突飛
新年あけましておめでとうございます。
今年も一年よろしくお願いいたします。
「ふぅ、こんなもんか」
額に浮かんだ汗を手で拭い、電光掲示板に表示された自分のタイムを見つめる。
自分の前では力を出し切ってタータンに寝転んでる選手がいて、後ろではまだゴールしていない選手が顔を歪めて必死に走っている。
それを尻目に鍋島はベンチに向かって歩き出す。
予選は終わった。
決勝に向けて体とメンタルのコンディションを最高潮に持っていかなければならない。
(ダウンして軽く寝て、早めにご飯食べるか。あぁ、摩那さんの様子も見なきゃなぁ)
ぼんやりと考えながらベンチに戻ると、ひどく不服そうな顔をした摩那とニヤニヤと笑みを浮かべる岳がいた。
兄妹の割には、あんまり表情は似ていないな。
そんなことを思っていると、摩那が口を開いた。
「......コーチ、自分が走る前に何て言ったか覚えていますか?」
「完璧な予選の走り方を見せると言いましたね」
「これのなにが完璧なんですか!? 三位じゃないですか! 二位ならまだしも三位って、タイム抜けも怪しいラインじゃないですか! 私と一緒に一位になろうって話したのに!」
「いえ、決勝は行けますよ。そうなるように調整しましたから」
「調整?」
迫る摩那を落ち着かせながら、鍋島は自分が予選で選んだ作戦を説明する。
鍋島はそもそも一位で予選突破をするつもりはなかった。
大会への参加人数が多くなると、大会優勝が目的ではなく予選突破が主目的になる選手が増える。
予選で死に物狂いで走ってくる相手と一位争いを繰り広げるのは体力の浪費にほかならない。
タイム抜けで予選を突破する方が遥かに楽なのだ。
幸いなことに自分は最終組であったから、どのタイムが決勝への足切りラインになるかは知っていた。
それならばそのタイムを切れるように走ればいいだけだ。
決勝進出した八人のうち、鍋島は現状最下位のタイムだ。
だからなんだというのだ。
決勝で勝てればいい。
そのためならいくらでも予選は手を抜こう。
岳のような派手さも面白みも何もない走りだ。
ただそのおかげで大した疲労もなく決勝を迎えることができる。
決勝で勝つという目標を見据えた時、現状は完璧な予選の抜け方をしたと言えるだろう。
「でもよぉ鍋ちゃん。シードレーンは無くなっちまうぜ」
「シードレーン?」
ジャージを着ていると、岳が笑みを崩さずに話しかけてくる。
摩那は聞き覚えのない単語に疑問を浮かべているようで、こちらに説明を求めてくる。
そんなルールもあったなと鍋島は思いながら話す。
「陸上競技では主に4レーンから7レーンがシードレーンと呼ばれ、予選で順位のいい選手がそのレーンに抽選で割り振られます。内側はコーナーの角度がきつく加速しづらく、外側は内側のレーンが見えないからペース配分が難しい。真ん中のレーンはそれらのデメリットがないため有利と言われています」
「へぇー。じゃあ私は決勝でシードレーン貰えるってことでいいんですか?」
「ええ。組の順位もタイムもいい結果を残しましたからね。摩那さんはシードレーンになるでしょう」
「やった、走りやすいレーン貰えるんだ......あれ、それならコーチはどうなるんですか?」
「1レーンか8レーンのどっちかじゃないですか。最下位なんで」
「ダメじゃないですか!」
「問題ありませんよ。シードレーンだろうがどのレーンだろうが今回はやることが決まってますからね」
鍋島はそう言って、岳の方に視線を向ける。
予選で体力をできる限り温存したのも、他人に頭を下げてまで練習してきたのも、全て今日の決勝のためだ。
走り方は、ずっとずっと前から決めてきた。
「マンマークだ。お望み通り真剣勝負をしてやるよ」
「......いいね、昔よく見た顔だ」
岳の唇が吊り上がり、白い歯が覗く。
獲物を見つけた肉食獣のような笑い方だった。
摩那に教えた走り方がある。
駆け引きのできない彼女のために、レース展開を気にしなくてもいいようにあらかじめスパートタイミングを固定するというものだ。
序盤は耐えて、ラスト一周になったらロングスパートを仕掛ける。
これから鍋島がしようとしていることはその対極にあるようなレースだ。
最初から最後まで、ずっと岳だけを見て走る。
ペースは? 展開は? スパートタイミングは?
一対一で無限の駆け引きをし続ける。
他の選手は眼中にない。
この男に勝てなければ一位にはなれないからだ。
獲物はどちらか、分からせる必要がある。
「それじゃ、また後でな」
「あ、お兄ちゃんお母さんと太一が会いたがってたよ!」
「気が向いたら顔出すよ」
そういって岳は手をひらひらと振りながら去って行った。
その後ろ姿を見送ってから、鍋島は大きく息を吐いた。
慣れていないせいか、誰かに面と向かってケンカを売ることは少し精神を疲れさせる。
スパイクの紐をほどきながら、気分をゆっくりと落ち着かせていく。
ランニングシューズに履き替えてベンチから立ち上がる。
「さて、決勝の時間までゆっくりとしますか」
「はい!」
予選は終わった。
あとは、決勝だけだ。
強く吹いていた風が少し弱まって、その代わりに空には分厚い雲がかかり始めていた。
午後は、少し荒れそうだ。
***
「コーチ、一つ相談があるんですけど」
鍋島がサブトラックに設置したテントで毛布にくるまって寝転がっていると、外の方から摩那の声がした。
摩那は決勝までの暇な時間を家族と一緒に観客席から見ていたいという理由で離れていた。
腕時計で時間を見ると、もうすぐ13時になるところであった。
決勝の時間が15時だから、アップするにはまだ早い時間だ。
何かあったのだろうか。
「決勝の話ですか?」
「はい。走り方の相談なんですけど……」
何かを言い淀む摩那の様子を見て、背中に嫌な予感が走る。
今までの経験が告げている。
ろくでもないことを考えている、と。
「決勝なんですけど、私もレースを作ってみたいんです!」
「......はぁ」
「あ、呆れてますね? 私ごときでは走ってる時に駆け引きできないと思ってますよね?」
「実際にできませんよね」
摩那のレースの作戦は、彼女の運動神経の悪さから作られたことを忘れてしまったのだろうか。
決勝前のこのタイミングで急に作戦変更をしたいなど言い出すとは夢にも思わず、鍋島は頭を抱える。
摩那は愚かではない。
運動神経は悪くレース経験も少ないが、それは彼女も重々理解しているはずだ。
それなのにこんなことを言い出すということは、彼女なりの考えがあるということだ。
「確かに私にはコーチのような細かいレース展開を作ることはできません。走りながら全体のタイムを考えたり、良い位置取りを常に取り続けるなんて器用なことはできません!」
「胸を張って言うような内容でもないんですが、まあ自覚があるということでいいでしょう。それで、そんな摩那さんがどういうレースをしたいと言うんですか?」
「大逃げします! 最初から最後まで先頭で走ります!」
鍋島はもう一度頭を抱える。
それができたら苦労はしない。
摩那の発言はかつて鍋島が考えたこともあるが、現実的ではないと否定したレースだ。
そんなバカげたことを言い出しているにも関わらず、摩那の瞳はキラキラと輝いていて曇る気配はない。
自分が何を言っても、この意思は曲がらないのだろう。
きっと、何か楽しいことでも見出してしまったのだ。
それは摩那の走る意味なのだから止めることはできない。
それでも無謀な思い付きならば修正する必要がある。
指導者の立場として、声色に気持ちが乗らないように冷静に鍋島は問いかける。
「......大逃げなら、展開も何もないのでは?」
「私、予選を走って分かったんですよ! レースって先頭の方が有利に走れるって!」
「まぁ、ペースを決めるのは先頭ですからね。後ろからのレースだとブロックされる可能性もありますし、前の方が有利なのは合ってますよ」
「そうですよね! だから決勝は私のペースでレースを作りたいって思ったんです! ほら、これ見てくださいよコーチ!」
「掲示板に張ってあるリザルトですね」
摩那が差し出したスマートフォンには掲示板に張り出された競技結果の写真があった。
その中に女子800m決勝のプリントもあり、それぞれの決勝進出タイムと割り当てられたレーンが書いてある。
摩那は4レーンと良いレーンを貰ったようだ。
予選のタイムは全体的に横並びといったところだ。
鍋島が見ていた範囲では姫井のような突出した選手はおらず、摩那が目標タイムで走れれば一位に手が届くだろう。
「これがどうかしましたか?」
「全体的にタイムが近いですよね? 私もそうですけど、他の人も予選から全力を出し切っていた人は少ないと思うんですよ」
「そうでしょうね。少なくともシードレーンに入っている選手は予選を流していたでしょう」
「ベストタイムもずば抜けて速い人もいないですし今日のタイムも横並びになるってことは、決勝は一位を狙ったじりじりとした展開になりますよね? 予選のときに感じたんですけど、順位狙いのレースはスローペースになりがちですよね」
「......そうですね」
実力がある人間や自己ベストを狙う人間はある程度序盤からペースを作るものだが、今回はそうではないだろう。
インターハイが控えており有力な高校生は参加しておらず、飛びぬけた実力を持つ社会人がいるわけでもない。
タイムが横並びということは出場する選手全員理解しているであろう。
お互いがけん制し合い、スパート勝負のタイミングまで集団になっている可能性は高い。
そんな展開のレースは経験の少ない摩那にとっては不利だ。
現在のラスト一周からスパートをかける展開も、対応できる選手がいればいいように風除けとして使われてしまう可能性もある。
今までは摩那の走りに反応できる相手がいなかっただけで、決勝も都合よく進むとは限らない。
じりじりとした腰を据えたようなレースよりも、最初から荒らすような展開の方が摩那にとってはタイムも順位も良いものになるかもしれない。
ただそれは、分の悪いギャンブルに他ならない。
逃げの練習はしていないし、何より先頭で走り続けるだけのタイム感が摩那にはない。
「ふふん。さては私が伊達や酔狂でこんな提案をしていると思っていますね?」
「摩那さんはそういう性格でしょうが」
「違いますよ! ちゃんと勝率があるからの提案です!」
「はぁぁぁ、聞きたくねぇ」
「あ! ちゃんと聞いてくださいよ!」
鍋島は摩那の顔から視線を外し、布団を頭から被って寝転んだ。
どういう目算を立てようとも、その場の思い付きというのはろくでもない結果にしかならないものだ。
それでも何とかしてしまう人間もいるのだが、そういった華があるタイプの人間は少ない。
……摩那は、何とかしてしまう側の人間のような気がするが。
薄いテントのシートをぱらぱらと何かが叩く音がして、放り投げかけていた思考が元に戻る。
競技が終わるまでもてばいいと思っていたが、思ったよりも空の機嫌はよくないようだった。
濡れないようにと声をかける前に、摩那はいそいそとテントの中に入ってくる。
狭いテントの中、無邪気に体を揺すりながら摩那は話しかけてくる。
「私の必勝の策を聞いてくださいよ!」
「いやだなぁ。ギャンブルにはまってる人のセリフみたいで」
「大丈夫ですよ。再現性があって安定性もあるので!」
「......完全に中毒の人の言い方で、本当にいやだなぁ」
身近なギャンブル狂いの幼馴染の姿を思い出して大きなため息をつく。
テントを打つ雨音でため息は聞こえなかったのか、摩那は楽しそうに語り始めた。
……本人が楽しそうだから、いいか。
そもそものこの関係自体、目算もなにもあったものではないのだ。
勢いと偶然から始まった陸上なら、その場の勢いで走るのも悪くはないだろう。
布団越しに伝わる体温に眠気を覚えながら、投げやりに考える。
雨によって気温が冷えていくにつれて、摩那の体温は燃えていくように熱く感じた。
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