振り絞れ
(ついてねぇなぁ......)
午前中のカラッとした天気はどこに行ったのか、空一面は濃い灰色で埋まっている。
雨脚は強く、観客席の屋根を力強く叩く音がやけにうるさく聞こえた。
すでにトラックは水たまりが色濃くできており、トラックを二周もするとなれば濡れ鼠になることは確実だった。
そんなトラックの様子を、スタート地点近くにある用具室で見ていた。
最終招集場には屋根がなく、雨よけの頼りないパラソルが二つ程度置かれているだけだ。
そのパラソルに入れなかった私のような人間は、大人しく近くの用具室のコンクリートの上にあぐらをかいている。
夏とはいえ直に座るコンクリートの床は冷たく、少し不快な気分になる。
(くそっ! くそっ!)
苛立ちを隠しきれず、持っていたプログラムを強く床に叩きつけた。
周りの何人かが冷ややかな目線を向けてきて、それがさらに苛立ちを募らせた。
レース直前だというのにこのメンタルの荒れ具合は良くないと自覚しているが、それでも落ち着くことができなかった。
手足の先に鉛でもついているかのように体は重く、走ってもいないのに足には乳酸が溜まっているようだった。
自己ベストに向けて練習を重ね焦点を合わせてきたこの大会、決勝に進むことは当初の予想通りだったがそれ以外は何もかもが上手くいっていなかった。
(なんで今日に限って大雨が降るんだ! なんで私が1レーンなんだ! なんで私はこんなに疲れなきゃいけなかったんだ!)
心の中でいくつもの憎悪が湧いてきて、視界の先に映った少女を強く睨みつける。
数少ないパラソルの下、レース前だというのに男を連れている姿が見える。
練習の苦労も知らなそうな真っ白い肌に、雨模様の中でも輝いている綺麗な茶髪も、何もかもが癇に障る。
(上條 摩那......!)
同じ組で走る人間は事前に全て調べていた。
その中で上條は今年になるまで一切のデータがなく、唯一走っていた記録会も大したことのないタイムだった。
予選は大したことのないレースになる。
決勝に向けて力を温存して、ベストはそこで狙っていけばいい。
そう考えていたのに、この少女が全てを荒らしまわっていった。
予選だというのにラスト一周からスパートをかけてきて、先頭でレースメイクをしていて私は咄嗟に反応できなかった。
そのせいで二位を取るために私も予定を変更して全力で走らざるを得なかった。
予定外のペースというものは体力を必要以上に削られる。
私が今ベストコンディションではないのは、全て目の前の少女のせいにほかならなかった。
逆恨みだと言われても、私にはそうとしか思えなかった。
スパイクの紐を必要以上にきつく縛りながら、私の心は醜く燃え盛っていく。
(ベストであろうとなかろうと、絶対にこいつにだけは負けない)
コーチと思わしき男に背中を叩いてもらって力を貰っている姿に、対抗心が強く湧く。
それと同時に、大会の審判が大きく声を張り上げるのが聞こえた。
「女子800m決勝出場選手は各レーンに入ってください!」
ジャージを脱ぎ捨てて、頬を軽く叩いて気合を入れる。
大雨の中薄いユニフォームだけで外に出るのは、慣れていても憂うつなものだ。
夏の生暖かい雨が靴下やユニフォームに入り込んできて気持ち悪い。
自分のレーンで軽く50mほど流しをして、スタートの感覚と体の調子を把握する。
悪天候と不調が重なり最悪と言ってもいい体の重さだった。
「ただいまより女子800m決勝を開始します。1レーン、安形高校藤沢藍さん」
自分の名前が実況に読み上げられると同時に、レーンと観客席に向かって一礼をする。
決勝からは実況がついて、それぞれ所属と名前を読み上げてくれるのだ。
4レーンにいる上條はそれを知らないのか、あたふたと周りを見てなんとか真似をしているようだ。
その姿がもっと私の心を逆撫でる。
県選手権の決勝の舞台とは、礼儀作法の一つも知らないビギナーが来ていいところではない。
叩き潰す。
なぜ800mが陸上競技の格闘技と呼ばれているか、分からせてやる。
予選のようなまぐれな勝ち方はさせない。
「On Your Marks」
聞き慣れた単語が耳に入り、体は自然とスタートの体勢を作る。
大粒の雨が地面を叩く音だけが聞こえている。
髪から伝った雨が頬を濡らし、ポタリと地面に落ちた。
その瞬間ピストルの音が鳴り響く。
丸まっていた体が弾けるように起き上がり、グングンと加速していく。
重かった身体はアドレナリンで誤魔化せているのか、思ったよりも軽やかに動いてくれる。
(くそ、雨が強すぎて目に入る!)
降り続く雨の中、短距離走に近い速度で走る。
顔を守るものは何もなく、雨粒が瞳に容赦なく入り込んでくる。
レース中に瞳を擦るわけにもいかず、必然的に瞬きの回数が増える。
ただでさえ不良な視界が瞬きによってさらに遮られる。
それに強いストレスを感じたとき、違和感に気がついた。
ブレイクラインを越えて各選手が1レーンに寄ってくるなか、一人だけやたらと前にいるような気がした。
スタートの位置のズレだけではない。
明らかに、オーバーペースで走っている人間がいる。
(......っ! またお前か!)
雨で狂っていた距離感が正常に働く頃には遅かった。
上條が、集団から抜けて一人逃げていた。
漆黒のユニフォームが雨で煙るタータンの上、じりじりと離れていく。
決して集団も遅いペースではない。
それだというのに、離れていく。
無理だ、そのペースで最後まで行くことは。
絶対に最後まで持つことはない。
他の選手もそう判断したようで、誰も上條を追いかけることはしない。
(馬鹿が! 勝手に自滅してろ!)
***
「はっ、はっ、すっ、はっ!」
口からこぼれる呼吸のリズムは規則的で、地面を踏みしめる足には力が籠っている。
極限まで集中しているのが自覚できる。
瞳を打つ雨粒が見える。
呼吸とともに落ちていく涎が分かる。
脈打つ鼓動がハッキリと聞こえるのに、観客席から聞こえるはずの歓声は届かない。
バックストレートを走り抜ける。
水たまりをスパイクが踏みつけてぱちゃりと水しぶきを上げている。
自分の後ろには誰も付いて来ていないことが感覚で分かる。
私にはレースの経験が少ないかもしれない。
それでもこの三か月、ずっとずっとコーチと二人で走ってきた。
自分の前後に人がいないことはハッキリと分かる。
(ペースも悪くない!)
第三コーナーを抜けて、カーブを走りながら自分のペースを把握する。
最初の200mは気持ちよく飛ばして走った。
これから600mあるとは思えない速度で走ったのだから誰もついてこないのは当然だ。
誰も彼もが思っているはずだ。
最初のペースでは最後まで走り切れないと。
それが、私の考えた必勝の策であるとは誰も思わないだろう。
『それで、結局策って何を考えているんですか?』
『一緒に走る人には飛ばしていると勘違いさせて、実はそこまで速いペースではないレースをします! 最初の200mは先頭に立つため気持ちよく走って、そこからはイーブンペースで最後まで粘ります』
『......それなら確かに順位もタイムも狙える作戦ですが、あまりにも理想論では? 他の選手が勘違いしてくれることを前提にするのは流石に甘えでは?』
『コーチがレースに出るとして、最初にオーバーペースで走っている相手をわざわざ追いかけますか?』
『......いえ、追いかけませんね。逃げている相手のベストタイム次第ですが、二番手の選手と一緒にレースを作ると思います。失速する相手に付き合う必要はない。ラストのストレートで抜ければいい』
きっと、コーチの言った通りの展開になっているのだろう。
最後に失速してくると思って他の選手は集団を作っているはずだ。
私以外の選手は何回もレースを走っている経験者ばかりだから、真っ当なレース展開を選ぶだろう。
だから気がつかない。
私がもうオーバーペースで走っていないことに、気がつかない。
『最初の印象でオーバーペースを意識させて、距離が離れれば私の作戦勝ちです。コーチ、午後の天気を知っていますか?』
『雨でしょう? 午後どころか今も降っていますよ』
『雨じゃありませんよ! 大雨です! さっきお母さんと一緒にスマホで確認したので間違いないです! 今年一の大雨になるらしいですよ!』
『それが、作戦と何の関係が?』
『大雨なら晴れと違って、距離感が掴みにくくなると思います。足元は水たまりの反射で見えにくくなりますし、大雨の中のレース経験が多い人って少ないですよね? 失速すると思っているなら私がペースを落としても気がつく人はいないですし、自分のペースと私のペースを同時に把握しようとはならないですよね?』
『…………そうなるでしょうね。ですが、摩那さんにそんな細かいペース配分ができるんですか?』
『細かいことはしませんよ! 最初は飛ばして走って、後はコーチと練習し続けたタイムで走るだけです! コーチも知ってるでしょう? 私、一人で決まったペースで走るのは得意ですよ!』
コーチと初めて一緒に走った日を思い出す。
絶望的なリズム感だと、ペースが分かっていても臨機応変なフォームがないと言われた日を。
その運動音痴の対策として相手と付き合わない最後尾からのレース展開を練習してきた。
それとやることは何も変わっていない。
自分のペースで、自分のリズムで、自分の走りで、最後まで走り抜くだけだ。
第四コーナーを抜けて、ホームストレートを走り抜ける。
水たまりには薄黒い雲が反射して、雨によっていくつも波紋を広げている。
うるさいほど感じるはずの歓声は聞こえない。
それでもたった一人の声だけは、スッと鼓膜に届いてくる。
必死に口を大きく開けて、喉が張り裂けんばかりに叫んでいる声が。
「お姉えー! 青ー!! 青ー!!」
一瞬だけ視線をやると観客席の一番前で、カッパ姿の太一が大きく叫んでいる。
どこかでお母さんもハラハラしながら見ているのだろう。
太一の口から聞こえた色の名前に、ニヤリと口角が上がる。
必勝の策は雨を活かしたレース展開だけではない。
コーチが心配するように、私には細かいペース配分はできない。
一度だけのペース変更も、本番の興奮で意識が飛んでしまうかもしれない。
その対策はもちろん考えてある。
太一に教えてもらうのだ。
陸上競技は電光掲示板にレース中のタイムが常に表示されている。
設定したタイムとレースのタイムが問題なければ青、速すぎるなら赤と言ってもらう。
今日だけしか使えない策かもしれないが、使えるものは何でも使うのだ。
天候も外部の声でも、勝つためにできることをする。
それがコーチの教えでもあったし、何よりも楽しかった。
鐘が真横で鳴り響き、最後の一周に差し掛かったことを会場に告げる。
表示されたタイムは1分4秒34。
二周目もできるだけこのタイムに近いタイムで帰ってくる。
それができれば、目標タイムを大幅に上回る結果が出るはずだ。
(ここから、最後まで!)
そう思ったとき、スタート地点にいたコーチの姿が目に入った。
コーチはこちらを見ていない。
ただベンチに腰掛けて、足元を見つめているようだった。
雨よけのパラソルの下で一人黙々と集中している顔を見て、私の中でギアが一段階上がるのが分かった。
(コーチも、自分のレースを楽しみたいですもんね!)
私のレースの後に男子も決勝があるのだ。
自分のレースに集中したいのだろう。
表情を歪め、大声を張り上げて応援してくれた記録会とは真反対の姿だった。
初めての教え子のレースにハラハラしたのだろう。
冷静なコーチが取り乱すほどの頼りのない走りをしたのだろう。
今は違う。
『あなたの走りたいように、走ってください』
信頼されている。
コーナーを抜けて、最後のバックストレートに足を踏み入れる。
ギアが上がったと言ってもそれはあくまで感覚の話で、疲労が溜まった体ではペースは落ちているだろう。
手を必死に振って、落ちそうになるピッチを維持し続ける。
肺は新鮮な空気を求めていて、口元は開きっぱなしになっている。
手足の指先が酸欠で痺れてきて、感覚が薄くなる。
人生で一番辛いと言っても過言ではないほどに乳酸が筋肉に溜まっている。
明日はまともに歩くことすらできないだろう。
ただ今は、その痛みが何よりも愛おしかった。
(最後まで、最後まで!)
この痛みは私が自分の足で走り続けていることの証だ。
この苦しみは私が自分を追い込んでいることの証明だ。
最後までこの足を緩めることはない。
呼吸のリズムは分からない、視界は霞みぼやけて見える、鼓動の音だけがうるさく鼓膜に響いている。
600mを走り抜ける。
コーナーの入り口に置いてある電光タイマーの数字すらまともに見えない。
それでも、最後の最後を出し切るまで走るのだ。
私があの日憧れた、コーチがそうだったように。
「行け、摩那さん」
届くはずのないコーチの声が聞こえたような気がした。
「──ぁぁあい゛!」
幻聴に対し絞り出すように声を上げる。
首をみっともなく左右に振って、お世辞にも綺麗とは言えないフォームで走る。
ホームストレートが揺れているのは、観客の声援か私が異常なのか。
どっちでもいい。
走り切れれば、それでいい。
ゴールラインが目に入る。
それに向けてがむしゃらに体を動かして、崩れ落ちるように胴体を放り込む。
ばしゃりと水たまりに体が倒れこむ。
もう指先一つ動かすことすらまともにできやしない。
目線は変哲のない雨雲から動かず、自分のタイムも分からない。
そうなるほど、私は最後まで走り切った。
「はあっ、はぁっ......楽しかった……!」
あぁ、楽しかった。
足に走る痛みよりも、酸欠で眩む視界よりも、ユニフォームに伝わる水たまりの不快さよりも、何よりも楽しさが勝っている。
私が望んだものが、今ここに全てあるような気がした。
「ナイスラン」
「......えへへっ、初めてレースで褒めてくれましたね、コーチ」
評価、感想、誤字指摘等していただけると嬉しいです。
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