エンターテイナー
「摩那さん、説教です」
「そんな! 私自己ベストで走ったのに!」
走り終わったばかりの摩那の顔を見る。
余裕はまだありそうな顔で、汗はかいているが表情はいつも通り快活だ。
足も腕も乳酸は溜まっている様子だが、痙攣を起こすほどの疲労はないようだ。
それを確認して、鍋島は安心して大きくため息を吐いた。
予選突破かつ自己ベストは素直に喜ばしいが、それ以上に指摘しなければならないことがあった。
「後半、飛ばし過ぎではありませんか? 気持ちよく走りすぎです」
「え、そうでしたか? まだ余裕ありますよ!」
「600mで自分が先頭に立ったのは分かったはずです。二着まで許されるんですから流して走っていただかないと。決勝に疲労が残りますよ」
「決勝まで六時間もあるんですよ? これぐらいの疲労はなんとかなりますよ!」
「今はアドレナリンが出ているのでいいですが、午後はだるく感じますよ」
「私なら回復しきってみせますよ!」
「......摩那さんの体の強さなら、本当に回復してそうで嫌ですね。繊細な調整なんて要らないって言われてるような気分がします」
レースの疲労というものは気がつかないうちに体を蝕むものだ。
今はよくても、クールダウンの最中に言いようのない体の重さに襲われることなどざらにある。
それを軽減するために力ある選手は予選を六割程度の力で流して走るのだが、摩那には難しい注文だったようだ。
そもそも、本人の性格上抑えて走るのは苦手なのかもしれない。
力を調節して走るなど器用な事ができる性格ではない。
余力を残してゴールしただけ、初めてタイムトライアルをした日と比べれば大分成長したとも言える。
(初めての予選、緊張してパフォーマンスが出ないよりはマシか)
摩那といくつか言葉を交わしながら、鍋島は電光掲示板を何回か確認する。
男子800mの三組目が終わったようで、全員の名前とタイムが映っている。
三組終了時点での最も速いタイムが1分56秒56。
全体的に遅めのタイムだが、力ある選手が軒並み流している様子だった。
場慣れしている選手はやはり、力の抜きどころが上手い。
そんなことを考えながら電光掲示板を眺めていると、パッと表示が変わって四組目の出走者の名前が映し出された。
「あ、お兄ちゃんの名前がある!」
「さて、インカレチャンプはどんな走りをするか見物ですね」
仮想敵ということもあり、岳の走りはインターネットにアップされている動画は予習済みだ。
一言でその走りを表せば、快楽主義者だ。
自分が楽しいと思える展開ならばなんでも試す男だ。
スローペースでじっくりとスパート勝負をしたいと思えば後ろで控えることも厭わない。
序盤からハイペースでの飛ばし合いをしたいと思えば果敢に先頭を引っ張ることもある。
気分屋のような走りをし、かといって大事な一戦ではお手本のようなレース展開を披露するときもある。
変幻自在なレース作りは、摩那とは真反対の選手であった。
その反面、どうでもいいレースでは気分が乗り切らないのかタイムが伸びないというムラっ気のある性格をしている。
(今日はどちらかな......)
「四組目、自分のレーンに入ってください!」
あくび混じりに自分のレーンに入って行く岳を見る。
黒くガッシリとした体格はユニフォーム姿で見ると、短距離選手のように筋肉がついており威圧感がある。
大学生の頂点に立ったという自負か本人の生来の気質か、一目で速いと分かるオーラのようなものを放っている。
自分が予選ごときで落ちるわけがない。
そういった自信が見ているだけで嫌というほど伝わってくる。
周りの選手も遅いというわけではないのだが、流石に全国レベルと比べると格が落ちる。
肩越しに岳の様子を盗み見するような選手が何人かいる。
自分よりベストタイムが圧倒的に速い人間がいるのだ、意識しないことはできないのだろう。
男子800mは五組の各一着と上位タイム三人の計八名が決勝に進出する形式だ。
圧倒的なタイムを持つ岳がいるということは、その組の順位抜けはほぼ不可能ということだ。
つまり、予選から良いタイムを出すことを四組目の選手は強いられている。
岳とそれ以外の選手で、予選に対する意識が明確に違う。
「On Your Marks」
スターターの声がマイクに乗って会場に響く。
騒々しい観客席が静まり返って、レーンに立った選手から緊張が走る。
岳だけはろくなスタートの姿勢も取らないで、リラックスした立ち姿勢であったが。
雷管の音が静寂を切り裂くと同時に、選手の体が勢いよく飛び出していく。
(速いな)
岳がいるせいだろう。
選手のほとんどがスタートから飛ばしている。
余力を残したまま予選抜けをできると思っていないのだろう。
これまでの組と比べて明確に、最初の100mから飛ばしている。
ブレイクラインに到達するまでに、岳の後ろを取れるかの勝負だとその場の人間で意思疎通が取れているようだった。
先頭に立った選手は100mを12秒台に近いペースで走っただろう。
良いポジションを取るために体力を犠牲にしたその行為は、通常なら間違った判断とは言えない。
「……ご愁傷様」
通常なら、悪くはない選択肢のはずだった。
バックストレートの中ほどまで走った選手たちは違和感に気がつき、慌ただしく首を振り始めた。
先頭にいると思われていた岳が、いない。
「あれ、お兄ちゃん最後尾からレースするんだ」
岳は集団には混ざらず、一人ポツンと最下位を走っている。
レースにもかかわらず、大きなあくびをかますほどの余裕がある。
「お兄ちゃん、余裕あるなぁ」
「あれは慢心ですからね。摩那さんは見習っちゃダメですよ」
第三コーナーを抜けてもまだ岳は最下位だ。
岳の背中を追い続けるつもりだった先頭集団はまさかの展開に困惑しているのか、ペースが大幅に落ちている。
そのせいで流して走っている岳と先頭の集団がじりじりと縮まっていく。
こういった中だるみの展開になると、タイムは期待できないものになる。
800mの良いタイムの出し方は一種類しかない。
最初から最後までハイペースで頑張る、それだけだ。
一度大幅に落ちてしまったスピードというのは、タイムを出すという観点から見たら致命的な失敗だった。
岳が見えなくとも、最初のペースで最後まで完走をトライすべきだった。
そうでなければ、後ろで控えている化け物の餌食になるだけなのだから。
鐘がなるまで我慢できなかったのか、ホームストレートのど真ん中から岳がスパートをかけ始める。
観客席に向かって煽るように手を上げるパフォーマンスつきだ。
盛り上がる観客に乗るかのように最後の一周を告げる鐘が鳴り響く。
岳のスパートについていける選手はいない。
みるみると差が開いていく。
心が折れる音が聞こえた。
順位もタイムも期待できないレースというものは、選手の心をひどく弱くする。
タイム抜けを最初から狙っていただろう選手たちの目論見は、一周目で全ての歯車が狂ってしまった。
それを理解しているのだろう。
誰も二位を狙おうと最後のスパートをかける選手はいない。
異様なレースが眼前に広がっている。
歓声を受ける一位と、見向きもされない集団。
予選でこれほど歓声が上がるというのは珍しい。
岳は満面の笑みを浮かべながらゴールラインを踏んだ。
電光掲示板に表示された速報タイムは1分56秒00。
あれだけ遊んでおいて、現在のタイムで一位に躍り出た結果になる。
観客に向かって大袈裟に礼をした岳が、軽い足取りでベンチに戻ってくる。
鼻歌交じりで歩いてくる岳と、目が合った。
ニヤリと笑みを浮かべ、こちらに向かって歩いてきた。
隣で立っている摩那にも気がついたようで、親しげに手を上げて声を掛けてくる。
「よっ、さっきぶり鍋ちゃん。一足お先に決勝で待ってるね。あ、摩那も速くなったな」
「お兄ちゃんは相変わらずだね。レースでも余裕ぶった走りをするんだ」
「盛り上がるだろ、ああいう走りの方が」
「そうかもだけど、あんまり憧れはしないなぁ」
「摩那は真面目だからな。ちゃんとしたレースは鍋ちゃんから学んでくれ」
「ええ、教育に良いレースをしますよ」
スパイクの紐を確かめて、鍋島はジャージを脱いだ。
鍋島がいる五組目のスタートが近づいていた。
体調、心拍、風、天気、全て問題ない。
太ももを軽く一度叩いて、ベンチから立ち上がる。
運営が声を張り上げて、レーンに入るように指示を出している。
鍋島はレーンに入る前に摩那と岳に向かって振り返った。
「完璧な予選の走り方を、見せてあげましょう」
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