開幕
県選手権二日目。
会場には色々な感情が渦巻いていた。
受付でプログラムを受け取って、正面玄関を抜けてメイントラックに入る。
初日の結果が悪くへこんでいる者、調子が良いのか笑顔でトラックを駆けている者、芝生の上でマイペースにストレッチをする者。
朝一番の誰にでも解放されたメイントラックには、記録会の時と比べものにはならないほどの人影があった。
「うわぁ、コーチ。陸上をやってる人ってこんなにいるんですね!」
「県内の中学生以上が対象の大会ですからね。小規模の大会では実施されない競歩や3000m障害もやりますし、腕試しで参加する人は多いですよ」
「へぇー、私も慣れてきたら他の種目も出てみようかなぁ」
「…………いいんじゃないですか?」
「今変な間がありましたよね? 何か考えて言うのをやめましたよねコーチ?」
「いや、絶対に最初は失敗するんだろうなぁって」
「ふふん、初めから上手くできるほどの器用さは私にはありませんからね!」
「威張られても反応に困るんですが......まあいいでしょう。今日は800m一本勝負です。朝一に予選をやって、午後の終わりの方に決勝です」
「頑張っていきましょうね!」
摩那はそう言って、鍋島の手を取ってエイエイオーと一人で掛け声を上げている。
雑談のときも強張った様子は見られなかったし、自然体でレース当日を迎えられたようだ。
まだ二回しか競技場に来ていないことや、年上年下が混ざり合ったこの空間に引けを取ることも考えていたが、それは鍋島の杞憂で終わった。
多少のぎこちなさはあるが、段々と慣れていくだろう。
当初の予定通り、ちゃんと緊張して不安になって、それを乗り越えていく。
それができるだけのメンタルの強さが摩那にはある。
鍋島がトラックの縁に立つと、その隣に摩那がピタリと立った。
「「お願いします!」」
自然と揃った挨拶の声が快晴の空に響き渡り、何人かの選手がちらりとこちらに顔を向ける。
摩那の腹の奥から出る大きな声は通りがよく、広い競技場の端まで届くようだった。
「大声出すと気分がスッキリしますね!」
「初めて練習場に行った時も同じことを言ってましたよ」
「そうでしたっけ? 遠い昔のことは覚えていませんよ」
「まだ三か月前なんですが......」
「色々ありましたからね! 私にとっては遠い昔です!」
摩那と出会ってからの三か月を振り返る。
突然の家庭教師から始まって、多くの時間を過ごしてきた。
あまりの運動音痴ぶりに目まいがしたこともあった、突拍子もない発言に振り回されることもあった、胃痛が走るレースを見ることもあった。
(……あんまり良い記憶がないな)
記憶を掘り返してみても、手放しで褒められるようなことがあまりないことに気がつく。
練習は停滞することも怪我することもなく順調に積み重ねてきたというのに、どうしてこうも頭を抱えたくなるような記憶ばかりフラッシュバックするのだろうか。
それが嫌というわけではないが、もっと喜びが湧くようなイベントがあってもいいものだと思う。
その元凶はトラックを見つめてうずうずと走りたそうにしており、鍋島の視線には気がつかないようだった。
「早くアップしませんかコーチ!」
「まだテントすら張ってないじゃないですか。もう少し落ち着いてください」
「気分が高ぶっちゃって!」
「そのテンションだと決勝までもちませんよ。ほら、サブトラックに移動しますよ」
「あれ、前回みたいに芝生席にテント立てないんですか?」
「規模が違いますからね。見てください、どこも空いてませんよ」
前回の記録会は市内からしか参加者がいなかったが、今回は県内から多くの学校や社会人が参加している。
芝生席は通り道用のわずかな隙間を残して、天幕が所狭しと芝生席を埋めている。
県内で陸上競技に力を入れている私立高校はいくつかあり、部員数が50人を越える高校もある。
そういった高校は事前に運営から天幕を設置する場所を指定されており、芝生席が空くことはあまりない。
鍋島たちのような個人は観客席を使うか、サブトラックの空いた部分を拠点にするしかない。
短時間で出場が済む大会なら観客席でもいいのだが、今回は予選と決勝の間がかなり空いており横になれる場所は確保しておきたい。
そう思っていると、こちらに向かって歩いてくる人物がいた。
大会運営を示すオレンジ色の帽子を被った野村だった。
額には汗が浮かんでおり、忙しなく動き回っているようだった。
「やあ二人とも、体調はバッチリかね?」
「バッチリですよ、野村先生!」
「おはようございます野村先生。体調はいつも通りですかね」
「はっはっは! 大舞台でも変わらんなお前たちは。今日は楽しくなりそうだ」
「ここで一位を取って、姫井ちゃんに勝ち誇って見せますからね!」
「それはいい。肇、午後は曇りの予報だが、もし降るようだったらうちの天幕を使ってもいいからな。生徒に話は通してある」
「お気遣い、ありがとうございます」
「それじゃあ、二人が決勝で良い走りを見せてくれることを期待してるぞ」
そう言って野村は慌ただしく去っていった。
大会の準備があるだろうに、わざわざ声を掛けに来てくれたようだ。
一面に広がった青空だったが、遠くの山の方には雲が笠を作っている。
風も少し強く、夕立が降りそうな気配がわずかにあった。
レース前にもし降るようなら、お言葉に甘えさせてもらおう。
芳志高校の天幕の位置だけ確認して、鍋島と摩那はサブトラックに向かった。
鍋島はいつも通りに、摩那はスキップ気味に歩く。
「さて、摩那さん。今日の予定をおさらいしておきましょうか。予選の開始時間は?」
「9時50分です! 招集完了がその30分前なので、さらにその一時間前にウォーミングアップをします!」
「いいですね、後でプログラムで自分の組を把握しておいてください。では、決勝の進出条件は?」
「女子は四組あるので、着順で二位以上が決勝進出です!」
「その通りです。男子と違ってタイムで拾われるということはありません。全力で予選抜けを目指して走ってください」
「男子は違うんですか?」
「男子は五組。今回は組一着と全体のタイム上位三名が決勝進出ですね」
「なんか、そっちの方が厳しい条件に聞こえますね。予選から一位じゃないといけないなんて」
「そうでもありませんよ。摩那さんの方はどんなにタイムが良かろうと三位になった時点で予選落ちが確定しますが、私の場合理論上四位までは抜けがありえますからね。どっちもどっちです」
大会は持ちタイム上位の選手がばらけるように組み分けされるとはいえ、何があるか分からない。
前回までノーマークだった人間が覚醒することも多々あり、順位抜けが極端に難しい組というものが出てくる時がある。
鍋島が経験したことのある最もひどい時は、他の組の一位のタイムが鍋島の組の最下位と同じタイムだったことだ。
タイムでは他の組の一位に勝っているのに、決勝に駒を進めることができない。
陸上の世界ではままあることだった。
順位抜けかタイム抜けか、どっちも一長一短がありそれに応じた予選の走り方が求められる。
「レース展開を作れない摩那さんには関係ありませんが」
「今は作れないだけですから。将来的には私がレースを支配しますよ」
「......ソウデスネ」
「あ、コーチ絶対に信じてませんね!」
摩那の発言を聞き流しながら、サブトラックの芝生にテントを打ち付ける。
用具倉庫の横が空いており、これなら風を避けつつ日除けにもなる。
午後には日光に晒されるかもしれないが、曇る予報なので問題はないだろう。
ペグを地面に打ち込み、ピンとテントを張る。
中にマットを敷けば簡素な休憩所が完成する。
すぐには使わない道具をテントの奥の方に押し込んで、腕時計を見る。
時刻は8時30分になる手前だった。
もうすぐ一番最初の競技である5000m競歩がスタートするところだった。
「さて、最後の確認をしておきましょうか。摩那さん、今回の目標は?」
「もちろん一位ですよ! 目標タイムは2分15秒です!」
「......一緒に考えたとはいえ、馬鹿みたいな目標タイムですね。前回が2分35秒だったのに、それより20秒も速い設定とは」
「姫井ちゃんに追いつくためですからね! それに、コーチが一緒に練習してくれたんです。これくらいは走りますよ!」
「いえ、これは摩那さんの力ですよ。あなたが中学二年からコツコツと積み上げてきたものを、私が整えただけです。よく走り続けましたね」
摩那の足を見る。
スラッとした白い肌の足には一切の無駄がなく、女子にしては筋肉質なふくらはぎが覗いている。
隆起が見て取れるふくらはぎ、肉に埋もれることなくハッキリと見えるアキレス腱、重さなど感じさせない立ち姿勢。
一朝一夕で作れる足ではない。
泥臭くずっと走り続けてきた人間の足だ。
三か月間、きつく面白みのない練習に耐え続けてきた足だ。
よく、耐えたものだ。
鍋島は練習に一切の手心は加えなかった。
怪我や体調不良には気を遣ったが、摩那が受け入れた練習メニューに対しては厳しく指導し続けた。
中途半端な指導はしたくなかったし、何より摩那がそれを望んでいたからだ。
それでも、本人が望んでいたとはいえ遊びたい盛りの女子高校生がよくここまで鍛え上げてきたものだと思う。
しみじみとこれまでの過程を振り返っていると、摩那は呆れた声を出した。
「コーチ......まだ始まってすらいないのに締めの空気を出すのはやめませんか? 多分大会終わった後に出す空気感ですよ」
「おっと、すみません。なにせ初めての教え子なので、感慨にふけっていました。確かに、振り返るには早すぎましたね」
「そうですよ! それに、コーチも走るんですから、コーチの目標を教えてください!」
「もちろん、一位ですよ。摩那さんのお兄さんに勝って、完膚なきまでに勝って一位を取ります」
「いいですね! お互いに優勝の賞状を持って写真を撮りましょうね!」
もちろん、口にするほど簡単なことではないことは分かっている。
摩那は姫井という強力な相手がいないといえ県内の猛者を相手にしなければならない。
鍋島は今年の大学生王者に打ち勝たなければ一位にはなれない。
二人ともこの大会に何かを懸けているわけではない。
負けても失うものなどないし、勝って得られるものもない。
だから、何だというのだろう。
「それじゃあいつも通りに行きましょうか」
「レース、思う存分楽しみましょうね!」
本気で走る。
それだけでいい。
結果は後からついてくるだろう。
メイントラックの方から、パンと何か乾いた音が風に乗って聞こえてきた。
一日の始まりを告げる雷管の音だった。
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