コーチング初日 大会について
大会のところは細かいルールとか省きに省いているので、雰囲気で納得してくれれば嬉しいです。
標準記録も定期的に更新されているので目安だと思っていただければ幸いです。
「仲が良いのはいいけどさぁ、ご近所さんに勘違いされるからほどほどにしてね?」
「「すみませんでした……」」
「摩那も、高校生になってあんなみっともないことしないの」
「だってぇ......」
「だってもなにもないわ。 鍋島君も、ちゃんと叱らなきゃダメよ」
「気を付けます......」
二人並んでリビングのラグの上で正座をし、和恵の説教を受ける。
摩那との攻防を繰り広げているうちに、外出していた和恵が戻ってきたのだ。
にっこりと笑っていたものの、目は全く笑っておらず有無を言わさぬ雰囲気を醸し出していた。
言い訳はいくつか思いついたが、口にはせずに素直に反省をする。
ちゃんと叱ったところで、摩那はすがりつくのをやめてくれただろうか?
鍋島は叱るという行為が苦手だ。
注意や指摘はできるし、怒りという感情ももちろんある。
ただそれを、強く表現するのは鍋島には縁遠い行為であった。
もし同じような状況が起きたとき、しっかりと注意できるだろうか。
……足にしがみついてワガママを言う摩那を思い出して、そんな状況二度と来ないでほしいと心から願った。
「あぁもう、汗と涙でぐっちゃぐちゃじゃない。今日はもう走らないんでしょ? ちょっと身だしなみ整えてきなさい」
「はーい......」
摩那はトボトボと廊下の方に歩いて行った。
少ししてから水音がしたから、きっと洗面台があるのだろう。
鍋島はまだ、上條宅は玄関とリビングぐらいしか入ったことがないから想像になってしまう。
この大きな住宅には、どれくらいの部屋があるのだろうか。
摩那、和恵、太一の部屋はあるだろうし、基本的な設備はあるだろう。
そういえば、父親にはまだ会ったことはないな。
吹き抜けの天井を仰いでから、あんまり詮索するのは不躾だと思って思考をやめる。
そのタイミングで丁度、和恵が話しかけてくる。
「鍋島君には、苦労をかけるかもねぇ」
「運動音痴のことですか?」
「それもあるけど、もっと単純なことよ」
「?」
「まぁ、これ以上は私が言うことじゃないから言わないけど。あ、太一が遊びたがってたから後で遊んであげてくれると嬉しいわ」
それだけ言うと和恵は立ち上がって自分の部屋に去ってしまった。
入れ替わるように摩那が戻ってくる。
走って乱れた髪は整っており、赤く腫れていた目元が多少はマシになっている。
黒いジャージの上着は脱いだのか、紺色のTシャツ姿になっていた。
汗をたくさんかいていたから、着替えたのかもしれない。
体を冷やさない意識があるのはいいことだろう。
「お母さん、変なこと言ってませんでしたか?」
「いえ、特に。あ、太一が遊びたいそうですよ」
「むぅ」
「どうしました? そんなに頬膨らませて」
「太一は呼び捨てなの、ズルいですよ! 私も呼び捨てがいいですよ鍋島コーチ!」
「呼び方なんてどうでもよくないですか?」
「よくないですよ、モチベに関わります! 私がコーチのこと鍋島って呼び捨てだったら、教える気なくなりませんか?」
「いや、その感覚はわかりませんね」
「えー、敬ってないなとか思わないんですか?」
「そういうのは態度に出ますからね。敬ってないのに呼び方だけ丁寧な方が馬鹿にされてる気がします」
とはいえ、モチベーションに関わると言われてしまえば、考える必要がある。
別に名前を呼び捨てすることに抵抗があるわけではないが、摩那の場合一度要求を受け入れると段々とエスカレートしていきそうな怖さがあった。
無条件で受け入れるのではなく、報酬として要望を聞く形にした方が良さそうだ。
あまり餌で釣るようなことはしたくないが、これぐらいはいいだろう。
「そうですね、五月頭の記録会がいい結果だったら呼び捨てにしますよ。それに向けて頑張っていきましょう」
「......ん? 記録会って何ですか?」
「大会の一種ですよ。予選や決勝がないのが特徴ですね」
「私、聞いてないですよ?」
「今初めて言いましたからね」
「そんな、心の準備も何もできてませんよ! 一か月しかないじゃないですか!」
「記録会はそんなに準備するものではありませんから。調整もしませんし、気楽に考えていいですよ」
「私の初めてのレース、そんな雑に消費されるんだぁ......」
摩那は悲しそうな顔をして顔を伏せた。
大袈裟だと思ったが、これは陸上競技経験者かそうでないかの差かもしれない。
確かに初めてのレースかもしれないが、記録会は大会と違ってそこまで重要なものではない。
一位を取っても表彰されるわけでもない。
出したタイムが公式記録と認められるだけの、練習みたいなものだ。
「今日はちょっと時間が余った分、その辺りの座学でもしますか」
「あ、座学用に大きめのホワイトボード買ったので、使っていいですよ」
「……これ、邪魔じゃないですか?」
「意外と便利ですよ、ちょっとしたメモとか買ってきてほしいものとか書いておくといい感じです」
パッと顔を上げた摩那の顔にはさっきまでの悲しそうな色は一切残っていなかった。
摩那は立ち上がり、玄関脇からガララとキャスターを回転させながらホワイトボードを運んでくる。
学校や会社で見かけるようなしっかりとしたサイズのものだ。
それは確かに、日常生活で役に立っているようだ。
綺麗な文字で買い物リストが書いてあったり、外出の予定などが書いてある。
汚い字でお菓子と書いてあるのは、太一の字だろう。
それらを躊躇することなく摩那は全て消してしまった。
「いいんですか、消して」
「大丈夫です。私、全部覚えているので。後で書き直しますよ」
「それならいいんですが」
そういえば、勉強はできるんだよな。
直近のポンコツな様子が印象に残っているせいで、この少女が進学校のトップクラスの頭脳を持っていることを忘れそうになる。
……それだけの学力があって、スポーツには上手く活かせないのか。
学力が直接走力に関わることはないが、知識量は効率的なトレーニングを支える重要な要素の一つである。
覚えられることが多ければそれだけ判断材料が増えるということだが、摩那は有効活用できていないようだ。
ままならないものだ。
「それで、何を教えてくれるんですか?」
「技術論は別日にするとして、摩那さんが出られる大会でも整理しますか。目的が楽しく勝つということなので、出られる舞台を知っていくことはいいモチベーションになるでしょう」
「確か、高校生の大会は出られないんですよね、私」
「えぇ、そうです」
真っ白になったホワイトボードにマーカーを走らせる。
キュッと音が鳴り、鍋島の手が動く度に黒い線が増えていく。
知っている知識を文字にしていると、ふと自身の高校時代を思い出した。
真剣に陸上競技に取り組んでいたあの時、顧問は大会に乗り気ではなく自分で出たい大会を申請しなければならなかった。
何の大会に出れて、そこでの結果が何につながるのか。
それを教えてくれる人はいなかったから、全て自分で調べる必要があったのだ。
唯一いた先輩も、実力は申し分ないのに大会にこだわりがなく鍋島に全て丸投げする有り様だった。
練習メニューも、出る大会も、目指すべきタイムも、鍋島は一人で全て考える必要があった。
……よく腐らず走り続けたものだ。
当時の自分は、何を支えに陸上を続けていたのだろうか?
数年しか経っていないのに、感情はひどくおぼろげで記憶には穴が開いている。
記録はいくらでも思い出せるのに、記憶はひどく曖昧で頼りのないものだった。
気がつけば、マーカーを動かす手は止まってしまっていた。
摩那が不思議そうに声を掛けてくる。
「コーチ?」
「……すみません、ちょっと考え事をしていました。では、説明していきますね」
「はい、お願いします」
マーカーでコツコツと書いた部分を叩きながら説明をする。
ボードには大会名とそれを運営する団体の名前がいくつか書いてある。
「まず、学生向けの大会ですね。中学は卒業しているから省くとして、一般的に高校生がお世話になるのが高体連です。全国大会がよく聞くインターハイってやつですね」
「よく漫画の題材になってますよね。バスケとかバレーとか」
「勝てば次のステージに出場できる形式は分かりやすいですからね。題材にしやすいんでしょう。まぁ、陸上だとその形式はインハイまでなんですけど」
「え、そうなんですか?」
「というか、高校だけが特殊なんですよね。他の世代の大会は基本的に標準記録があって、そのタイムを突破した人間だけが参加できる形式なんです。オリンピックとかも全国大会もその形式ですね。ニュースでよく聞きません? マラソンの誰々選手が日本人最高順位の三位入賞も標準記録を突破できず、みたいな」
「あー、言われてみれば、あるような。でも、それって私に関係ありますか? 学生の大会には出れないんですよね、私」
「関係はありますよ。確かにインハイには出れませんが、それは高体連の大会に出れないというだけです。大会の運営には高体連以外にも、県だったり市だったり色々あるんです。来月の記録会は市の陸上競技協会が運営するものですし、夏の大会は県の陸上競技協会が運営です」
「へぇ、一杯あるんですね」
「そしてこれらの大会は、全て日本陸上競技連盟に加入しているので公式記録になります」
「公式記録だとなにかあるんですか?」
「インハイには出れなくても、全国大会には出れますよ。国体とかジュニアオリンピックとか」
「え!?」
「アンダー18ジュニアオリンピック女子800mの標準記録は2分14秒、これよりコンマ1秒でも速ければ参加条件を満たしたことになります」
正確に言えばもっと条件があったりするのだが、それは今は気にしなくてもいいだろう。
勝つことを目的に掲げるのならば、最終的に舞台は当然全国大会に行きつく。
流石に素人が三か月そこらで標準記録を突破できるとは思えないが、可能性はゼロではない。
大きな目標を掲げることは大事なことだ。
掲げ続けるためには多大な努力が必要になるが、競技に携わる人間には避けることのできない定めだ。
夏に出場する大会をマーカーで丸をして、もう一度コツコツと叩いて意識させる。
「夏の大会、県選手権ですね。この大会で標準記録さえ出してしまえば全国の道が見えてきます。国体は県で一番いい選手を選ぶことになるので、自分より速い人がいると辞退でもない限り選出されることはありませんが」
「私も、全国に出れる可能性があるってことですね!?」
「いやまぁ、さすがに無理ですけど」
「今までの話全部意味ないじゃないですか! 持ち上げてくれる流れだと思ったのに!」
「三か月で出れたら天才ですよ。少なくとも、全国は来年の話だと思ってください」
「うぅ、気持ちを弄ばれたぁ」
「人聞きの悪いことを言わないでください。可能性の話をしたまでです。来年に出られる可能性があるだけ、摩那さんのことは高く見積もってるつもりですよ」
少なくとも、自分のリズムで動いているときの摩那は非常に選手としては魅力的だったからだ。
ブレのない体幹、滑らかに動く関節の柔軟性、800mを走るには十分にあるスタミナ。
選手としての下地は出来上がっている。
それを伸ばしていくのがコーチとしての鍋島の仕事である。
ホワイトボードを全て消し去り、これからのコーチングの方針を書き始める。
「目指すべき将来の姿を知ってもらった上で、これからの話をしましょうか。ちなみに柔軟ってどこまでいけます?」
「I字バランスできますよ。あと立った状態からブリッジもできます」
「ほぉ、素晴らしい」
ソファから立った摩那はそのまま上半身を後ろに倒す。
Tシャツがまくれてチラリと見えた腹筋には無駄な肉はついておらず、うっすらと縦に割れている。
反動をつけることなく、静かにブリッジの姿勢からまた直立の体勢に上半身が戻ってくる。
少し誇らしげな顔をしているので、素直に手を叩いて称賛を示す。
柔軟性とインナーマッスルは鍋島が教えるまでもなく身についている。
ならば、教えることは絞ることができる。
満足げにソファに腰をかけた摩那に、明日からの方針を伝えていく。
「摩那さんの今までの日課は今日で十分に確認できました。想定したレベルを上方修正して考えます」
「ちなみに、今までどのレベルで考えていたんですか?」
「中学二年生ぐらいのタイムが出ればいいかなと思っていました」
「しょうがないですけど、低い見積もりですね......」
「今は高校一年生ぐらいのタイムは出ると思ってますよ。それを確認するために、明日は練習場に行ってタイムトライアルをしましょうか」
「タイムトライアルって、なんですか?」
「簡単に言ってしまえば、全力疾走ですね。現在のおおよそのタイムを知りたい時に行う練習方法です。練習方法は、その都度教えていきますので今はあまり覚えなくていいですよ」
ホワイトボードに明日の練習メニューを書いていく。
100mと1000mのタイムは絶対に測るとして、余裕があるならば400mと800mのタイムも計りたい。
後半の二つは摩那の体力と相談するとして、あとは補強運動を教えたい。
折角家に立派な庭がついているのだ。
庭でもできるようなドリル運動と、簡単なトレーニングを教えるべきか。
初めての練習にしては厳しいメニューになるかもしれないが、鍋島の方で様子を見ながら調整すればいい。
ボードを眺めていた摩那が、口の端を上げて楽しそうな口調で喋りはじめる。
「きつそうですね」
「きつくない練習の方が少ないですよ。でも、それが望んだ道なんでしょう?」
「はい! ワクワクしてます! きついのも苦しいのも、自分の力になると思えば楽しめると思います!」
「それはいい。実に競技者向けのメンタルだ」
「えへへ、明日からもよろしくお願いしますね、鍋島コーチ!」
運動音痴という現実より、自分が速くなれることの方が嬉しいらしい。
笑顔を浮かべる摩那の顔が、鍋島には少し眩しく映る。
心の底から楽しいと思っているような笑顔だ。
恥ずかしいと赤くなった顔も、捨てないでと泣いた顔も、楽しみと笑う顔も、全て本心の発露なのだろう。
羨ましい。
そう思った自分の心は、複雑で理解することはできなかった。
なにが、羨ましいのだろう。
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