌いじゃないよ」
「チッ、茶化してんじゃねぇ。
なぁ――こいつ見ろよ」
ロートは足で、
ガレスの左手を小突いた。
「この村を守るって豪語してよぉ、
だから腕、切り落としてやったんだよ。
ヒーロー気取りの間抜けがよ」
四人の手下が笑い出す。
「片腕ねぇ……
どんな気持ちだったと思う?
“助けてくださぁい”って泣いて――
最後は女と子供を庇って、犬死にだ」
――カチン、と何かが切れた音がした。
「……そうかい」
黒煙に触れた――瞬間。
ロートの右腕が、肩から飛んだ。
雪を赤く散らし、
腕は短剣を握ったまま転がる。
「――は?」
理解が追いつかない。
遅れて、叫びが爆ぜた。
「ぎゃあああああああああ!!」
ロートが膝をつきながら、
断面を押さえ、もがく。
俺は歩いた。
ゆっくり、確実に。
「守ると言った腕を、切ったんだってねぇ」
「ッざ、けんなッ……
テメェ……!」
「じゃ――返しとこうか」
四人の手下が飛びかかる。
白煙が、半身だけ抜かれる。
風が逆巻き、
雪が舞い、
四つの影が――
音もなく崩れた。
残ったのは、ロートひとり。
「ひ……ひぃ……
まっ、待て……
待ってくれぇ……!」
喉元に黒煙が添えられる。
「痛みは――しばらく残る。
反省する時間くらい、必要だろう?」
「や、やめ――」
黒煙が沈み。
ロートの命は、風へ飲まれた。
雪だけが静かに降り続く。
俺は、ガレスの左手を見下ろし、
囁いた。
「……あぁ。
任されたよ、父さん」




