初めてのタイムトライアル
「コーチって、結構綺麗好きなんですね」
「そうでしょうか?」
「だって、車内すごい整理整頓されてるじゃないですか。うちのお母さんの車、もっと汚いですよ。マットとか土と石ばっかです」
「小学生の子どもがいたら仕方がないでしょう。私はそもそも、車あんまり使わないですから汚れないんですよ」
「へぇー、大学の友達を乗せたりしないんですか?」
「......足代わりにはこき使われてますね」
助手席からジャージ姿の摩那の声がする。
グローブボックスを開けて中を物色している姿を横目に、鍋島はアクセルを踏む。
今日は練習場での練習ということで、鍋島の軽自動車で移動している。
市街地と住宅街の外れにある練習場は、摩那の家から自転車で行ける距離ではある。
ただ、今回は少し荷物があるので車での移動になっている。
鍋島はあまり車移動が好きではない。
単純に、運転が怖いからだ。
時速40kmを超える鉄の塊が、自分のハンドル一つで事故につながると考えるとあまり気乗りしないのだ。
摩那と会話をしつつも、視線はまっすぐ前を見据え細心の注意を払う。
まばらにしか建物が建っていないこのあたりで、飛び出してくる人影はいないが念のためにというやつだ。
10分程走っていると、田んぼの中にポツンと浮いた練習場が見えてくる。
日曜日の16時ということもあり、使用者はほとんどいないようだ。
これが午前中なら部活動に励む学生で賑わっているのだが、今は散歩コースとして使うご老人が一人いるだけだ。
「そういえば、どうしてこんな遅い時間から始めるんですか? 午前中にやるものだと思ってましたけど」
「いいんですか? 午前中にやっても」
「?」
「芳志高がいますよ、多分。それに違う学校の生徒も。見られるのはまだ恥ずかしいでしょう?」
「うっ、確かにそれは恥ずかしいかも......」
自分が追い出された居場所を、外から見るのは心苦しいだろう。
人目が少ない環境で伸び伸びと練習した方がプラスになると判断して、わざわざ遅い時間にしたのだ。
「あと、人が多い所に摩那さん連れていくと事故りそうだったんで、ピークとズラしました」
「コーチは私をなんだと思ってるんですか?」
「事故らないと断言できますか? 練習場使ったことないんですよね? ルールとかマナーとか分かりますか?」
「......コーチって、いじわるなんですね」
「親切心ですよ。初心者なんですから、段階を踏んでいくことは大事です」
「まぁそうですけどぉ」
ガラ空きの駐車場に車を止める。
トランクから練習に必要な道具とバッグを取り出す。
摩那はバッグ一つだけの少ない荷物なので、ほとんどが鍋島の荷物だ。
バッグを受け取った摩那は、待ちきれないという様子で走って先に練習場の方へ行ってしまった。
練習道具を持って、鍋島も後に続く。
「わぁ、初めて練習場に来ました。このゴムみたいな地面って名前があるんですか?」
「タータンですね。全天候型トラックとか言われたりしますね。まぁ、ここは違いますけど」
場所によっては赤色だったり青色だったりする、陸上のトラックのことをタータンと呼ぶ。
水はけのいい合成ゴムは、土とは違い雨天でも競技を行うことができるので全天候型トラックやオールウェザートラックとも言う。
大会が行われるような競技場は大体が全天候型トラックである。
ただ、市が管理しているこの練習場は普通の競技場よりは規模が小さく、完全な全天候型トラックではない。
通常9レーンまであるトラックは6レーンまでしかなく、さらに内側は土のトラックで外の2レーンしかタータンではない。
それでも練習する場所としては十分だ。
学校のグラウンドはスペースに余裕のあるところ以外は、サッカー部や野球部と兼用だったりするものだ。
気兼ねなく陸上の練習に集中できる、それだけで価値がある場所だ。
「それで、コーチ。もうタイムトライアルするんですか?」
「先にウォーミングアップと、ドリルを挟んでからします」
「ドリル? 地面でも掘るんですか」
「そんなわけないでしょう。漢字ドリルとか言うでしょう? 同じことを繰り返すことをドリルって言うんですよ。もも上げとかスキップとか、動きづくりのことをドリルって言うんです 」
「へぇー、確かに訓練って意味もあったような気がしますね」
鍋島は荷物を誰もいないベンチに置いて、今日の予定を摩那と共有する。
練習場にはナイター用の明かりはない。
夜間の使用は禁止されているので、日が暮れるまでに手際よく進めていく必要がある。
「まず、陸上のトラックは一周が400mです。これを三周しましょうか。その後ラジオ体操で体をほぐして、ドリルをいくつか教えます。その後に、タイムトライアルをしましょう。アップからドリルまで基本的な流れを教えますが、自分に合った方法が見つかると思うのでその時は調整しましょう」
「分かりました!」
ウォーミングアップと言っても、その方法は十人十色だ。
汗をかくまでじっくり行う人もいれば、一周だけ走って終わりという人もいる。
アップの時間が長すぎて練習前に疲れてしまう、逆に短すぎて冷めた体で練習が十分に行えない。
どちらもよく聞く話だ。
個人に合ったものを日々の中で見つけていく必要がある。
部活動と違って個人活動なのだから、融通が利くのはメリットだろうか。
「じゃあ、アップしてきますね」
「私も行きます。ただ、その前に挨拶だけしましょう」
「挨拶?」
「トラックに挨拶するのが一般的なマナーとされています。私はここらへんのこだわりはあまりないので、嫌だったらやらなくてもいいと思いますが」
「やりましょうよ! 礼儀がしっかりしていた方が部活って感じがしていいじゃないですか!」
摩那に手を引かれてレーンの外側に立つ。
お願いしますと不揃いの声が、人のいないトラックに響き渡る。
散歩をしているご老人は慣れているのか耳が遠いのか、二人の声に反応することはなかった。
トラックに挨拶をするのは高校ぶりだ。
「えへへ、大声出すとスッキリしますね」
「練習はこれからなのに、満足してもらっては困りますね」
「もう、コーチは少し辛気臭いですね」
「あー、それはあるかもしれませんね。直しましょうか?」
「んー、そのままでいいですよ。邪険にされているわけじゃないので!」
鍋島は控えめに言っても、明るい性格というわけではない。
顔の造形は悪いわけではないが、一重のきつい目つきと淡々とした表情から陰気臭いと言われたこともある。
もっと本心から笑った方がいいぞと、アドバイスをもらうぐらいだ。
摩那も鍋島の暗さを認識したようであったが、そのままでいいと言ってくれたので甘えることにする。
そもそも、明るい自分というものが想像できないのだから変えようがないのだが。
(あぁ、摩那さんの運動音痴ってこういう感じか)
鍋島が明るい自分を想像できないように、摩那も正しいリズムで走る姿を想像できないのだろう。
だから、自分で矯正できない。
なるほど、やはり会話は重要だ。
相互理解を深めることは無駄にはならないだろう。
トラックに向かう摩那の後ろではなく、横に立つ。
「一緒にアップしましょうか。会話でもしながら、自分以外のリズムにも慣れていきましょう」
「それは嬉しいんですけど、私上手く走れないですよ?」
「最初から上手く走る必要はありませんよ。初心者は下手くそだと相場が決まっているものです。あ、今は人が少ないからいいですが1コースは使う人が多いのでアップは外のレーンがいいですよ」
「そうなんですか。じゃあ、アップしながらそういう細かいマナーのお話をしましょう!」
ゆっくりと二人でアップを始める。
昨日よりはるかに遅いペースであったが、摩那の動きはやはりぎこちない。
速くなりそうなペースを抑えようとすると動きが固くなり、それを直そうとするとペースが上がるようだ。
積み重ねた練習期間は確実に摩那の力になったようだが、反面枷にもなっている。
悪癖というものは、他人からの指摘がないと自覚しにくいものだ。
そのための、コーチとして自分がいるのだろう。
練習場を使用する際に気を付けるマナーを教えながら、摩那の悪癖を指摘していく。
「息を吐くことを意識しましょう。リズムは呼吸で作れます」
「吸うことじゃなくてですか?」
「息を吸うためには吐かないといけません。力みがちの人は呼吸が下手な人でもあります。頬がぷるんと揺れるぐらい脱力できるといいですね」
「うーん、意識すると難しいですね」
「練習で意識できないことは本番もできません。呼吸なんかは日常生活でも意識できるので毎日してください」
「わかりました。ふぅーー!」
「吐く動作で力んだら意味がないんですが......まぁ、それぐらい大袈裟にやった方が意識付けとしてはいいかもしれませんね」
アップが終わり、ラジオ体操をするときも摩那はずっと肩を上下に動かして呼吸をしていた。
到底脱力しているようには見えない姿だった。
その姿を横目にしながら、持ってきたコーンを等間隔に並べていく。
踏んでも壊れないように薄い円盤型になっているものを十個ほど並べる。
「じゃあ、ドリルをしましょうか。今日は簡単なドリルで、慣れてきたら複雑な動きにしましょう」
「はい! ……慣れる日って、来ると思いますか?」
「......来るように頑張ってください」
「ですよねー」
不安になるようなことを摩那が言う。
いくら不器用でも、簡単な動きなら問題ないはずだ。
プロがやるようなドリルでも、動き自体は複雑ではない。
(ハードルや専門的な道具を使ったメニューはなしにした方がいいなぁ)
そう思いながら、これからする動きを実演しながら説明する。
陸上の基礎にして重要な技術、もも上げである。
脚を持ち上げ、落とす。
言葉にしてしまえばそれだけだ。
ストンと落とした右脚が地面からの反発をもらい、今度は左脚が持ち上がる。
タン、タン、タンと淀みなく両脚がタータンを叩きリズムを作る。
滑らかに重心が前に移動し、体全身で反発を推進力に変えていく。
十個のコーンを抜き、軽く流して走る。
競技を離れてからしていなかった動きだが、体は覚えていたらしい。
摩那の元に戻ると、パチパチと手を叩いて目を丸くしている。
そういえば、摩那の前でしっかりと走ったのは初めてか。
これぐらいで褒められても困る。
基本動作なのだから、摩那にもできるようになってもらう必要がある。
「これを摩那さんにもやってもらいます。最初は片足だけで、ゆっくりやりましょうか」
「はい!」
「コーンは踏んでもいいので、ももを持ち上げる時に体幹を崩さないことと、足を振り下ろしたとき地面から反発をもらえるように意識しましょう」
「どれくらい持ち上げればいいんですか?」
「自然に上がる程度でいいですよ」
「高く持ち上げなくていいんですか? 体育で習ったもも上げは高く持ち上げろって教わりましたけど」
「そういう練習もなくはないんですけど、今はいりませんね。腰の高さよりももを上げて走る人って見たことありますか?」
「......ないですねぇ」
「あくまで速く走るためのドリルですからね。走りの動作につながらないドリルはあまりしない方向で行きますよ」
フォームに正解はないが、不正解はある。
例えば、ももを過剰に持ち上げて走るのは上体が後ろにそれて非効率的なフォームになってしまう。
肩が上がって顎が前に出たり、足が後ろに流れてしまうフォームも非効率で不正解だ。
自身にとって最適なフォームを探していくことが、選手としての終わりのない課題だ。
摩那はその前の段階である、不正解を潰していく作業が必要になる。
「持ち上げて、落とす。持ち上げて、落とす。ももが上がる時に、かかとがケツより後ろに行かないようにスッと前に出してください。持ち上げて、落とす」
タン......タン......と非常にゆっくりなテンポで摩那の右脚が上がる。
リズム感もいらないシンプルな動きであるから、摩那の体に力みはない。
綺麗な姿勢のまま、上手く地面から反発をもらうことができている。
反対側の脚もスムーズにドリルを行うことができた。
両脚を終えた摩那がどや顔で鍋島の方を向く。
「どうですか! コーチ!」
「綺麗ですよ。これが基本中の基本の動きになるので、自主トレの際も意識してみてください。コーンは使わずに、その場でやるだけでも効果はありますので」
「分かりました!」
「じゃあ、次はリズムありでやってみましょうか」
「えっ」
「なんで驚いてるんですか。走るための練習なんですから、リズムをつけてもやりますよ」
「お手柔らかにお願いします......」
そう言った摩那の、リズムを付けてからの動きはあまりにもひどかった。
コーンは蹴っ飛ばすわ同じ側の手と足が前に出るわ、先ほどまでと同一人物と同じか疑わしいほどに全てがぐちゃぐちゃであった。
立ち姿が綺麗な分、動いたときの汚さのギャップがすごく目を背けたくなるほどであった。
どうしてもも上げの最中に、膝から下を前に蹴るような動作が入るんだ?
三つぐらいドリルを教えられたらいいなと鍋島は考えていたが、矯正するべき場所があまりにも多すぎて結局もも上げしか教えることはできなかった。
これ以上時間をかけると、日が暮れてしまう。
「うぅ、ドリル難しくないですか......」
「小学生でもできるんですけどね、これぐらいは」
「私、小学生以下なんだぁ」
「伸びしろだらけってことにしておきましょう。それより、そろそろタイムトライアルしましょうか。最初に1000mのタイムを計って、少し休憩してから100mのタイムを計りましょう」
「分かりました。そうだ、コーチ。スパイクって履いてもいいですか?」
そう言うと摩那は、バッグから青い袋を取り出して新品のスパイクをこちらに見せてきた。
真っ白のスパイクは一切の汚れがなく、一度も使われたことがないようだった。
それをまじまじと眺めてから、鍋島は摩那に言う。
「ダメです」
「え!? なんでですか!? 私、スパイク履くのが今日一番楽しみだったのに!」
「これ、アンツーカーピンじゃないですか。それも、短距離用の」
「アンツーカー?」
「合成ゴムがタータンなら、土トラックをアンツーカーって呼ぶんです。陸上競技は必要に応じてスパイクのピンを付け替えるんですけど、摩那さんのスパイクについてるピンはアンツーカー用でさらに短距離仕様の長さになっています。1000mを走るにはピンが長すぎるし、100mはタータンの方で計測するので履けません」
「そんなぁ......」
摩那は肩を落として、悲し気に呟いた。
初心者がよくやるミスだ。
ただピンをタータン用に変えればいいだけなのだが、今日は持ち合わせてはいないらしい。
普通の靴で測るしかない。
そう思っていると、手に持って眺めていたスパイクの大きさがふと目に入った。
25cmと女子にしては少し大きいサイズである。
そして、高校時代の鍋島の足のサイズも、同じであった。
「そんなに、スパイク履きたかったんですか?」
「だって、一番陸上選手らしいじゃないですか、スパイク」
「......自分のお古で良ければ、履いてみます?」
「え?」
「自分は部活を辞めてから一気に身長が伸びたので、サイズの合わなくなったスパイクがあるんです。それでいいなら、練習用として使ってみますか? 丁度摩那さんのサイズと合っているようなので」
履けもしないのに、何故か捨てることのできなかったスパイクを自分のバッグから取り出す。
買った時は真っ白だったそれは、使い古されてくたびれた灰色になっている。
ピンはかつての白銀の輝きはなく、鈍色で摩耗している。
──自分みたいだ。
ふと、そう思った。
感傷を振り払うように、摩那に渡す。
摩那はそのスパイクを手に取ってから、今まで見たことのない真剣な顔で尋ねてきた。
「私なんかが、使ってもいいんですか?」
「持っていても履けませんからね。捨てるぐらいなら、履ける人に使ってもらった方がいいでしょう」
「コーチは、それでいいんですか? 思い出の品だから、取ってあるんじゃないんですか?」
思い出の品。
そんな可愛いものではない。
たくさん走って、たくさん負けた証だ。
消し去りたい記憶が刻まれているそのスパイクを、手放すことができるならそれでいい。
その、はずだ。
「使ってください。使わないなら、捨てるだけです」
「それはダメですよ!」
「じゃあ摩那さんが使ってください。中古の靴に抵抗があるなら、無理しなくてもいいです。あぁ、足幅が合わないなら無理に履かなくていいですよ」
「......試してみますね!」
中古に抵抗はないのか、摩那はランニングシューズからスパイクへと履き替える。
慣れ親しんだ自分のスパイクに摩那の足が入ったとき、少しだけ心がじゅぐりと痛んだ気がした。
きっとこれは、自分の悪癖なのだろう。
変えることのできない過去に、いつまでも心を囚われている。
鍋島はこの悪癖を誰かに晒すつもりはない。
だから、一生直ることはないのだろう。
そう思っていると、靴ひもを結び終えた摩那がタータンの上で嬉しそうに跳ねている。
「スパイクってすごいですね! 足が滑らないし、すごい跳ねてる感じがします!」
「はしゃぐのはいいですけど、怪我だけはしないでくださいよ」
「はい!」
「それじゃあ、順番が逆になってしまいましたが100mから計りましょうか。アップの時に教えた場所は覚えていますね?」
「分かります!」
「私が合図を出すので、それが聞こえたら全力で走ってください」
摩那が小走りでスタート地点に向かっていく。
スパイクの感触を楽しむように、スキップなんかもしたりしている。
手と足がまた同じ方が出ていたが、本人は気付いていないようだ。
……全力疾走中に転んだりしなければいいんだが。
流しからさせればよかったと思ったが、日は段々と沈み始めてきた。
時間はあまりない。
身体能力は十分にあるのだから、怪我はしないだろう、多分。
準備ができたのか、摩那がこちらに向かってブンブンと手を振っている。
計測をするとしよう。
ゴールラインに立って、鍋島も摩那に手を振り返した。
「On Your Mark! Set!」
摩那に聞こえるように、腹の底から大声を出す。
100mは競技ならスターティングブロックを使用するのだが、今回はスタンディングスタートだ。
どれくらいのスピードが摩那にあるか知りたいだけだから、スタート方法はこだわらないことにした。
摩那がピタリと動きを止めたのを確認して、もう一度声を張り上げる。
「Go!!」
鍋島の掛け声に反応するように、摩那が飛び出した。
反応速度は悪くない。
悪くないのだが......それ以上にひどい点が目立ちすぎる。
力が入るのか、肩はせり上がり腕は胸元で窮屈そうに振られている。
足運びは細かく忙しなく、シャカシャカという擬音が似合いそうなほど空回りしている。
走っているはずなのに、溺れているみたいだ。
何より一番不気味であったのが、それでいてスピードが遅くないことであった。
グングンとゴールラインに近づいてくる摩那の表情は必死そのもので、息を止めて端正な顔を歪めて体を動かしている。
ゴールラインを摩那の胴体が通過したタイミングで、鍋島は持っていたストップウォッチを停止させる。
表示されたタイムを見て、今度は鍋島が顔を歪める番であった。
走り切った摩那は膝に手を当てながら呼吸を整えている。
その顔にはやり切った人間特有の、爽やかさが浮かんでいた。
「はぁー! 楽しいなぁ! コーチ、私の走りはどうですか!?」
「......取り繕った感想と、心からの本音、どちらを聞きたいですか?」
「両方です! 感想の方からいきましょうか!」
「予想以上のタイムです。スタミナの方は心配していなかったんですが、スピードもこれだけあるとは。摩那さんには驚かされてばかりですね」
「えへへぇー」
13秒98。
スタートは掛け声であったし、タイマーも手動であったから実際のタイムは14秒台だろうが、それでも予想以上であった。
あの目も当てられないひどいフォームからこのタイムが出るのである。
正しいフォームで、短距離専門の練習を積めば12秒後半も狙えるラインだろう。
トップにはなれないが、高校生のトップ層にならギリギリ食い込めるタイムである。
……今からでも短距離路線に変更しないだろうか。
その提案をしかけて、喉元で言葉を止めた。
適性は短距離にあっても、摩那が走りたいのは800mなのだ。
その道を摩那が選んだのだから、鍋島が今更どうこう言う意味はない。
褒められた嬉しさか、上気した頬の摩那が詰め寄ってくる。
「すごい褒めてくれますね! なら本心は、もっとすごいってことですよね!?」
「えぇ、そうですね。ウンチです」
「ウンチィ!?」
「どうしようもないほど汚い走りです。この汚さでタイムが出ていることが許せません。摩那さんに負けた人は多分泣きますよ」
「私の走りは負けた人の心が折れるほど汚いんですか!?」
「はぁ、直せる気がしねぇ」
「また見捨てようとしてる! 今砕けた喋り方されても嬉しくありませんよ!」
段々と赤く染まっていく空の下、摩那の声が響く。
会社帰りにきたのか、新しくきた社会人ランナーのいぶかし気な視線が突き刺さる。
スピードもスタミナもあって、身体能力はとても高い。
それだというのに、鍋島はちっとも摩那を教えられる気がしなかった。
『私、綺麗に走れるようになりたいんです』
初めて会った日の摩那の願いを思い出す。
『楽しく』は鍋島には分からないが、『綺麗』は分かる。
分かるがゆえに、摩那がどれほど遠い位置にいるかが分かってしまう。
「コーチ、私の目を見てくださいよコーチ!」
「はい、見てますよ」
「見てませんよ! 目が泳いでますって! 乙女を排泄物扱いは許せませんよ!」
あぁ、険しい道のりだ。
その分、歩き甲斐はあるだろうか。
摩那はそれを楽しいと思えるだろうか。
......楽しんだろうなぁ、きっと。
「コーチ! 鍋島コーチ!?」
「元気そうですね。普通の靴に履き替えて、1000mのタイムトライアルをしましょうか」
少なくとも、自分も退屈はしなさそうだ。
騒ぐ摩那の姿を見ながら、鍋島はそう思った。
評価、感想、誤字指摘等していただけると嬉しいです。




