たった一つの違い
顎から胸へと滴り落ちた液体は汗かよだれか、判別がつかないほどの雨の中で体を動かす。
スタート前と比べれば幾分か落ち着いた天候だが、トラックを走る選手は既にずぶ濡れだ。
視界の前には背中にべったりと張り付いた岳のゼッケンが見えている。
(くそっ! くそっ!)
油断や慢心はなかった。
残り200mを切るまで自分は完璧に岳の走りに対応した。
コーナーに入る直前までは、そう言い切れた。
今は自分の失態に悪態を吐くばかりだ。
最後のスパート勝負が思考にチラつく瞬間にアタックを仕掛けてきた岳に反応が遅れた。
マンマークの弊害がここで出てしまった。
鍋島は岳のどんな走りにも対応できるように意識を配っていたが、それは後手に回るということである。
ペースアップもダウンも岳が主導権を握ったレースだ。
それは岳が主導権を取りにきたこともあるし、鍋島も譲る形でもあった。
しかしほんの少しの遅れが致命傷になるレースで、痛恨のミスを鍋島は犯した。
通常のレースであれば後手に回ってもそれを上回る展開をできるはずだった。
それを可能にするだけの練習を積んで、スパート勝負のイメージも完璧に描けていた。
誤算だったのは、レースとは言えないようなペースで岳が飛ばしていたことだけだ。
序盤から二人でハイペースで走って、後はズルズルと失速していくだけの泥仕合。
スパートも何もかもがあったものではない。
それだけの余力はお互いに残っていない。
気合と根性だけが体を動かしているだけで、今にも倒れてしまいたい疲労感が全身を覆っている。
ここで足を止めてしまえば楽になれる。
それを知っていながらも必死に走り続ける理由は、なんだろうか。
少なくとも、自分の目の前を誰かが走っていて、先にゴールされるのだけは我慢がならなかった。
インターハイでの光景がフラッシュバックする。
天候も展開も何もかも今日とは違ったが、あの日も自分の前を走り続ける一人の影があった。
岳と10㎝も離れていないのに、いつまで経っても追い抜くことのできない背中はあの日の再現のようだ。
(ラップタイムは? 後続との距離は? どのタイミングで仕掛ければいい!?)
酸素が行き届いていない脳みそは答えの出ない疑問で埋め尽くされている。
ぶつかり合った右腕の感覚はとうの昔にない。
乳酸が溜まった足は千切れているのではないかと錯覚するほどに痛く頼りない。
肺に穴が開いているのか、口からは掠れた音が鳴るばかりで呼吸もまともにできていない。
額から垂れてきた雨粒が瞳に入ってくるがそれを拭う暇はない。
満身創痍の体を、意思の力だけで動かす。
(きついのは岳も一緒だ! どこかで俺が前に出る! 前に前に!)
この地獄のような状況は岳のスタートダッシュを見た時から覚悟していた。
自分は内側で、岳は外側で。
お互いにお互いの体力を削るレースを選んだのだから。
酸欠と乳酸地獄は承知の上。
視界がちかちかと明滅しながら、鍋島は一つのことに気が付いてしまう。
(どこかで──どこで?)
一瞬の隙で作ってしまった僅かな距離が、どうしようもなく遠いことを。
最終コーナーが終わり、最後の直線に入る。
鍋島は岳を抜くためにコーナーの遠心力を利用して少し外に膨らんだコース取りをする。
そのロスはコンマ一秒を争うレースにおいて看過できないものであったが、1位を狙うためには致し方ないロスでもあった。
ホームストレート、先頭を岳が走り体一つ分遅れて鍋島が続く。
最後まで目を離せないデッドヒートに観客は沸いているであろう。
観客の声援が聞き取れるほどの余裕があればの話だが。
残り100mを切る。
鍋島も岳も最後のスパートを仕掛けない、仕掛けられない。
相手に抜かれないよう、置いて行かれないように今のスピードを維持するのが限界だった。
差は縮まることも広がることもなく直線を二人で駆け抜けていく。
残り80m。
感覚のない腕を必死に振り、止まりそうになる足を無理矢理前に運び出す。
このままでは本当にインターハイの二の舞になってしまう。
何か、何か現状を変えるきっかけが必要だ。
(何かってなんだよ! そんな都合のいいものがあるか!)
残り50m。
かつて培った選手としての感覚が、思考に割くリソースを削っているからかまともな答えなど浮かぶはずもない。
それにそんな答えがあるというのならばとっくに実行している。
内臓が煮えたぎるように熱を持ち、乳酸に満ちた体は鉛のように重い。
スパイクのピンがしっかりと食い込んでいるはずなのに、地面と足はうまく噛み合っていないようにふわふわとしている。
何回も感じたこの感覚に、心の片隅が黒く濁り始める。
(負けか──)
いくら望んだとしても、この劣勢を覆すだけの何かを鍋島は持っていない。
体力も筋肉も、鍋島は限界を超えて走っている。
それでも埋まらないこの差は、岳も限界まで振り絞っているからだろう。
あの日もそうだった。
死力を尽くしてなお2位という結果に甘んじることになったあの日も、自分が持ちうるもの全て投げ出して届かなかった。
今日も、届かないのか。
残り30m。
諦めかけた鍋島の瞳に、一筋の光が差し込んだ。
雨雲が途切れたのか、太陽の光がゴール付近を照らしている。
その明かりの下に、誰かが立っている。
「コーチ! 鍋島コーチ! ぶちかませー!!」
タオルを肩にかけたユニフォーム姿の摩那が、大声で叫んでいる。
インターハイの日にはなかった、何か。
それが自分を呼ぶ声だと思うのは、あまりにも単純な考えだろうか。
800mは一人で走る競技だ。
自分の体だけで競い合う種目で、誰かからの応援がタイムに影響するようなことはない。
それでも今は、今だけは。
摩那の声が何よりも欲しいきっかけになった気がした。
残り20m。
呼吸することすら忘れて足に力を込めた。
目を見張るような変化は何もない。
ただ、ほんの少しだけ頑張れるようになっただけだ。
踏み込む足に、力が戻ってきただけだ。
自分一人だけではたどり着けなかった境地まで体を追い込んでいく。
岳の背中が徐々に徐々に視界の端に移動していく。
岳からはもう喋らない。
吐く息の荒々しさが岳の限界を告げている。
残り10m。
ゴールラインにできた水たまりが陽光を反射してキラキラと輝いている。
もう鍋島の瞳にはゴールしか映っていなかった。
(あそこに、一番最初に飛び込むのは俺だ)
岳と並んでいるのか、摩那はまだ自分の名前を呼んでいるのか。
何もかもが分からなかった。
鍋島が分かったのは、ゴールラインに向かって自分が胴体を突き出したことだった。
ゴールの勢いを止めるだけの力は足に残っているはずもなく、そのまま無様に水たまりに転がった。
倒れ込んだ体は新鮮な酸素を求めて呼吸を再開しようとするが、喘ぐ力すら残っておらず弱々しく口を動かすだけだった。
(......順位は?)
必死にもがいてうつ伏せの状態から起き上がろうとしたが、体の向きを変えるのが精一杯だった。
仰向けでは電光掲示板まで視線が届かずに、灰色の雨雲を瞳に写すだけだった。
どうやら太陽が覗いていたのは一瞬だけだったらしく、今はまた激しい雨が降りそうになっている。
見たかった景色と比べてあまりにも映えない視界ではあったが、あまり嫌な気分にはならなかった。
出し切った、己の持ちうる全て以上に。
その充足感が心を満たしていく。
自分が過去に味わうことのできなかった感情だ。
悪くない、いや、良い気分だ。
鍋島は速報を確認することを諦めて、瞳を閉じた。
誰かが遠くで自分の名前を呼んでいるような気がしたが、そのまま意識は闇に消えていった。
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