一週間前
「......習慣って怖いなぁ」
目をこすりながら布団から抜け出す。
目覚まし時計を見れば、針は朝の六時を指している。
遅れて鳴りだしたスマートフォンのアラームを止めて、おぼつかない足取りで階段を降りる。
この時間帯はお母さんもまだ寝ていて、家には静寂が満ちている。
コップ一杯に水を汲んで、それを一息で飲み干した。
喉が潤って眠っていた内臓が動き出す感覚で、段々と目が冴えてくる。
いつもならこれで日課となっているランニングに行くところだが、今日からはそういうわけにはいかない。
『大会まで残すところ一週間となりました。明日から調整期間としましょう』
『具体的に何をすればいいですか?』
『自主練の禁止です。私がいないところで走らないでください』
『......ちょっとでも走ったらダメですか?』
『ダメです。調整外の運動は学校の体育以外認めません』
昨日のやり取りを思い出す。
気がつけばもう県選手権は目前へと迫っており、それに向けた調整をしなければいけない。
毎朝の自主練は禁止、メディシンボールを使った筋トレは論外。
かろうじて三十分以内のストレッチだけが私に許された運動だった。
(ずっと走ってきたからなぁ......違和感すごいなぁ)
コーチとの練習がない日でも簡単なランニングはずっと続けてきた。
体調が悪い日でもウォーキングだけはしていたのだが、それもしてはいけないとなると時間を持て余してしまう。
行き場のない体をソファに預けて、時計が刻む秒針の音を聞いていた。
視線だけ窓に目をやれば、まだ早朝だというのに太陽は真っ白に輝いて暑い一日になりそうだった。
「あら、摩那がこの時間にリビングにいるのは珍しいわね」
「おはよう。お母さん」
「おはよう、摩那」
眩しい太陽を見ていたからか、視界は少しチカチカと点滅を繰り返している。
寝起きのお母さんは眠たそうにあくびをしながら、冷蔵庫から牛乳を取り出している。
ガラスのコップの縁いっぱいにまで注ぎ込み、それをちびちびとゆっくり飲むのがお母さんの日課だった。
なんでも一気に飲むとお腹を壊してしまうらしい。
私も太一も、お兄ちゃんもそういったお腹の弱さとは縁遠い人間だからきっとお父さん譲りなのだろう。
そう考えて、ふと私の運動音痴はどちらの血筋なのだろうかと疑問に思った。
「お母さんって、運動できるの?」
「急に変な質問ね。そうねぇ、得意ではないわよ」
「そうなんだ」
「でも、お父さんよりマシよ。あの人は本当にどんくさいから、きっと摩那はお父さん似ね」
「うーん、お父さんのどんくさい姿あんまり想像できないや」
「そりゃ子どもの前では必死に取り繕っていたもの。岳が野球をやりたいなんて言った日にはすぐ本を買って勉強したりしたものよ」
お母さんの目が細くなって、私ではないどこかを見つめている。
在りし日を思い出しているのか、私の知らないお父さんの姿を楽しそうに語ってくれた。
買ってきたものは結局野球のルールブックだったらしく、何の参考にもならず本棚でほこりを被っているらしい。
抜けているなぁと笑って聞いていたが、その血が私にも流れていると複雑な気分になった。
風邪を引いたことがなく体の元気さが取り柄だったお父さんの血は、どうやら私に色濃く出てしまったようだ。
話しているうちに目が覚めてきたのか、お母さんはまだ半分ほど残っているコップを持ってキッチンに向かった。
私が走りにいかない理由を思い出したのか、電気コンロを点けながら話しかけてくる。
「摩那の朝ごはんってどうすればいいの? 大会が近いんでしょ?」
「三日前まではいつも通りでいいって。木曜日からは、ちょっとご飯多めにしてくれると嬉しいな」
「それだけでいいんだ。もっと凝ったことするかと思ったわ」
「昔の方法はもっと凝っていたらしいよ。体の糖質を一度使い切ってからまた溜めなおすんだって。そうすると全体量が増えるんだって」
「よく分からないけど人体って不思議ね。それを見つける人もすごいけど」
「ね」
料理中はあまり喋らないお母さんが今日はずっと喋り続ける。
私に付き合ってくれているのだと思うと少し恥ずかしい気持ちが湧いてくるが、持て余した時間の使い方を探していたから丁度よかった。
「大会、太一も連れて応援に行くわ」
「本当? カッコいいところ見せるね!」
「岳も出るし、鍋島君にも挨拶しないといけないしね」
焼き上がるベーコンの匂いが漂ってきて、水しか口にしてなかったお腹の虫が鳴き始める。
朝の運動がない分、いつも通りにご飯を食べてしまうと体重が気になる。
(......コーチがいつも通りでいいって言ってたし、大丈夫だよね!)
体重のことは一旦思考の片隅に追いやる。
ソファから立ち上がって、お母さんの手伝いを始める。
「料理、手伝うよ」
「あらそう。じゃあサラダ適当に作っといてちょうだい」
「はーい」
朝からお母さんとキッチンで料理をするのはいつぶりだろう。
ふとお母さんの方に視線を向けると、私の方が身長を追い越していることに気がついた。
毎日顔を合わせていたが、こうやって並び立つことはあまりなかった。
走り始めた中学生の時は私の方が小さかったから、この数年間の間に追い越してしまったらしい。
私の視線に気がついたのか、お母さんはふっと笑って私の頭を撫でてくれた。
「初めての大会、緊張してる? 怖い?」
お母さんの言葉で、自分の肩に力が入っていることに気がついた。
慣れない生活のリズムは、知らず知らずのうちに緊張として出ていたようだ。
緊張しているのか。
その問いに、私は考え込む。
憧れた舞台が、もう一週間と目前まで迫っていた。
初めてのちゃんとした大会、不慣れな生活リズム、未だに実感していない調整。
分からないことはたくさんあって、練習した成果を出せずに終わるときのことを考えると身がすくむ。
予選で無様な走りをしてしまうかもしれない。
コーチの期待には応えられないかもしれない。
それでも私は、気がつけば笑ってお母さんに返事をしていた。
「......緊張してるし、怖いよ。 でも、それよりも楽しみだよ!」
「そ。それならいいわ。週末が楽しみね」
「うん!」
一人で黙々と走り続けた日々が、コーチの走りにあこがれ続けた毎日が、今ようやく叶おうとしている。
走ることは楽しい。
それはきっと、どんなときでも変わらない私の考え方なのだろう。
一位になれたら飛び跳ねるように喜ぶのだろう。
負けてしまったのなら涙を流して悔しがるのだろう。
それでも、それでも最後には笑って楽しかったと言える、そんな気がしていた。
「大会、楽しみだなぁ」
持て余した時間を暇だとはもう思わなくなった。
スタートラインで号砲が鳴り響くのを今か今かと待ちわびる、そんな感覚だった。
***
朝焼けが好きだ。
肺に流れ込む空気は日中より澄んでいるような気がして、呼吸を繰り返す度に自身の体に酸素が流れていくのを強く感じる。
赤く空を焼いていた日差しが段々と強くなり、薄紫色の空に変わっていく様子を見るのは飽きがこない。
それを見るのが好きだと、最近までそう思っていた。
本当は、もっとシンプルな理由だったのに。
タンタンタンタンとタータンの上で小気味いいリズムを刻みながら体が跳ねていく。
視界一杯に広がった景色がぐんぐんと後ろに流れていき、耳に入るのは自分のスパイクが地面を捉える音と荒々しい呼吸音だけだった。
他の人間も人工物がまき散らす騒音も、この時間は何もない。
世界に自分しかいないという錯覚が脳を満たしていく。
一人しかいない世界では、順位もタイムも何もない。
自分が気持ちよく走れているか、ただそれだけだった。
いつからこの感覚を忘れていたのか思い出せはしない。
ただ今は、初めて走ったあの日のように充足感がある。
ポタリポタリと汗がタータンにシミを作り、すぐに蒸発して消えていった。
かいた汗が、乱れている呼吸が、引きつる筋肉が、世界を構築する全てだった。
鍋島は自分の世界に浸りながら、膝に手をついて呼吸を整えていた。
そんなとき、鍋島の世界を引き裂くように背後から声が聞こえてきた。
「ようー、こんな朝っぱらから追い込むとは真面目だねぇ」
「......なんで立花さんがこんなところにいるんですか?」
「アタシだって元陸上部だぜ? いたって問題ないだろう?」
「私服サンダル手ぶらで練習場に来る奴がいてたまるか」
「ひひ、そりゃそうだ。ここの近くに雀荘あんだよ。徹夜で打ってきた」
「どうりで、タバコとか汗とか入り混じった変な臭いがするわけだ」
「おぉ?乙女の体臭に言及するとかデリカシーがないなハジメちゃんはよぉ」
「乙女は雀荘に入り浸らないのでは?」
「時代錯誤の偏見もいいところだぜ」
やれやれと首を振る立花は本当に徹夜で麻雀を打っていたのだろう。
服には店の臭いがしみついていてとてもではないが良い匂いではなかったし、目にはクマが色濃く出ていて眠そうに何回も瞬きをしている。
たまたま帰り道に鍋島を見つけて、声を掛けにきたのだろう。
「そんなことよりさぁ、ハジメは何でこんな朝っぱらから練習してんだよ」
「いつも通りのことですが?」
「大会一週間前だろ? 昔はアタシが走ろうとしても無理矢理止めて来たくせに、調整の仕方忘れたんか?」
「忘れたわけじゃありませんよ。今回は三日前までは追い込む方法で調整するだけです」
「ほーん。ふぁぁ、眠いわ」
「自分で聞いた癖に興味無くすのやめてください」
現役時代と違い、今回は調整に重きを置いていない。
理由は二つ。
一つ目は、疲労が抜けないほどあまり蓄積していないこと。
鍋島は摩那のように数年間休まずに走っていたわけではない。
大学受験の時は息抜きをするときにしか走っていなかったし、日課の早朝ランニングも疲れを感じるほど追い込む日はあまりなかったからだ。
摩那と出会ってからの三か月間はきつく追い込む日が増えてきたが、それでも体に溜まった疲労は根深いものではない。
競技のブランクは体が鈍る原因でもあったが、同時にリフレッシュする期間にもなっていた。
そして二つ目が、大会の特徴である。
県選手権は土・日曜日を通して行われる大会であるが、鍋島と摩那が出場する800mは日曜日だけで完結する。
午前に予選を走り、午後に決勝となる。
一日で終わるのならば、そこまでの疲労抜きはなくても鍋島には問題がない。
これが総体やインターハイになると準決勝が挟まる都合上、出場レースが日をまたぐことになり体力を必要となるのだが、今回はその心配がない。
県選手権のタイムスケジュールは出ており、予選四組出走の上位二位までが決勝進出となる。
そして鍋島は予選を本気で走るつもりはない。
記録会と違い大会は実力者が分散するように予選の組み分けを行う。
県内のレベルであれば自分に匹敵するほどの相手は多くない。
岳のように県外に出ていた選手が戻ってきて出る可能性もあるが、把握している選手で岳以上に警戒すべき相手は現状いない。
つまり、鍋島にとって全力で走るレースは決勝一本である。
それだけなら調整に時間をかけるよりも、ギリギリまで走り込み実戦の勘を取り戻す方が重要だった。
(八割ぐらいの完成度だな)
鍋島は現状の自分の体に点数を付ける。
体の鈍りは限界まで追い込んだ日々のおかげでほとんどないと言っていい。
伸びたストライドの違和感も野村と矯正することができた。
問題は、レース感覚だけだろう。
誰にも負けないスピードがあろうとも、異次元のスタミナを誇っていようとも、体調がかつてないほど好調であろうとも、レースに絶対はない。
他の選手と接触して怪我をすることもあるし、前を塞がれて思うように走れないこともある。
これだけは場数を踏んで慣れていくしかないのだが、鍋島にはそれがなかった。
大学で多くのレースを経験してきた岳との差は歴然だろう。
(ま、ないものねだりをしても意味はない。なるようになるだろう)
楽観的にそう結論を出し、スパイクを脱いで帰り支度を始めた。
立花が立ったまま寝かけており、少しでも待たすと負ぶって帰る羽目になりそうだった。
「帰りますよ、立花さん。ほら起きて」
「......んあ、半分寝てた」
「半分どころか完全に寝てましたよ。歩いて歩いて」
もたれかかってくる立花に肩を貸しながら、鍋島はアパートに向かって歩き出した。
ずっしりとした重みを感じながら、これなら背負った方が速いなんてぼんやりと思う。
久しぶりの大会に向けての始まりだが、なんともまあ締まらないことだと苦笑する。
段々と強くなる日差しに目を細めながら、明けていく空を見上げる。
澄み渡った青空を、今なら素直に綺麗だと思うことができる。
「当日は、どういう気分で見上げることになるのやら」
一位か、それ以外か。
その基準は鍋島にとって変わらないものであり続けるだろう。
価値観は変わらない、基準は変わらない、結果はなにも覆らない。
それならば、今の自分は何が変わったのだろうか?
受け入れられると思った自分は、何が変わったのだろうか?
大会で走れば、それが見つかるような予感がした。
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