第2章 第2節 《黒き獣の影》
夜のベルンハイムは、雪に沈んでいた。
通りの灯が凍てついた風に揺れ、遠くで鐘の音が淡く響く。
そんな中でも、《紫の抱擁亭》の明かりだけは、冬を追い払うようにあたたかい。
暖炉の火がぱちぱちと鳴り、紅茶の香りが部屋に満ちている。
テーブルをはさんで向かい合うのは、紫の衣を纏った女主人――レディ・バイオレット。
その向かいに、神妙な顔で腰を下ろした俺とグレン。
隣では、ヘザーが腕を組みながら気まずそうに笑っていた。
「……ありがとう、ヘザー」
バイオレットの声は穏やかだった。
「いえ、あたしは別に。ただ、気になっただけさ」
「気にしてくれて助かったわ。あなたは本当に真っすぐね」
ヘザーは頬をかき、どこか照れたように笑う。
――けれど、穏やかな空気はそこまでだった。
「……で、あなた達」
その声音に、グレンの肩がぴくりと動いた。
「……や、やっぱり、そうなるか」
「お説教の時間よ」
俺とグレンは姿勢を正す。
ただ、グレンの方はどこか所在なげで、落ち着かない。
「な、なぁ、バイオレットさんよ。俺ら、悪気があったわけじゃ――」
「悪気がなければ、何をしてもいいと思ってるのかしら?」
「……う、うぐっ……」
完全に言葉を詰まらせた。
彼の額には、戦場でも滅多に見ない種類の汗が滲んでいる。
「情に流されたって言えば、少しは情状酌量されるかねぇ」俺が肩をすくめる。
「情は尊い。でも、それを理由に動くのは愚かよ」
「そりゃ、ごもっともで……」
グレンが蚊の鳴くような声で呟いた。
バイオレットは指先でカップをなぞりながら、静かに続けた。
「あなた達が助けたその子。あのまま見捨てられなかった気持ちは分かる。
でもね――街を守る人間が、感情で動いたら秩序は崩れるの」
「……はい、すみません」
「はい、じゃないわ。分かっているなら、もう二度としないこと」
「……肝に銘じます」
横でヘザーがくすっと笑う。
「ふふっ、二人とも叱られてる時の顔が、ほんと子供みたいだねぇ」
「笑い事じゃないよ、ヘザーちゃん」
「“ちゃん”付け禁止!」
「はは、母と娘の板挟みは怖いねぇ」
「誰が娘だい!」
そのやり取りにバイオレットが小さく笑い、
「まったく……この街はいつまで経っても落ち着かないわね」とため息をつく。
笑いが静まり返ったあと、彼女は声を低くした。
「――それで、黒獣連合のこと。最近の動き、聞いてる?」
グレンがびくりと反応する。
「お、おう……えっと、傭兵を集めてるって噂は聞いたが……」
「ええ。ヴァルクが名を掲げ、北をまとめ上げている。
旧盗賊団を束ね、今は四つの部隊を持つわ。
『黒牙』『鉄槌』『銀棘』『影牙』――総勢三百以上。
もはやただの盗賊団じゃない。軍よ」
「三百……」グレンが喉を鳴らす。
「しかも、資金の流れが妙なの。王都の貴族が商会を通じて金を流してる。
表向きは交易だけど、実際は武器と補給物資の支援よ」
「つまり……あの領主が?」
「断言はしない。でも、彼の周辺が動いているのは確か」
グレンは目を逸らし、手を膝に置いた。
「……面倒なことになりそうだな」
「もう、なっているわ」
バイオレットの声が、静かに重く落ちる。
「それだけじゃないの。ヴァルク……息子を亡くしたみたいよ」
その言葉に、グレンがわずかに息を呑む。
俺は煙管をくわえたまま、視線を落とした。
「息子を、ねぇ……」
「ええ。しばらく探していたけど、もう“死んだ”と吹聴している。
親としての感情が残っていたのなら……今のヴァルクは、かなり危険」
バイオレットは紅茶を置き、指で机を軽く叩く。
「怒りも悲しみも、行き場を失えば暴力になる。
この冬の間に牙を研ぎ終えた黒獣連合が、雪解けと同時に動くわ」
暖炉の火がぱちりと鳴る。
俺は静かに煙を吐いた。
「嫌な予感しかしないねぇ。血の匂いが近い」
「それを止めるのが、あなた達の役目でしょ?」
「ええ、ええ……」グレンが弱々しく返す。
「よろしい。返事が素直で何より」
「お、俺、ほんとに苦手なんだよな……この感じ」
「そりゃそうさ。母親に叱られて強い男なんていないよ」
「お前な……」
バイオレットが立ち上がり、いつものように俺の煙管を奪って一口吸う。
「……あなたの煙、今日は苦いわね」
「血と雪の匂いが混ざってるからさ」
「ふふ、減らず口」
コートを羽織り、振り返らずに言う。
「――守るべきものを間違えないで。それだけは忘れないでね」
そう言って出ていった。
扉が閉まったあと、静けさが戻る。
「……なぁ、グレン」
「なんだよ」
「母親に怒られるのって、悪くないねぇ」
「お前なぁ……俺はもう、心臓がもたねぇ」
「じゃあ次は先に謝っときな。怒られる前に」
「……それで許してくれるなら苦労しねぇよ」
ヘザーがため息をついて笑う。
「まったく……どっちも懲りないねぇ。でも、嫌いになれないよ」
外では、雪が深く降り積もっていた。
白い静寂の底で、黒き獣たちは確かに牙を研ぎ続けている。




