タイムの方程式
「鍋島先生さぁ、弱くない?」
「うるさい、やりこんでるわけじゃないんだよ」
「これじゃあ練習にならないよー。お姉に勝ちたいから練習相手が欲しかったのに」
「勝ちたいならコンボ練習でもするんだな。あとは、人読みするとか」
「えぇ、地味じゃん」
「努力ってのは全部地味だよ、太一」
「負けてる先生が言っても説得力がないよー」
「......それもそうだ」
倒れ伏した自分のキャラクターを見つめながらコントローラーを机に置く。
あまりゲームは得意ではないと自覚していたが、それでも小学生にもボコボコにされる自分の実力に悲しくなる。
今日は摩那のコーチングの日なのだが、帰りが遅れているらしい。
家の前で摩那の帰りを待っていると、小学校から下校してきた太一と会って流れで格闘ゲームをすることになった。
前に塾で約束してしまったから付き合ってはいるが、正直負け続けるだけのゲームは楽しくない。
(さすがに練習するか......)
鍋島相手は無意味だと判断したのか、コンピューター相手に練習し始めた太一のプレイ画面を見ながら心の中で誓う。
負けっぱなしは性に合わない。
これから何度かは、確実に上條宅に足を運ぶのだ。
今日みたいに太一と遊ぶ時間が出てくるだろう。
全勝とは言わなくても、ある程度勝てるようにならないと年長者の面目が立たない。
それに、太一曰く摩那の方が強いのだ。
リズム感がない彼女がキャラクターを上手く扱える姿は想像できないが、わざわざ太一が嘘をつく理由もない。
深い理由があるわけではないが、摩那にゲームで負けるのはしゃくである。
ものすごいどや顔をされるのが目に見えているからだ。
気が向いた時に遊ぶ程度であったが、寝る前に毎日ちょっとでも練習をしよう。
そう心の中で誓うと同時に、廊下から勢いよく玄関が開く音がした。
「ただいまー! 日直なの忘れてたー! 鍋島コーチってもう来てるー!?」
「いるよー、お姉」
「お邪魔してます」
「わぁー! 上がってるなら先に教えてくださいよ!」
制服姿のままどたどたと駆け込んできた摩那は、鍋島がもう既にいると思ってはいなかったようで驚いている。
急いで帰ってきたのだろう、汗で前髪が額に張りついていた。
姉が慌てて帰ってくるのは珍しくないのか、太一は気にせずにゲームをしている。
「あ、太一ズルい! コーチとゲームしてたでしょ!」
「ズルくないよ。約束の時間に遅れてくるお姉が悪いでしょ」
「ぐぬぬ......我が弟ながら可愛くないなぁ......」
姉弟仲は良好のようで、摩那が太一の頭を乱暴に撫でている。
太一も嫌そうな声を出すものの、顔はまんざらでもないようだ。
普段の家族団らんの様子を見ると、自分が異物のように感じて居心地が悪い。
水を差すようで申し訳ないが、自分がこの家に来た用件をさっさと済ましてしまおう。
「摩那さん、着替えたりとかしてきます? 別に問題ないようならこのまま座学を始めますが」
「あ、すみませんコーチ。汗はそこまでかいてないので大丈夫です!」
「そうですか。今日はタイムの出し方の座学ですね。その後に補強運動を教えます」
「僕は部屋に戻った方がいい?」
「あー、別にいても問題ないよ。むしろ、補強の時は太一にも手伝ってもらいたいかな」
「分かった」
「......なんでコーチは、太一にはそんなに砕けてるんですか?」
「摩那さんより付き合い長いですから」
「へへーん。お姉より固いキズナで結ばれてるんだよ」
「除け者にされてる気がします! 私にも気安く接してくださいよぉ!」
「呼び捨てにする条件は前に伝えたでしょう? それさえクリアしてくれればいくらでも気安く接しますよ」
「えー、なんかそれは違うような気がしますよ、コーチ」
そう言いながらも摩那はホワイトボードを運んできてくれた。
前と同じで一週間分の予定が書いてあるが、それをちらりと一度見るだけで摩那は消してしまった。
礼を言い、ペンを借りてボードの前に立つ。
キュッと音を立ててペンが滑る。
タイム、それだけ書いて二人に問いかける。
「さて、問題です。陸上競技において、タイムとは二つの要素の掛け算で表すことができます。何と何でしょうか?」
「はい! 姿勢の良さ!」
「それは摩那さんが唯一持っているものでしょう。そういうボケはいらないので真面目に答えてください」
「唯一ってひどくないですか? ボケてるつもりもないのに......」
「他になにが摩那さんにあるんですか?」
「それを見つけてくれるのがコーチの仕事ですよ?」
「今のところ見当たらないですね。頑張ってください」
「冷たい!」
そう言いながらも、摩那の顔はどこか嬉しそうだった。
……Mっ気があるのかもしれない。
陸上選手としてはプラスの要素だが、私生活が心配になるな。
適切な人間関係は築けているのだろうか?
自分は築けていると言えないから、人の心配など余計なお世話なのだが。
そんなしょうもないことを考えていると、太一がスッと手を上げて答えた。
「ピッチとストライドでしょ、先生」
「正解だ」
「え、太一すごい!」
「こないだ体育で教わったんだー」
「その記憶力を、他の教科にも活かせるとといいんだけど」
「勉強はできなくても生きていけるんだよ、先生」
「塾の講師としてその意見を肯定するわけにはいかないんだよなぁ」
ため息をついて、ボードに太一の意見を書き込む。
タイム=ピッチ×ストライド。
これはトラック種目において絶対の法則だ。
ピッチとは足の回転数、ストライドとは一歩の歩幅である。
例えば100mで10秒を切る選手は一秒間に4回以上足が動き、その一歩は2mを超える。
いかに回転数を速く、一歩の距離を長くするかがタイムの全てである。
人体の構造上、一秒間に動く足の回転数も一歩の長さにも限界はある。
その限界に挑むのが、陸上競技だ。
そう教えると、摩那が疑問を口にした。
「でもこの理屈って、短距離だけの話じゃないんですか?」
「どうしてそう思うんですか?」
「だって短距離以上の距離はスタミナがいるじゃないですか。私、スタミナが足りなくて痛い目にあったばっかりですよ」
「あぁ、1000mのタイムトライアルの話ですか。あれはひどかったですね」
「事実なので何も言い返せない......」
「別にあれはスタミナ以前の問題なんですが、まぁいいでしょう。短距離より長い距離でもこの式が成り立つのか、という疑問ですね」
摩那の言いたいことは分からなくもない。
例えばマラソンなどの長距離走のタイムには、ピッチやストライドよりも長い距離を走りぬくスタミナが大事に思えるのだろう。
それは、間違った考え方だと鍋島は思う。
「じゃあ、摩那さんが言うスタミナってなんですか?」
「え? その距離を走れるだけの体力のことじゃないんですか?」
「マラソンを走れるだけの体力なんて少し練習すれば身につきますよ。日本の市民マラソンの完走率は90%を超えるんですから、摩那さんの定義だと皆スタミナがあることになりますね」
「まぁ、そうなっちゃいますね」
「陸上で求められるスタミナとは完走するための体力のことではありません。最後までピッチを維持し続ける能力のことです。どれだけ長い間、脚を速く回し続けられるか。そのために必要な能力をスタミナといいます」
「「へぇー」」
上條姉弟が同時に声を上げる。
血が繋がっているだけあって、リアクションをするときの顔はよく似ている。
スタミナとは、レースに必要なピッチを維持するために必要な能力であって、余分にあればいいというものではない。
短距離でも長距離でも、これは変わらない。
「じゃあさ、先生。先生が言う、スタミナってどうやってつけるの? 体力なら走れば身につくんでしょ? スタミナは特別な練習があるの?」
「特別な練習なんてないよ。さっきも言っただろ? 努力は地味なんだ。走るだけだよ」
「えー。じゃあ体力もスタミナも一緒じゃん。言葉遊びじゃん」
「似ているようで違うんだよ、太一。それに、陸上の練習なんてほとんどが走るだけだ」
ボードに書いたピッチの文字の下に、追加で文字を書き足していく。
スタミナと体力、この辺りの細かい感覚は競技者でなければ難しいかもしれない。
無酸素性運動エネルギー供給だとか筋緩衝能だとか専門的な話もできなくもないが、二人にはまだ必要のない知識だ。
何が求められ、何をしたらそれが鍛えられるのか。
最初のうちはそれが分かればいい。
「摩那さんにはたくさん走っていただきますよ。特に、インターバルトレーニングを中心とした走り込みをします」
「それは聞いたことがありますよ。高負荷と低負荷を繰り返すから、インターバルなんですよね」
「ええ、それであっています。本番と同じぐらいのラップで、200mを十五本ほど走りたいですね」
「本番と同じラップって言われても、私ペース分かりませんよ」
「それに関しては心配しなくていいですよ。私が作りますので」
「え?」
「私が摩那さんの前を走り続けます。手本となるフォームで、目標とするペースを刻み続けます。見て感じて、体に染み込ませてください」
スパルタに教えると決心したときに、この練習方法をすると決めていた。
自分でペースが作れないのならどうするか。
他人のペースを覚えさせればいい。
レース本番と同じペースを、何度も何度も体に刻み込むのだ。
高強度のインターバルトレーニングは、本当なら初心者がするメニューではない。
体に強い負荷がかかるし、きつい練習は初心者のメンタルを折る可能性があるからだ。
ただ、摩那の体そのものはアスリートとしてできあがりつつあるし、メンタルも確固たる目標がある分強い。
現に、厳しいトレーニング宣言を聞いた摩那の顔には抑えきれない期待の色が浮かんでいる。
頬は緩み、琥珀色の瞳に輝きが宿る。
「それで、私は速くなれるんですか?」
「えぇ。今よりは確実に速くしてみせますよ。摩那さんが諦めなければの話ですが。やる気は、ありますか?」
「えぇ! えぇ! 望むところですよコーチ! そんな楽しくなる未来が待っているのに、私が諦めるわけないじゃないですか!」
「うわぁ、お姉に火がついた」
嬉しそうに喋る摩那の手が胸元でぶんぶんと振られる。
そういえば、家庭教師の話を受けたときも嬉しそうに両手を振っていたな。
感情が高ぶると、身振り手振りが出るタイプのようだ。
太一が冷めた目で摩那を見ているから、普段からの行いなのだろう。
「さて、タイムを出すための要素を理解してもらったところで、今度は勝つための話をしましょうか」
「タイムが出れば勝てるんじゃないの?」
「陸上はそう簡単じゃないんだ太一。例えば100mならその理論は成り立つんだけど、800mとかはそうじゃないんだ。なんでか分かるかな?」
「うーん、分かんないよ。速い人が勝つと思うのになぁ」
「はいはいはいはい!!」
「......どうぞ、摩那さん」
両手を上げて、自己主張をする摩那に話を振る。
先ほど太一に正解をされたからか、張り合っているようだ。
「レース展開があるからですよね! こないだ動画で見て勉強しました! 世界記録保持者が、位置取りが上手くいかなくて負けてましたよ」
「そうです。陸上はタイムを求める競技であると同時に、常に順位を争う相手がいます。時にハイペースに、時にスローペースに、様々な駆け引きがあってレースというものは行われます。メダルや上位大会への進出が懸かっているレースほどその傾向は強くなります」
「へぇー、速いだけじゃダメなんだ」
速ければ勝つ。
それも間違いではないが、正しくもない。
強いやつが、勝つ。
大番狂わせがざらにある世界だ。
緊張、怪我、トラブル、悪天候。
様々な条件の中で勝つために必須なのは、速さではなく強さだ。
絶対的な速さを持った人間もいなくはないが、傑出した怪物というのは稀だ。
順位とは、勝利とは往々にして相対的な強さが求められる。
緊張を乗り越えられるメンタル、予選準決勝決勝と三回走り抜ける肉体、咄嗟のトラブルに動じない経験値。
何かが足りない選手は弱く、栄光の座を掴み取ることはできない。
「でもコーチ。私レース中に駆け引きなんてできる気がしませんよ。自分のことでいっぱいいっぱいなのに、他の人なんて気に掛けられませんよ?」
「そんな堂々と言われても困るんですけどね......駆け引きしない方法が一つだけあるって言ったら、どうします?」
「そんな方法があるんですか?」
「えぇ、集団に混ざらなければいいんですよ。人がいるから駆け引きが起きるんです。それなら、人がいない場所を走ればいい」
「でも、そんな場所なくないですか?」
「ありますよ。一番前と一番後ろに」
駆け引きが難しいならどうすればいいか。
駆け引きをしなければいい。
常に先頭を走り続ける。
これは理想だが、それができるのならば苦労しないという理想論である。
だから、答えは一つだ。
一番後ろから、全員まくればいい。
そのスパートが先頭まで届けば一位だし、届かないなら負けだ。
実にシンプルな話だ。
「目指すべきはラスト100m、ホームストレートで全員まくるのが理想ですね。まぁ、それは摩那さんには難しいので、一周目が終わったら仕掛けてもらう形にしましょうか」
「えぇ......そんな簡単に言える戦法じゃないんと思うんですけど」
「じゃあ駆け引きします? 理想の位置は常に一番手の右後ろですけど、その場所取り争いできますか?」
「でき......でき......できますよ?」
「疑問形の時点で無理ですね。結局、取れる手段が限られてるんですよ。この三か月で摩那さんが信じられないほどの成長を遂げたならそういった走り方を教えてもいいんですけど、無理そうなので」
「うぅ......私、欠片も期待されてなくないですか?」
「お姉のセンスなら仕方なくない?」
「いえ、期待はしてますよ。それも、かなり」
「先生、大丈夫?」
「太一、それはどういう意味かお姉ちゃんに教えて欲しいなぁ?」
「やべっ」
姉弟の格闘を横目に見ながら、鍋島は淡々と目標をボードに書き続ける。
高校女子の全国トップの記録は1分59秒台。
これは高校記録であると同時に、日本記録でもある。
流石にこれを目標として掲げるには高すぎるので、県トップレベルを目指すべきだろう。
インターハイに参加できる標準記録が2分16秒50、それより少し遅いぐらいのタイムが県の上澄みになる。
2分20秒、このタイムが出れば胸を張って自慢できる。
「三か月後の大会は、2分20秒で走ることを目標として練習しましょうか。県トップレベルのタイムですが、摩那さんの現状なら可能性はなくもないです、多分、きっと。」
「なんでそんな自信なさげなんですか? もっと言い切ってくださいよ。『摩那なら簡単に出せるよ』とか、『俺が勝たせてやるからな』とか言ってくださいよ」
下手な声真似をする摩那を、白けた目で鍋島と太一が見る。
逆に聞きたいのだが、摩那のその自己肯定感はどこから来ているのだろうか。
「摩那さんが不安定すぎるんですよ。身体面は優秀なのに、それをマイナスにするだけのセンスの無さですからね」
「体だけの女って言ってませんか?」
「そういうのを曲解って言うんですよ」
「ふーん、まぁ、いいですけど......あれ? でも、その目標タイム、私出せそうじゃないですか?」
「......その自惚れた発言の根拠をお聞きしても?」
「だって、そのタイムって100mを17.5秒で8回走るだけですよね? 私、こないだ14秒で走ったばっかじゃないですか」
「そのだけが難しいから練習があるんですが......1000mで失敗したっばっかですよね?」
「そうですけど、なんか県トップレベルというわりに私にも手が届きそうなラインだなぁって」
瞬時にラップタイムが計算できる当たり、頭は良い。
それだけに、どうしてその頭から出る結論がそんな単純思考なのかが分からない。
摩那は少し、脳筋のきらいがある。
変に委縮されるよりはいいかもしれないが。
この辺りはバランスが難しい。
委縮しすぎて及び腰になられても良くないし、楽観が強すぎるのも良くはない。
まぁ、実践でしか身につかない感覚もあるので、今は特に言及しないことにする。
「さて、座学はこれくらいにしましょう。タイムの出し方と順位の上げ方、それぞれ知ったのならあとは練習あるのみです。下地作りに勤しむとしましょう」
「やっと体動かせるの、先生?」
「ああ、ボール遊びの時間だよ、太一」
持ってきたバッグから、バスケットボールにそっくりの見た目をした球体を太一に渡す。
装飾もなにもないただのボールを受け取った太一が、目を見開く。
「重っ!」
「3kgあるからね」
「へぇー、そんな風には見えないのに、重いんですね」
「メディシンボールといいます。日々の筋トレにこれを使ったメニューを追加してください。スマートフォンの方にメニュー内容と正しいフォームを撮った動画を送っておくので、参考にしてください」
これも、スパイク同様鍋島の押し入れに眠っていた道具だ。
単純に重しとして使うこともできるし、全身を連動させて投げることで体幹を鍛えたりすることもできる。
最近だと、メジャーに行った日本選手が5kg近いメディシンボールを天高く投げる動画が話題になったりもした。
腐らせておくのももったいないし、どうせなら摩那に使ってもらおうと持ってきたのだ。
摩那に道具を使った練習をさせるのは正直怖い。
自主練を際限なくやりそうであるし、摩那のパワーと不器用さはボールを投げ飛ばしてガラスを割りそうだからだ。
そうならないように、太一に同席してもらったのだ。
摩那も弟がいるところで重いメディシンボールを全力で投げることはしないだろう。
「じゃあ、庭で遊びますか。怪我だけは気を付けてくださいね、摩那さん」
「なんで私だけ名指しなんですか!? 太一は!?」
「正直言えば、太一がいないときはボールに触ってほしくないですね」
「ガラス割りそうだもんね、お姉」
「あぁ、やっぱりそう見えるんだ」
「二人とも! 私を低く見過ぎですよ! これぐらい簡単に振り回せるんですからね!?」
「「そういうところが怖い」」
3㎏のボールを苦にもしないように持ち上げた摩那に、鍋島と太一の声が重なった。
やはり、摩那に道具を持たせるのは早計だったかもしれないな。
無駄にあるフィジカルが、誤った方向に発揮されかねない。
太一と二人、ため息をつきながら肩をすくめた。
「ねぇ! なんで私が問題児側なんですか!? 私、小学生より信頼がないんですか!? コーチ! 鍋島コーチ!?」
「信頼してますよ」
「そっちは太一! 私の方を向いて言ってくださいよ!」
評価、感想、誤字指摘等していただけると嬉しいです。




