楽しかった
終わりです。お付き合いいただきありがとうございました。
「......ん」
鍋島が目を覚まして真っ先に見えたのは、石膏ボードの灰色の天井だった。
見覚えのないその視界に、一瞬自分がどこにいるか混乱する。
状況を把握しようと体を起こそうとするが強い倦怠感に苛まれて諦める。
身動きをしたはずみで安いパイプベッドが軋む音がする。
少し寒気がするのは、自分が濡れたユニフォームを身に着けているからだろう。
肌に張り付く生地の不快な感覚で、自分がレース直後に倒れたということを思い出した。
順位は? 俺は岳を抜いたのか? 最後はどうなった?
色んな疑問が頭に湧いてきて、思わず電光掲示板を探そうとしてしまう。
今度こそ、重い体を無理矢理起こす。
どうやら競技場に備え付けの医務室のようで、簡素なベッドがいくつか並んでいる。
「よぉ、寝坊助。ご機嫌なお目覚めだな」
「......なんで立花さんがここに?」
「野次馬」
「帰れ」
「そんなつれないこと言うなって。折角お見舞いに来てやってるんだからよぉ」
ベッドの近くで腰かけていた立花が意地の悪い笑みを浮かべている。
その笑みを見て、疲労からくる頭痛とは別の痛みが頭に走る。
多分、応援しに来てくれていたのだろう。
大会があることは告げていたし、この大会に向けて真剣に取り組んでいる一か月間はいつものようなダル絡みをしてこなかった。
そのことは嬉しいのだが、無様なところを晒してしまった。
当分の間このことをいじられると考えると、憂うつな気分だった。
心の中で頭を抱えているとおもむろに立花が立ち上がり、ベッドに膝をついて鍋島の頬に両手を添える。
普段あまり見ない立花の真剣な瞳に、少しの息苦しさを覚える。
「ハジメ、頭に痛みは?」
「ない」
「心臓は?」
「問題ない」
「体は?」
「だるいけど、肉離れとかそういう痛みはない」
「......誤魔化してはないな。オッケーだ、無駄に頑丈な体で良かったな!」
「っつ!」
返答に満足したのか、立花は強く鍋島の頬をつねってから立ち上がった。
じんじんと痛む頬をさする。
心配してくれたのは分かるが、照れ隠しが暴力的すぎないか。
そういった抗議の視線を送るが、立花はもう満足したのかこちらを向いてすらいない。
大きくため息をついて、抗議を諦めて一番聞きたいことを聞くことにする。
「そういえば、俺の順位はどうだった?」
「ん、あぁそれは──」
立花が口を開くと同時に、遠くの方からキュッキュッと水気を孕んだ靴が廊下を走る音が聞こえてくる。
段々と大きくなるその音は、医務室の方に近づいてきているようだった。
「アタシが説明することじゃないかな。嬢ちゃんにお願いするとしよう。それと、良い走りだったよ」
そういうと立花はこちらを向くことなく、手を二、三度振ってそのまま医務室から去って行った。
それと入れ替わるように、騒々しい音を立てながら摩那が医務室に駆け込んでくる。
その手には鍋島の荷物や折りたたみテントなどが抱えられている。
自分が寝ている間に片づけて持ってきてくれたらしい。
その礼を言おうと口を開く前に、摩那がベッドに向かって突撃してくる。
「コーチ生きてます!? 心臓は痛くないですか!? この指が何本に見えますか!?」
「落ち着いて......他に誰もいないといっても医務室なんですから、騒ぐのは良くないですよ」
「はっ! ......その、本当に体は大丈夫ですか? まだ倒れてから30分も経ってないですよ?」
「大丈夫ですよ。まあ、倒れた人間が言っても説得力がないかもしれませんが」
「そうですよコーチ! ゴールした直後なんてピクリとも動かなかったんですからね! 観客席から悲鳴が上がってましたよ!」
「あー、申し訳ないものを見せてしまいましたねそれは」
目の前で急に人が倒れたまま動かない事態は、確かに悲鳴が上がる光景だろう。
大会のスタッフや観客の心情を思えばずいぶんと迷惑をかけてしまったものだ。
後で野村にも直接謝りに行かねばなるまい。
摩那から受け取った自分の荷物から濡れていないジャージに着替えながらそんなことを思う。
時折スピーカーから流れてくる実況の声を聞けば、大会自体は滞りなく進行しているようだ。
大会が中止になるような大事になっていないのは幸いだ。
ユニフォームからジャージ姿に着替えてベッドのカーテンを開ける。
摩那はソワソワした様子でこちらを待っていたようで、カーテンが空いた瞬間に詰め寄ってくる。
こちらの体をペタペタと触っては不調がないか確認しているようだ。
「本当に大丈夫ですか? もっと寝ていた方が良くないですか?」
「いや、いつまでもお邪魔するわけには──」
「あ! 右腕が不自然な色してますよ! 何か隠してませんか!?」
「これはレース中にぶつかりまくったからです。体調は関係ないですよ」
レース中に何度も何度も岳と接触したせいか、鍋島の右腕の肘周りは青黒い内出血の後がいくつもできている。
摩那の指先がなぞるだけで痛みが走り、顔が歪む。
自分がこうなのだから、岳もそうなっている頃合いだろう。
悪いとは思わない、お互い様だ。
そう考えたところで鍋島は、自分の順位のことを聞きそびれていることを思い出した。
摩那の勢いに流されてしまっていたが、自分が今一番知りたいのは順位のことだった。
「それで、私は1位でしたか?」
「......コーチ的には、どうでしたか?」
「分からないから聞いてるんですが......そうですね、正直2位でも受け入れられる気分ではあります」
「1位じゃなくても、いいんですか?」
「ええ。渾身のパフォーマンスでしたからね。あれで負けているなら、それは仕方ないでしょう」
鍋島は口にしてから、すっと自分の中で腑に落ちていく感覚になった。
高校三年のインターハイから燻り続けていた心の火種が、今日完全に燃え尽きたことを自覚した。
昔も今も、競技に対しては常に全力で取り組んできた。
それだというのに、昔の自分が完全燃焼できなかった理由が今なら分かる。
過去の自分は順位とタイムだけの人間だった。
結果は重要だ、それは今も変わらない結論だ。
ただ、その結果に向き合う自分の心が弱かったのだ。
最下位に意味がないわけではない、タイムが遅くても価値がないわけではない。
そこに何を見出すか、その視点が自分にはなかったのだ。
1位でなければならない、誰よりも速いタイムでなければならない、そう思い込んでいた。
なんと切羽詰まった人間だったことだろう。
面白みがないと言われても仕方がないことだった。
今日のレースにもう一度思いを馳せる。
きつく、苦しく、辛いレースだった。
二度と同じ体験をしたくないと思うほどのレースだった。
それでも、それでも。
「楽しかった」
鍋島は摩那にそう言って笑いかける。
今なら摩那の言いたいこともよく分かる。
あの苦しい時間に数えきれないほどのやり取りをしたこと、自分の体を思う存分に動かすこと、順位という目標に向かってがむしゃらに走り続けること。
これがもし2位だとしても、ひとしきり悔しがった後に楽しかったと笑えるだろう。
摩那は鍋島の顔を見てからほほ笑んで、手に持っていたバッグから一枚の紙を取り出した。
折り目がつかないように丁寧に丸められたそれは、賞状だった。
そこには決勝のタイムと順位、それに自分の名前が達筆な書体で書かれている。
「お兄ちゃんから伝言預かってますよ。『次は俺が勝つ』って」
「......そうか。今回は、届いたのか」
1位。
そう書かれた賞状を摩那から受け取って、天井を仰いだ。
歓声も拍手もなにもない医務室の中で受け取ったこの紙切れが、今まで勝ち取った何よりも価値のあるものに感じた。
自分の今までの走りが、努力が、報われたような気分だった。
しばらく賞状を眺めてから、それをもう一度丸めて自分のバッグにしまった。
感慨にふけることはいつでもできる。
今は移動すべきだ。
もう動けるようになったのにいつまでも医務室に居座るのも迷惑だ。
そう考え動き出そうとした時、笑顔の摩那が話しかけてきた。
「それでコーチ! 次の目標は何にしましょうか?」
「次?」
「はい! だって今回は二人で1位を取れましたけど、それで終わり、ってことはないですよ。私には姫井ちゃんが待っていますし、コーチはまたお兄ちゃんが挑戦状を送ってきますよ! どこの大会で対決するか決めて練習しましょうよ!」
「摩那さんは元気ですね。私はしばらく休みたいんですけど」
「ダメですよ! これからもっと面白くなるんですから! 折角楽しいってコーチも思ったんですから、もっともっと楽しみましょうよ!」
「摩那さんは部活に入れてもらう話だったでしょう?」
「私が部活に入るのと、コーチと一緒に練習するのは両立すればいいじゃないですか」
「............はぁ。野村先生に迷惑かけない範囲でですよ」
「もちろん!」
一度言い出した摩那は止まらない。
そしてそれに振り回されるのは、決して嫌な気分ではない。
医務室を後にし、二人で廊下を歩く。
観客席がある上階からは歓声が聞こえてくる。
「次はどの大会に出ましょうか! 記録会でもいいですね!」
「夏場は記録会も盛んにやってますからね。大会じゃなくてコミュニティ主催のイベントもあります」
「面白そうですね!」
明るく笑う摩那に、鍋島も笑顔で返す。
「ええ、面白いですよ。きっと」
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