衝突
観客席からひと際大きな歓声とまばらな拍手が聞こえてくる。
摩那の走りは観客の心を動かすほどの力走だった。
自分の準備の合間合間に見る形であったが、それでも鍋島の心も掴むほどの走りだった。
電光掲示板に表示されたタイムは2分14秒21。
目標タイムを1秒近く縮めた結果だ。
視界が悪い大雨、競い合う先行勢がいない一人逃げ、初めての決勝。
レースコンディションは最悪の中、この結果は最上と言っていいだろう。
初めてのレースが2分35秒だったのだ。
三か月で21秒も短縮するのは生半可な努力ではできない。
伸びしろのある時期だとはいえ、一年かけて一秒以下のタイムを上げようと躍起になる世界でこれだけの結果を残したことは称賛されるべきだ。
よく最後まで走り切った。
よく自分で考えた作戦をゴールまで実行した。
これまでの摩那の努力が形になって現れたようなレースに、鍋島の心が熱くなる。
人の走りを見てここまで感情が揺れ動いたのは初めてかもしれない。
ペース配分もできないフォームも汚いリズム感もない、その少女が自分の頭で考えて自分の体で大舞台を先頭で走り切って見せた。
色んな思いが胸を渦巻く。
それをなんとか言葉にしようとしたが、鍋島の口から出てきたのは素っ気ない一言だった。
「ナイスラン」
「......えへへっ、初めてレースで褒めてくれましたね、コーチ」
補助員の肩を借りながら、ベンチに戻って来た摩那に対してその一言しか口にできなかった。
摩那は髪から靴までもう濡れるところはないと言わんばかりに水を滴らせ、息も絶え絶えになっている。
筋肉も相当ダメージを受けたのか、太ももや二の腕がぴくぴくと細かく痙攣している。
それでも、摩那は楽しそうに笑っていた。
呼吸がまともにできずに苦しいだろう。
体は酸欠と乳酸で地獄のような痛みがあるだろう。
それでもなお、摩那は鍋島に向かって笑っている。
その笑顔を見て、鍋島の心が完全に切り替わる。
教え子は成し遂げた。
指導者として、それに胸を張って応えられる走りを示さなければならない。
選手として、あの走りに負けないレースをしなければならない。
頭の奥がスッと冷めていく。
ベンチで崩れ落ちた摩那の方はもう見ない、考えない。
これから始まる自分のレースだけに思考が切り替わる。
男子800m決勝。
レース名ではそうなっているが、実態はそうではない。
男子は女子800mと違って、ベストタイムを並べた時に横一線という形ではない。
岳と鍋島の二人だけが、明らかに突出している。
ベストは鍋島が1分44秒54、岳が1分46秒22、その次にくる選手が1分52秒台だ。
これだけタイムがかけ離れている以上、このレースは最初から自分たち二人の1位決定戦に他ならない。
今日この日のために、この一ヶ月全てを陸上に捧げてきた。
ベストが出るとは言わないが、全盛期と遜色ないレベルには仕上げてきたつもりだ。
「男子800mの選手は準備をしてください!」
息も絶え絶えな女子と入れ替わるように、男の選手達が各レーンに入っていく。
1レーンに向かう鍋島と、6レーンに向かう岳の視線が一瞬交錯する。
情熱か愉悦か、はたまた別の何かか、岳の瞳は楽しそうに笑っている。
自分の瞳は岳にはどう見えただろうか。
少なくとも、愉快な顔ではなかっただろう。
全選手がレーンに入ってしばらくしてから、実況の声がスピーカーから聞こえてくる。
「ただいまより男子800m決勝を行います。1レーン、芳志市陸上競技会、鍋島肇。県記録保持者、大会記録保持者」
読み上げに合わせてトラックと観客席にそれぞれ一礼する。
観客に軽いどよめきの声があがり、それは他レーンの選手の読み上げのときも収まらなかった。
陸上に詳しくない人からすれば大物が急に現れたことになるし、詳しい人ならかつての高校ナンバーツーが帰ってきたことになる。
実績があれば人はそれに注目する。
だから、このあとの観客の反応は鍋島にとって予想できて当然の物だった。
「6レーン、町田大学、上條岳。今季インターカレッジ優勝者」
県記録保持者と大学ナンバーワンという称号、どちらの方が格上に聞こえるか。
それは観客の声量が雄弁に語っている。
予選の岳の走りのパフォーマンスもあるだろうが、観客は岳の方に注目を集めているようだった。
岳は余裕たっぷりに観客席に向かって手を振って挨拶をしている。
(観客は、どうでもいい)
大きく息を吸って、肺に溜まっている二酸化炭素を全て無くすつもりで大きく吐く。
アウェイな環境だろうが、荒れたレースコンディションだろうが、教え子が力走しようが、鍋島がこのレースですることは何一つ変わらない。
岳を封殺する。
それだけのことだ。
鍋島には摩那のようにこのレースに向けての具体的な目標タイムを設けてはいない。
それは純粋にタイムを競い合うようなレースになれば現役の岳の方に分があると思ったからだ。
タイムも楽しさもどうでもいい。
走ることが面白かったという原点は今はもう忘れてはいない。
ただそれでも、競技者としての鍋島肇にとって一番価値があるものは1位という結果だ。
鍋島という個人が重視するものと、競技者として重視するものは別ということだ。
その割り切りができるようになったのは、今年一番の成長だろう。
吐ききった息を今度は大きく吸う。
空っぽになった肺を湿気を帯びた空気が満たしていく。
雨で濡れて重たくなっていく頭とは反対に、脳は酸素が行き渡ってクリアな感覚になる。
どちらにせよ、走るのならば1位以外は満足できないのだ。
「On Your Marks」
スターターの声に合わせて、自分のスタートラインに足を合わせる。
ぱしゃりと水たまりが跳ねる音がした。
靴はもう水を吸いきっていて、ぐじゅぐじゅと靴下が気持ち悪い音を立てている。
ユニフォームが肌に張り付く感覚も、髪から雨が滴り落ちる感覚も、全てを無視して聴覚だけに意識を向ける。
世界が一瞬無音になったと錯覚するほどの静けさが訪れて、その瞬間全てを切り裂くようにピストルの音が鳴り響く。
それとほぼ同時に鍋島の体が動き出す。
一歩二歩三歩、加速した初速を緩めずにコーナーの終わりを目指して走る。
記録会のときは同格の相手がいなかったから、相手の出方を見るために最初の100mは緩めたタイムで入った。
今回は違う、岳がいる。
初速を緩めて出遅れてしまえば、巻き返すことは不可能になる。
最善は先頭でレースメイク、次善は岳の真後ろでいつでも対応できるようにすること。
そう考えたのも束の間、視界に映ったものに鍋島は気がついて無理矢理体を加速させる。
鍋島は決して800mのスタートダッシュで考えれば遅くない、むしろ速いペースで走っている。
それなのに、じりじりと離れていく人影がある。
(似てないとは思ったが、バカみてぇなレースは兄妹で似るんだな!)
岳が初めからぐんぐんと飛ばしている。
800mはよく、全力疾走に近い速度で中距離を走る競技だと言われるが、あくまで全力に近い形なだけであって余力は残している。
そうでなければ最後まで走り切ることはできないからだ。
それだというのに、岳のペースは全力と言っていいほどの速さだ。
絶対に最後まで体力が持たないペース、そう断言できるほどのオーバーペースだ。
放っておいてもばてる、追いかける必要はない。
しかし鍋島は頭の中で舌打ちをして、その岳を追いかける判断を瞬時に下した。
さっき摩那がそのバカみたいな大逃げで勝ったばかりだ。
それに、岳は気分が乗ったとき手が付けられなくなるタイプだ。
このまま逃げ切られることが想定できる最悪のパターンだ。
今付いて行かなければ、どうしようもない事態になる。
そう考えてからの反応は速かった。
「ふっ!」
ペースを上げて、2レーンを走っていた金髪の男を抜き去る。
ぎょっとしたような顔をしており、こちらに付いてくる意思はなさそうだった。
ブレイクラインを越えてそれぞれの選手が1レーンを目指して移動し始める。
岳が一足早く、それに続く形で鍋島が走る。
元々1レーンからスタートした鍋島は横にズレる動きが必要ない分、スムーズに岳に追いついた。
第三コーナー前に岳と並ぶ。
鍋島が内側、岳が外側で1レーンの中で並走する。
ペースは相変わらず速いままだ。
第三コーナーに置いてある電子タイマーが200mを25秒台後半を示している。
これは、鍋島がインターハイで走った時とほぼ変わらないラップタイムだ。
どうやら岳は、今の鍋島と過去の鍋島を同時にまとめて超えるつもりらしい。
(舐めるなよ......!)
そのままコーナーに入るならば、外側を走る岳の方が余分な距離を走ることになる。
もし岳が先頭になろうとペースを上げるなら鍋島も上げる。
もし後ろに下がってやり過ごそうとしても鍋島もペースを下げてぴったりと真横を維持し続ける。
マンツーマンだからできる対応だ。
最後のスパート勝負まで、そうやって細かく体力を削る。
スパートの速度は互角のはずだ。
それならば、勝敗を決するのはスパートの切れ味だ。
岳のスパートがなまくらになるまで体力をゴリゴリに削り、岳が反応できないスパートを仕掛ける。
「はっはっ! 楽しいな鍋ちゃん!」
並走したままコーナーに入るとき、真横から声が聞こえた。
レース中だというのに喋る余裕があるとは、そう思った瞬間思考が衝撃で白く飛んだ。
鍋島の右肩と岳の左肩が激しくぶつかって、体についている水滴を吹き飛ばす。
(被せてきやがった!)
岳が無理矢理インに入ろうとして、接触したのだ。
お互いの腕に肘打ちを入れ合うような距離感になる。
鍋島は譲らない、今のポジションがベストだと知っているから。
岳は離れない、外側を走っている以上内側の人間の体力を削る方法がこれしかないから。
さっきまでは岳はタイム勝負がしたいのだと思っていたが、どうやら違うようだ。
これは、どちらが先に音を上げるかの根性勝負だ。
一回でも先頭を譲ろうものならば、このレースは勝てないだろう。
そう思わせるほどのプレッシャーが岳から放たれている。
こう密着していては駆け引きもなにもあったものではない。
マンマークしているのは俺か、それとも岳の方か。
「最後までやろう! 鍋ちゃん!」
「......くたばれ」
ホームストレートで吠える岳に対して、鍋島は呼吸の合間に小さく呟き返した。
まだ一周も終わっていないというのに、お互いの息は上がり始めていた。
それだというのにペースが落ちないのは、意地かプライドか。
これでは、スパートを仕掛ける体力などお互いには残っていないだろう。
泥仕合の始まりだ。
地獄の2周目を告げる鐘の音が鳴り響いた。
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