片鱗
「肇せんせーい、またねー」
「気を付けて帰ってね、凛」
「先生、私も帰るね、ばいばい」
「えぇ、次はちゃんと宿題やってきてね、まみ」
「はーい」
「僕も今日は早く帰るね! じゃあね鍋島先生!」
「あぁ、さようなら太一。和恵さんと摩那さんによろしくね」
黒板に書いたチョークの文字を消しながら、教室を去って行く生徒たちに挨拶をする。
鍋島はなるべく塾では生徒たちを下の名前で呼ぶようにしている。
名字が被っている生徒がいることもあるし、親しみやすさの演出でもある。
鍋島は自分でも自覚しているが、一目見て誰にでも好かれるような顔立ちではない。
表情が乏しく顔の動きが分かりづらく、一重の目は威圧感を与えてしまうからだ。
大人だけを相手にするならば、それでも別に問題はなかった。
変な輩に絡まれることもないし、距離を感じるが見た目だけで拒否されることはあまりないからだ。
ただ、小学生はそうではない。
顔が怖いと泣かれることもあるし、何かをするように指示すると脅しているかのように受け取られてしまう。
それではまずいと、鍋島は思いつく限りの工夫をしている。
名前で呼ぶことも、礼儀正しく接することも、その一環である。
一年かけてようやく自分の生徒たちには信頼してもらえるようになって、気楽に挨拶をしてくれるような仲にはなれた。
先生、そう呼ばれることに恥ずかしさは覚えるが、まぁ悪くない。
『鍋島君ね、いいよ。立花君の紹介なら信頼できるしね。君には小学生を受け持ってもらおうかな』
『小学生ですか? 中学か高校の方が良いと思うんですけど......』
『長年の勘が言ってるんだ。君は子どもに好かれるタイプだねって』
初めて塾に来た際の塾長の言葉が脳裏に蘇る。
……好かれるどころか、目すら合わせてもらえなかったんだが?
教材をまとめて教室を後にし、職員室に戻ると定位置でいつものように塾長がマグカップ片手に座っていた。
部屋に入ってきた鍋島を見ると、人の良さそうな顔に笑みを浮かべて話しかけてくる。
「やぁ、鍋島君、お疲れ様」
「......塾長って、適当ですよね」
「おっと、藪から棒だね。これでも人を教え導く立場だよ? それなりの真面目さでは生きてるつもりなんだけどな」
「いえ、自分が小学生が担当な事も、立花さんが野放しなこともふと気になりまして」
「立花君はねぇ、下手に管理しない方がいいタイプでしょ。型にハマらない良さってやつだよ」
「はぁ、そういうものですか......その立花さんは?」
「生徒たちと蛍を見に行くって、さっき出ていったよ」
「蛍って、もっと夏の時期じゃありませんでしたか?」
「今年は暑いから、もういるんじゃないかな? 時期はズレてるね、確かに」
自由が過ぎるな、塾長も立花さんも生徒も。
プラモデルが日に日に増えていく隣の机に、ため息をついてから自分の席に腰を下ろした。
その様子がなにかおかしかったのか、喉を鳴らしながら塾長が目を細める。
「なにが面白いんですか?」
「いや、やっぱり君に小学生の担当をしてもらってよかったなって。僕の見る目は間違ってなかったなぁ」
「どうしてそういう結論になるんです?」
「だって、楽しそうだよ。鍋島君」
「楽しそう、ですか? 私が?」
「君も、生徒もさ。あぁ、でも立花君みたいに自由になりすぎないでほしいな。さすがに小学生を夜連れまわすのマズいからね」
「なりたくてもなれませんよ。それに中学生でもマズいと思うんですけど」
「あはは。それもそうだ」
楽しそう。
そう言われてもピンとくるものはあまりなかった。
少しだけ考えて、日常に入り込んできた明るく笑う少女の姿が思い浮かんだ。
……摩那の影響を受けているのかもしれない。
いつも明るく騒がしい彼女と接しているうちに、自分も感化されてきたようだ。
未だに摩那の言う走る楽しさはよく分からないが、それもいつか分かる日がくるのだろうか。
分からない、鍋島には分からない。
それでも、悪い気分ではなかった。
「そういえばさ、家庭教師はどうなの鍋島君。順調そうかい?」
「ダメそうです」
「えぇ......大丈夫なのかいそれは」
「さぁ?」
「......鍋島君もいい感じに、適当になってきたね」
誉め言葉なのか貶されているのか、判断がつかなかった。
苦笑した塾長はそれっきり何も言わず、コーヒーを啜るだけだった。
***
当たり前の話だが、摩那も鍋島にも日常生活がある。
陸上のことだけを考えればいいわけではなく、一日の割合で考えれば練習に充てられる時間は限られたものになる。
二人で時間のすり合わせをした結果、練習場で専門的な練習ができるのは学校が終わるのが早い水曜日と、休みである土曜日日曜日になった。
それ以外の日は摩那の家でできる練習かロードワークをすることにした。
今日は、初めて練習場で行う専門的なトレーニングの日だ。
「どうですかコーチ! カッコよくないですか、この姿!」
「似合ってるんじゃないですか?」
「むぅ、なんか投げやりですね。もっとしっかり見てくださいよ。真剣に選んだですから!」
ウォーミングアップを済ませ、インターバルトレーニングに入る前の摩那が胸を張る。
本格的な練習にテンションが上がったのか、摩那の服装はいつもの黒いジャージではなかった。
腕、肩、腹、太もも、あらゆる場所が露出した、いわゆるセパレートと呼ばれるユニフォームを着た摩那が、感想を求めて堂々と立っている。
引き締まった健康的な四肢が、隠されることなく青空の下に晒されていた。
ユニフォームが黒色のためか、肌の白さがいっそう強調されている。
しっかり見たところで、鍋島にとって真新しい光景ではないので思ったことをそのまま口にする。
「練習用と本番用でユニフォームは分けた方がいいですよ。トップスは特に着替えが大変なので、練習はTシャツでいいですよ」
「え? そうなんですか......じゃなくて、ユニフォームを着た私についての感想が欲しいんですよ、コーチ!」
「そうですね......見た目だけなら陸上選手に見えますよ。それも、速い選手の雰囲気だけはあります」
「......なんか、すごい慣れてませんか? こう、もっと赤くなってドギマギするコーチを見たいんですけど......」
「私が何年陸上やってたと思ってるんですか。見慣れてるに決まってるでしょう。むしろ、摩那さんは恥ずかしくないんですか? 普通に考えたら、アホみたいな露出度だと思うんですけど」
「いつも通りのコーチの顔を見ていたら恥ずかしくなってきました......うぅ、鏡で見たときはカッコよかったのになぁ……」
「カッコいいカッコ悪いで言ったら、カッコいいですけどね。特別な感想が出るかといえば、別に......あ、摩那さん肌白いですね」
「そんな取って付けたような感想嬉しくないですよ! 褒められた気がしません!」
先ほどのどや顔はどこかに消えて、摩那は真っ赤に恥ずかしそうになった表情で叫んでいる。
布面積だけでいえば、学校指定の水着よりはるかに少ないのだ。
常人は恥ずかしがるのが普通だ。
新しいウェアというものに心が踊りすぎて、客観的に見たときの露出度が摩那の頭からは抜けていたようだ。
露わになった首元も真っ赤になっており、すぐに色が変わる様は見ていて面白い。
それはそれとして、別に肌について言及したのは褒めたかったからではない。
「摩那さんって、日焼け止めなんか塗ってたりします?」
「そういうのは特にしてないですよ。私も太一も、お母さんに似て色素が薄い体質なんです。兄は父に似たので、すぐ日焼けして真っ黒になるんですけどね。なんですかコーチ、私の美白に目を奪われましたか?」
「いえ、そういうわけじゃありませんよ。とりあえず、これ塗っておいてください」
そう言ってバッグの中からチューブ容器を取り出して摩那に渡す。
鍋島は基本的に使わないものだから、良し悪しが分からずにとりあえず薬局で買ったものだ。
「日焼け止めですか。へぇー、コーチも日焼けを気にするんですね。あれですか、美容男子ってやつですか?」
「何言ってるんですか。摩那さん用ですよ、それ」
「え? 私に?」
「色素が薄い人は紫外線に弱いですからね。そのまま練習したら次の日は真っ赤になりますよ、肌」
「そうなんですか。でも、これから汗をかくのに意味あります?」
「しないよりはマシでしょう。日焼けはそれだけで体力を持ってかれますよ。今は高校球児が日焼け止めを塗る時代なんですから」
少し前に、ニュースで甲子園の強豪校のルーティンとして、練習前に日焼け止めを塗ることが報道され話題になっていたのを思い出す。
その時は日焼け止めの効果が主ではなく、昔と今の練習風景の変わり様として報道されていたけれど。
鍋島には、練習に対する強い主義主張はない。
速くなるために、個々人に最適なものを使えばいい。
水を飲むなだとか、真っ黒になるまで外で走ってこそ一人前だとか、そういった形式的な考え方は教わっていない。
そういった古のスポ根を否定するつもりはない。
ただ、強要するつもりもない。
教える立場の人間が、根性論を振りかざすのは怠慢だと思うからだ。
教えるのならば、その時代その人にあった最適なものを提示するべきだ。
日焼け止めが有効と判断したから使う、それだけだ。
「それを塗って、水分補給したら、行きましょうか」
「はい。日焼け止め、ありがとうございますね」
「気にしなくていいですよ。無駄な体力消費をする余裕はありませんからね」
「うひゃー、相当きついんですね、これからする練習。怖くなってきたなー」
そういう摩那の顔には、怯えや後悔とは真逆の表情が浮かんでいた。
まだ少しだけ赤い頬は、きっと興奮の色だろう。
古の根性論を強要するつもりはない。
ただ、望まれるのならば話は別だが。
「手加減とかいりませんからね! ビシビシやってくださいよ、コーチ!」
「最初からそのつもりはありませんよ。勝ちたいんでしょう? 甘えたことはやってられませんからね」
「いいですね! 青春って感じがしてきましたよ」
「練習が終わったときに、そのセリフがもう一度言えたらいいですね」
「言えるかどうか賭けます? もちろん私は言える方で!」
「賭け事は犯罪なのでしません」
「……コーチって、地味に変わってますよね。生真面目すぎるというか、硬すぎるというか。友達いますか?」
「......さぁ! 練習しますよ!」
「あ、いないんだ」
自分のどこが、変だというのだろうか。
至極当然のことを言ったつもりだったのだが、摩那は半目でこちらを見つめている。
……今はいいか。
練習中に雑念があるのはよくない。
頬を軽くはたき、声上げる。
「5レーン、200mいきまーす!!」
「い、いきまーす!」
呼応するように摩那の声がする。
どのレーンで何をするか声を上げるのは、不意の衝突を防止するための練習場のマナーである。
自分たち以外に人はいないが、癖付けするために普段からすることに越したことはない。
「よーい、はい!」
トラックに、二つの影が走り抜ける。
一つは流麗に、一つは不格好に。
しばらくの間、その影たちは付かず離れずの距離で走り続けていた。
***
「はぁっ、はぁっ......はー、インターバルって、思ったよりきついですね……体よりも、肺とか内臓がぐっちゃぐっちゃになってる気がします」
「有酸素運動は継続的にやってきたでしょうが、ダッシュのような無酸素運動はほとんどやっていなかったようですからね。当然です。むしろ、よく最後までやりきりましたね」
「最初の練習から、ついていけないのは、嫌じゃないですか!」
タータンの上で、両ひざと両手をついた摩那が荒い息を繰り返している。
200mのダッシュをし、またスタート地点までゆっくりと走って戻る。
一回だけなら大したことのないこの練習は、十五回も行われた。
初めてのインターバルトレーニングだったので、後半の五回はついてこれない可能性も考えていたが摩那は最後まで鍋島の背中から離れることはなかった。
相変わらずのひどいフォームではあったが、それでも最後まで走り抜けたのは摩那の精神力の賜物だろう。
ダラダラと滴る汗を見つめて、摩那は荒い呼吸を繰り返している。
本当なら、運動直後に立ち止まるのはよくない。
体が冷えるし、すぐに凝り固まった筋肉をクールダウンしないと次の日にダメージが残るからだ。
そう分かってはいたが、鍋島は摩那に動くようには促さなかった。
流れ落ちる汗を見る目が、荒く熱っぽい呼吸を吐く口が、疲労で震える体が、喜びに満ちているように見えたから。
練習が終わった充足感があるのだろう。
その気持ちは、分からなくもない。
自分にも、そういった時代があったはずなのだから。
思い出せない過去の記憶を探りながら、荷物を置いてあったベンチからペットボトルを持ってきて摩那の前に置く。
「どうぞ、落ち着いたら少しずつ飲みましょう」
「あ、ありがとうございます。はぁ、はぁ、呼吸が整うまで、待ってもらって、いいですか?」
「焦らなくてもいいですよ、乱れた呼吸を整えるのも技術の一つですからね。呼吸のコツは、覚えていますね?」
「吐く、ことでしたよね。覚えているんですけど、苦しいとどうしても吸う方ばかりになっちゃいます」
「吸ってばかりだと過呼吸になりますよ。そうなった場合、安全のために練習の強度は全体的に下げることになるので気を付けてくださいね」
「分かりました......ふぅー、もう大丈夫そうです」
「それじゃあ、一周トラックを歩きましょうか。その後クールダウンと、体幹トレーニングです」
「はーい」
摩那は太ももをさすってから、ゆっくりと立ち上がった。
玉のような汗が、陶器のような白い肌を伝ってポツリと落ちる。
(黙って動かなければ、ただの美人だよなぁ……)
真剣な横顔を見て、ふと鍋島はそう思った。
さらさらと風にそよぐ光沢のある茶髪、キュッと結ばれた口元の小さな艶ぼくろ、凛として前を捉える瞳、普段鍋島と話しているときとは別人のように綺麗だ。
ただ、その感想はすぐに消える。
いつもの明るく、お調子者の摩那の顔に戻ったからだ。
「コーチ、私、思ったより走れてませんか? なんか、行けそうな気がしてきましたよ!」
「......そう思った根拠を、教えてもらえっても?」
「だって、コーチのことだから、私の様子を見て難易度を下げることも考えてましたよね? ペースを落とすなり、一五回を一気にやるんじゃなくて五回を三セットに分けたりとか」
「まぁ、そうですね。初回なので設定タイムは緩くしましたが、それでも最後までついてくるのは厳しいだろうと思っていましたよ」
「なら、私はコーチの想像以上ってことですよね! ふふーん、自信が湧いてきましたよ! 三か月後の大会までに、どれだけ速くなれるかなー」
楽しそうに話しながら、摩那はペットボトルに口を付ける。
なだらかな喉が、嚥下に合わせて上下する。
激しい練習の後には、胃が何も受け付けなくなってただの水でさえ飲めなくなる場合がある。
摩那はそういった体の弱さとは無縁のようだ。
ごくごくと勢いよくペットボトルの中身が消えていく。
少しずつ飲めと言ったのに、ペットボトルはあっという間に空になる。
座り込んでいたのは呼吸が辛かっただけだったようで、歩く姿にも体を痛めたような感じはない。
明日は休みにするつもりだったから、今日は負荷が強い練習をしたつもりだったが摩那はケロリとした表情である。
(頑丈だな、練習強度を上げてもいいか......いや、焦りすぎはよくない。記録会までは、必要以上に強度を上げることはしない)
むくりと、鍋島の中で邪な考えが鎌首をもたげる。
摩那には、才能がある。
厳しい練習を厭わない精神性、柔軟かつ強靭な肉体、疲労に負けない内臓、一度教えたことは覚えられる記憶力。
スポーツ選手が欲しい能力のほとんどを、摩那は持っている。
運動神経というセンスは持っていないものの、そんなものは練習でどうとでもなる。
自分の手で、この才能を完成させたい。
どこまで伸びるか、ずっと見ていたい。
一年間みっちりと鍛え上げれば、全国標準記録まで届くだろう。
一位を取れる大会も増える、順位を狙う走り方も覚えられる、もっと上へ、もっと上へ。
摩那を見つめる自分の瞳に熱が籠るのを感じて、頭を振る。
これは、邪な考えだ。
あくまで自分は家庭教師であって、ずっと面倒を見れるわけではない。
綺麗に走れるようにするのが契約内容であって、その先は摩那が決めることであって鍋島の意思は関係ない。
一位以外に意味ないと思うのは鍋島の価値観でしかなく、それを押し付けることだけは許されない。
熱くなっていく脳を冷ますために、前を歩いている摩那に声をかける。
「摩那さん、スキップしてもらってもいいですか?」
「いいですよ!」
「......あぁ、安心するほど不細工なスキップですね。どう生きてきたらスキップがそんな動きになるんですか? ふぅ、おかげで落ち着きました」
「なんで要望に応えたのに貶されないといけないんですか!?」
無様に跳ねる摩那を見て、浮かんだ野望はその場から消え去った。
自分は陸上指導の専門家ではない。
そんな大それた考えは、きっと摩那も鍋島も二人とも不幸になって終わるだけだ。
才能の有無なんて関係ない。
それは、鍋島が現役のときに一番強く思っていたはずなのに、どうやら忘れてしまっていたようだ。
目の前には、走ることに憧れる不器用な少女がいるだけだ。
彼女が楽しいなら、それだけでいいのだろう。
順位も大会も、摩那にとって楽しさのおまけにすぎないのだ。
「あー、摩那さんが運動音痴で良かったぁー」
「コーチ!? なんで急に私を刺してくるんですか!? 私、今日は頑張ったですよね!?」
「えぇ、頑張っていましたよ。偉いですね。この調子で三か月頑張りましょう」
「暴言の理由を説明してくださいよ!?」
「ふざけてると体が冷えますよ。ほら、そんなに元気になったのならすぐジャージを羽織ってください。クールダウンしながら今日の反省会をしますよ」
「ねぇ、なんで私は貶されたんですか、コーチ。コーチ? 笑ってませんか?」
鍋島の目の前で、摩那が全身を使って抗議する。
練習直後だというのに、元気なことだ。
さて、運動音痴でもできる体幹トレーニングはどうしようかな。
とりあえず、いつも日課でしてるものを見せてもらおうかな。
手に持ったストップウォッチのボタンを意味もなく押しながら考える。
「ねぇコーチ、なんでスキップさせて馬鹿にしたんですかー!」
「いいじゃないですか。ほら、練習前に言っていた青春ってことで」
「こんなの青春じゃなーい!!」
夕焼けに染まった空の下、摩那の声だけが響いていた。
評価、感想、誤字指摘等していただけると嬉しいです。




