理解
からっとして晴れていた空気に、わずかながら湿り気を感じ始める。
山の方に目をやれば、さっきまで見えていた白い雲は厚みを増して下の方が黒くなっている。
風は強く吹いていて、短く肩先で揃えた髪が落ち着きなく舞っている。
こういった夏の日を知っている。
きっと、ひどい夕立が降るのだろう。
大会が終わるまで、もってくれれば嬉しいのだけれど。
「摩那さん? 招集終わったんじゃないんですか?」
「あ、コーチ。招集終わったので、これからスタート地点に向かいます!」
「ええ、四組ですよね。レースまでに少し時間が空くので、体を冷やさないようにしてくださいね」
「分かりました!」
「私も招集があるので、後から合流しますね」
招集場の入り口で天気を眺めていると、アップが終わったであろうコーチとすれ違った。
サブトラックで一緒にアップをして、プログラムの時間的に私の方が早く出発したのだった。
自然体のコーチの後姿を見て、パチンと自分の頬を叩いて気合を入れなおす。
天候なんて気にしている場合ではない。
今から私はレースをするのだ。
考えることはたくさんある。
手に持ったプログラムをパラパラとめくる。
コーチがイメージしやすいようにと各選手のシーズンベストタイムをそれぞれの名前の下に書いてくれたのだ。
私が2分35秒、他の選手は2分18秒~30秒の間くらいだ。
姫井ちゃんのように一桁台で走る選手はいない。
全員が私より格上ではあるが、手が届かないほど距離が離れているというわけではない。
招集場から通じる雨天走路を歩いて、ホームストレートの終わりにある800mのスタート地点に向かう。
(......よし、覚悟完了!)
すぅはぁと大きな深呼吸を繰り返して、もう一度頬を強く叩く。
格上相手だろうと、微塵も負ける姿は思い描かない。
コーチと立てた目標は2分15秒。
これは記録会の時と違い、コーチが一方的に決めたタイムではない。
私とコーチが、二人で設定したタイムだ。
普段の練習から私はこのタイムで走れると思ったし、コーチもそれを否定はしなかった。
毎日毎日この日のために練習をしてきた。
初めてした調整の効果は分からないけれど、体には一切の疲労がなく人生で一番調子が良い。
(できることは、できるだけしてきた)
スタート地点にたどり着くと、ピリっとした緊張感に包まれていた。
入念に柔軟をする選手やドリルでフォームの確認に余念のない選手の顔には、鬼気迫るといった表情が浮かんでいる。
邪魔にならないようにベンチの端っこに座ると、その前にいた茶髪の少女に見覚えがあることに気がついた。
私が記録会の招集のとき、後ろの席で他の選手と楽しそうに談笑していた少女だった。
今日は一人のようで、ウィンドブレーカーを肩に羽織って何かを握って俯いている。
それはスパイクだった。
震える手で、怯えを誤魔化すように強く強く握りしめて何かを呟いている。
「最後の大会......ベスト、ベストだけ出したい......こんなんじゃ、こんなんじゃ終われないよ......」
傍らに置いてあるシューズケースには手作りだろうか、お守りが括りつけられておりベンチからぶら下がって揺れている。
三年生か。
県総体が終わってしまったいま、中距離の大きい大会は新人戦を除けばもう年内にはない。
きっとこの大会が、彼女にとって引退試合になるのだろう。
辺りを見れば、彼女と同じように肩に力が入っている人がいる。
それぞれがこの大会に意味を見出して、それに一生懸命なのだ。
「最終招集を行います! ユニフォームとゼッケン、スパイクを確認するので名前を呼ばれた人は返事をしてください!」
バインダーを持った運営の人が声を張り上げる。
スパイクを抱いていた少女はびくりとして、背筋を曲げたまま名前を呼ばれるそのときを待ち続けている。
招集は淀みなく進み、最終組まで進んだ。
「四組目の招集を行います! 1レーン上條 摩那さん! ゼッケン8332!」
「はい!」
「ゼッケン......腰番......スパイク、裏面よし。はい大丈夫です」
「ありがとうございました!」
私と入れ替わるように座っていた少女が招集を行う。
どうやら同じ組らしい。
その立ち姿に覇気はなく、プレッシャーを相当に感じているようだった。
その少女の招集が終わると同時に、一組目の出走の時間になる。
選手がそれぞれのレーンに向かっていく。
自然体な人も気の毒に思えるほどガチガチに緊張している人も、タータンに立った以上言い訳の効かない世界だ。
これからは、タイムと順位だけが全ての競技の世界だ。
(......そっか。勝つって、誰かを終わらせるってことなんだ)
雷管の音がして、一組が走り始める。
芝生席から、観客席から、世界が揺れたかと錯覚するほどの声が飛び交う。
それを聞き流しながら、私は自分の世界に集中していた。
記録会のときに私は周りの相手に対して特定の感情を抱いてはいなかった。
皆が全力を出して走って、その後に順位が出るという形式だったからだ。
競争ではあったが、それはタイムだけであって順位を蹴落とすようなレースではなかった。
これから行われるレースはそうではない。
決勝という八席しかない僅かな場所を全力で奪い合う戦いだ。
負けた人に慈悲はなく、それまでだ。
だから皆、緊張している、怯えている、不安がっている。
今になってコーチの言葉が身に染みて分かってくる。
これは、傍から見ていても分からなかった感覚だろう。
引退が懸かっている人がいる、決勝を目指して一心不乱に体を動かしている人がいる、落ち着きなく貧乏ゆすりをし続ける人がいる。
ぱん!
唐突な破裂音に多くの人の視線がこちらに向くのを感じた。
私が先ほどまでとは比べ物にならない力で頬を叩いたのだ。
頬がじんじんとした痛みを訴え熱を放っている。
私の目標は変わらない。
この大会で一位を、楽しく勝つとコーチに願ったあの日の気持ちはブレることなく私の胸で燃え続けている。
その願いを叶えるために、誰かの願いを消し去ることになったとしても、それは変わらない。
(私が、楽しく勝つ)
そのために練習をしてきた。
そのために調整をしてきた。
この大会で勝つためだけに、膨大な時間を捧げてきた。
誰かの陸上人生を終わらせるとしても、私が一位を取る。
(ああ、姫井ちゃんが私に怒る理由、なんとなくわかったな)
私にとっての三か月は、姫井ちゃんにとっては陸上に捧げてきた中学高校の時間になるのだ。
それをぽっと出の素人に、勝手にライバル認定されるのは面白くないだろう。
だから私にはつっけんどんな態度を取るのだ。
──今日、全てを変えよう。
二組、三組と滞りなく進むレースを横目に、私は大きく深呼吸する。
今日の結果で、姫井ちゃんに堂々とライバルと言える結果を持って帰る。
タイムを更新するのは楽しい、一位を目指すのは楽しい。
今日は、それだけではない。
胸を張って帰れる結果を持って帰る。
「四組目、レーンに入ってください!」
冷えないように羽織っていた薄手のジャージを脱ぎ捨てて、自分のレーンに向かって歩く。
その足元には、初めてタータンを走った日にもらったコーチのスパイクがあった。
ずっと私を足元から支えてくれたそのスパイクを一度優しく指先で撫でる。
(私のために、そしてコーチのために、勝つ)
今の私の心に不安はない、緊張もない。
ただするべきことだけが頭を埋めていた。
今から走るのは予選だ。
最低条件が二位以上で決勝進出。
大会で一位を取ると公言した以上、ここで躓くわけにはいかない。
一番内側のレーンから、外のレーンに広がっていく八人を見つめる。
この八人を、私の下にする。
シンプルでいい。
口角がにぃと吊り上がったのはレースへの楽しみからか、強がりの笑みか。
唐突に空気が凪いで、辺りから音が消え去った。
僅かな無音の時間に遅れて、スターターの声が聞こえた。
「On Your Marks」
その言葉に条件反射で何回も取った前傾姿勢を取る。
勝つ、勝つ、勝つ、楽しく勝つ。
無音の世界をピストルの音が切り裂いて、私の体がトラックに飛び出していった。
***
「あれ、鍋ちゃんじゃん」
「どうも、岳さん」
「招集? これから摩那が走るのに見てなくていいの?」
「そういうあなたも、妹の晴れ姿を見なくていいんですか?」
「いや、身内が走ってるのって自分が走る以上に緊張してさ。今滅茶苦茶祈ってる」
「そうですか」
招集場で自分の名前が呼ばれるまでベンチに座って時間を潰していたタイミングで、岳が声を掛けてきた。
サブトラックでは見かけなかったから、ウォーミングアップはしない主義なのかな。
そんなことをぼんやりと考えていると、岳は無遠慮に自分の横に腰を掛けた。
「それより、鍋ちゃんは摩那のことコーチとして心配じゃないのか?」
「ああ、摩那さんは大丈夫ですよ。この三ケ月一切の弱音を吐かずに練習についてきましたからね。予選は私が見なくても余裕でしょう」
「そうかな。摩那の運動音痴っぷりだと、何があってもおかしくないと思うけど」
岳が言いたいことは分かる。
鍋島が見ていた摩那の時間は三か月、それ以上一緒にいた家族の方が摩那の運動センスには理解があるだろう。
複数人で走るレースに絶対はない。
転倒するかもしれない、前を塞がれて上手く抜け出せないかもしれない、接触して怪我をするかもしれない。
摩那はレース自体に慣れていないし、不測の事態というものはいくらでも思いつく。
それでも、鍋島は摩那に対して心配はしていない。
「摩那さんは強い選手ですからね。予選は何も言うことなく帰ってきますよ」
「強い? 速いじゃなくてか?」
「強いですよ。自分の中に確固たる目標があって、それがブレる事がない。それに、いつだって笑えるメンタリティの強さがあります。あれは天性のものだ」
ブレないことは強い。
一歩の迷いがタイムに直結するこの世界で、摩那の精神性は得難い強さだった。
記録会は初めてのレースでパニックになってはいたが、経験を得た今回は冷静なレースをできるだろう。
冷静にやるべきことをやれば、今の摩那なら何も問題はない。
「ふーん。摩那は心配ないんだ。じゃあ、鍋ちゃんは俺との勝負に集中できるってわけだ」
ニヤリと挑発的に笑う岳を見て、闘争心が燃え上がる。
その舐めたような笑顔を歪ませてやる。
鍋島の口角も岳と負けじと吊り上がる。
「安心しろ。ずっとお前だけを見据えて練習してきたからよ」
「ひゅー。いいね、インカレより心躍るよ」
岳の瞳を真っすぐに見つめ返す。
もしも視線に熱量が乗るというのなら、間違いなく火花が散って見えていただろう。
ただそれも長くは続かなかった。
招集時間になったからだ。
「男子800mの招集を始めます!」
「おっと、行かなきゃだ。それじゃあ鍋ちゃん、また後で」
「ええ。決勝で勝負としましょうか」
***
乾いた音が響くと同時に、観客席からは割れんばかりの歓声が沸きあがる。
私がスタートダッシュの前傾姿勢から身を起こしたときには、他の選手も同じように加速を終えていた。
走り慣れた1レーンだからだろうか、外側の選手のことが不思議とよく見えた。
初めてのレースでは視野狭窄に陥ってパニックを起こしかけたが、頭は冴えて周りを観察し続ける。
100mを走り、セパレートレーンが終わりオープンレーンになるタイミングで選手が一斉に動きを見せる。
2レーンにいた茶髪の少女がぐんぐんと加速して先頭に立とうとすると、それを見ていた他の選手たちも負けずと先頭を狙って加速する。
私は一番最初の作戦通り、ラスト一周のスパートに備えながらその様子を見る。
茶髪の少女、大柄のお姉さん、ベリーショートの子、バックストレートでは目まぐるしく変わる先頭争いが繰り広げられている。
選手は集団を形成し始め、私はその最後尾に位置付けた。
調整の効果か、体に一切の不調はなく今のところは気分よく走れている。
そう思ったときに、一つの違和感に気がついた。
先頭争いはカーブに差し掛かる直前で落ち着いて、今は茶髪の少女が引っ張っているようだ。
その顔が何度も右側に振られ、切羽詰まった横顔が覗いていた。
(思ったより、遅いペースかも)
先頭争いが苛烈な分速いレース展開になると思ったが、一気に減速して余裕のあるコーナーとなっている。
気分よく走れているのはペースに余裕があるからだ。
茶髪の少女が頻繁に、そしてその背中につけている選手たちもチラリと何回も周りに目を向ける。
コーナーを抜けたホームストレートでもそれは変わらずに続けられて、私の前を走っている選手もこちらを見てきた。
周囲に気を付けるより自分の走りに集中した方がいいのではないかと思った瞬間、答えにたどり着く。
(順位抜けの予選だから、皆牽制しあってるんだ)
二着までならば決勝通過が確定する。
それはつまり、最後のゴールラインに自分が二着以内になっていればいいということだ。
順位が決定するまでのこの過程は、極論を言ってしまえばどうでもいいのだ。
だからタイムが不利になるようなことをしてまでも、誰も彼もが今の順位を気にしている。
先頭は変わらず茶髪の少女だが、二番手は細かく入れ替わっている。
加速するかと思えば減速し、茶髪の少女を存分に風除けとして使いながら走り続けている。
いつでも飛び出せるように、急な展開に対応できるように細かく位置調整をしているのだ。
一歩一歩を踏み出す度に、一秒と時間が経つごとに、それぞれの思惑が絡まり合ってレースを作っていく。
記録会では味わえなかった展開に、私の口角がググっと持ち上がる。
(レース展開ってこうやって作られるんだ! 面白い!)
ホームストレートが終わりに近づくにつれて、集団の大まかな形は決まったようだった。
茶髪の少女はずっと先頭を走り続けているせいか肩が大きく揺れて、その後ろにぴったりと二人の選手がついている。
最初に先頭争いに絡んでいたベリーショートの子と大柄のお姉さんだ。
この二人が実質的にレースの展開を握っているようで、誰かが抜け出そうとするたびに加速してペースを乱している。
先頭がバテるまでか、自分のスパートタイミングまではこの形が続きそうな気配が漂い始める。
最後尾でそれを感じながら、私は意識的に大きく息を吐いて目いっぱい吸い込んだ。
(急に展開をぶち壊したら、もっと面白そう!)
私には展開を作る力は無い。
細かな加速や減速で順位を作る力は無いし、位置取りを調整し続ける力もない。
だから、私は私のやり方で順位を決めよう。
ラスト一周を告げる鐘の音がけたたましく鳴り響くと同時に、足裏にグッと力を込めて地面を掴む。
地面からもらった力をふくらはぎと太ももが上手く受け止めて、筋肉が躍動し始める。
この加速していく感覚は、何度味わっても気分がいい。
私の前を走っていた子は急加速に反応できずに飛び出しを許し、グングンと順位を上げていく。
先頭付近でレースをしていた二人にとって最後尾からこのタイミングで私がスパートをかけてくるのは予想外だったらしく、対応が一瞬遅れた。
その瞬間に二人を追い抜いて、先頭に並び立つ。
「ひっ......!」
最後の一人、これまで先頭を走り続けていた茶髪の少女を抜き去った瞬間、呼吸にも悲鳴にも聞こえる吐息が聞こえた。
顔は見ない。
私には、周りを見ながら走るなんて器用な事はできないから。
力なく揺れている肩だけが視界の片隅に映って消えていった。
コーナーからバックストレートを抜けるまでには全員を追い抜いて、私が先頭に立った。
後ろからは荒い呼吸音が聞こえているが、それも最終コーナーを抜ける頃には段々と離れていった。
聞こえなくなった呼吸音とは真反対に、ホームストレートに入るころには歓声が私の鼓膜を揺らしていた。
歓声の中に私の名前を呼ぶ声はない。
それでも、私の走りに声を上げてくれている人がいるのは伝わってくる。
ゴールラインを踏んだ時、ひと際大きい歓声が聞こえた。
電光掲示板に表示された私のタイマーは、2分22秒22だった。
まだ体に余力は残っているが、それでも自己ベストを相当更新した。
もっと、もっと、もっと!
体の奥底からわき上がる衝動を持て余しながらベンチに戻ると、次の種目である男子800mの選手がチラホラと座っていた。
その中にはコーチもいて、どうやら私のレースの最後の方を見ていたようだ。
腕を組んで渋い顔をしているコーチの顔は記録会のときと全く一緒だった。
初めての予選通過なのだから、もっと喜んで欲しいのだが。
「あのコーチ、私一位つう──」
「反省会、しましょうか」
出てきた言葉も、あの日と全く変わらないものだった。
評価、感想、誤字指摘等していただけると嬉しいです。
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