予感
朝はけたたましく鳥が鳴き、昼はわずかな生を訴えかける蝉が鳴き、夜はカエルの大合唱が鳴り響く。
夏とはこうも騒がしいものだっただろうか。
太陽が熱気を増すごとに生き物や草木は盛んに自己を主張し始めており、まだ夏真っ盛りというわけでもないのに猛暑日を記録する地域も出てきた。
外に出てみればハンディファンやうちわ片手に歩く人が多く、男性女性問わず日傘をさすのがトレンドになっているらしい。
今までは練習以外の時はぼんやりと生きていたからか、鍋島はそういう季節の移り変わりの雰囲気というものに疎かった。
暑くなってきたから脱水に気を付けなければならない、寒くなってきたから汗冷えには対策しなければならない、それぐらいの感覚でしかなかった。
自分の体調や練習メニューばかりに目を向けていて、周りをあまり気にすることはなかった。
だから、目の前の人物がどうして不機嫌なのかあまり理解できなかった。
「むぅぅ......」
「......すみません、唸られても何も分かりません。何か不満でもあるんですか?」
「コーチは鈍感ですよね! 本当に分からないんですか!?」
「ええ。練習はすこぶる順調で、時々部活動に混ぜてもらえるようになったじゃないですか。難はあれど問題は起こさない程度には動きも改善されてきましたし、今なら入部も拒否されないでしょう。出会った頃と比べれば、問題は少ないですよ」
六月の中旬から後半にかけては雨が降らない日も多く、外で走れない日はあまりなかった。
順調に練習を積み重ねることができたし、野村の厚意によって芳志高校のグラウンドを使用させてもらえる日もあった。
摩那は姫井の練習相手としていい刺激を受けただろうし、野村からも走りのアドバイスを貰っている。
即座に走りに反映させるだけの器用さは摩那にはないが、間違いなく四月の頃と比べれば成長している状況だ。
大会に向けての調整さえ失敗しなければ、優勝も夢ではないところまで見えているのだ。
何をそんなに不満に思っているのか分からず首を傾げていると、摩那は机に手を置いてソファから勢いよく立ち上がった。
「それですよそれ! 何で勝手に入部の話を進めてるんですか! 私の意思も聞いてくださいよ! あと姫井ちゃんに練習でも負けるのは悔しいです!」
「入部の話は前にしたじゃないですか。野村先生の方が適任だと」
「その後一回もその話を私としてないじゃないですか! それなのに野村先生とコーチの二人で決めちゃって、汚い大人ですよ!」
白い肌を赤く染めて摩那が叫んだ。
最近はあまり練習以外でコミュニケーションを取っていなかったからか、鬱憤が相当に溜まっているようだった。
高校二年生という多感な時期に、自分のことを外部で勝手に決められるのはあまり納得がいかないのかもしれない。
どう説明したものか。
首に手を当てながら鍋島は考え込んだ。
まず、入部に関しては摩那の意見を全く聞いてはいない。
摩那の現在の動きを見て、仮入部のときのような事件は起きないだろうと野村が判断したからだ。
運動音痴はこの短期間では改善することはできなかったが、時間をかければ簡単な動きなら習得できることを摩那は実証した。
スキップやシザース、もも上げのようなドリルさえできていれば走ることに問題はない。
ハードルやラダーを使った複雑なドリルは教えてはいないが、最悪その時間は走り込みに変えればいいと野村と結論付けた。
摩那がハードルを蹴って壊した様子を見て怯えていた部員も、何回か摩那と直接話すことで心変わりしたらしい。
入部を反対しているのは姫井ぐらいで、その姫井も本気で反対しているわけではないと野村は言っていた。
出会った頃とは状況が変わり、摩那の入部を妨げるものは何もない。
「入部したくないんですか? 秋には新人戦もあります。部活に所属しているといないとでは出場できる大会に大きな差があることは以前に説明したと思いますが」
「……コーチは、それでいいんですか?」
「......良いも悪いもないでしょう。あるべきところに納まる、それだけですよ」
摩那から視線を逸らす。
真っすぐな琥珀色の瞳を見つめ返せる自信がなかったから。
正直に言ってしまえば、まだ摩那に陸上を教えていたい。
身体能力だけで走る摩那が、技術を学びようやく陸上選手としての一歩を踏み出したのだ。
その歩みがどこまで届くのか、摩那のいう楽しいという感情がどこまでやれるのか。
今まで指導してきた鍋島にとってそれは見届けたいものだった。
(これを執着だとか独占欲とか言うんだろうなぁ......)
県選手権が近づくにつれ、鍋島は心の中にそういった欲が大きくなるのを感じていた。
夏だけと言わず、来年も自分が教えたい。
ただそれは、摩那が陸上部に所属することにとって妨げにしかならないというのも理解していた。
部活に入りたいが、練習は部ではなく個人で済ますなど部員から反感を買う行為だ。
同じ時間を過ごし、同じ苦しみを味わうから部としてまとまりが出るのだ。
大会に出るためだけに入部するという行為が歓迎されるはずもない。
かといって鍋島が毎回芳志高校に顔を出すのも現実的ではない。
どこまでいっても鍋島は芳志高校にとっては部外者に過ぎないのだから。
「摩那さんは、陸上部が嫌いですか?」
「……皆良くしてくれるので、好きですよ。姫井ちゃんは意地悪を言うけど、心から言ってるわけじゃないと思いますし……」
「それじゃあ、何も問題はないですよね。お金もかからない、部での居心地も悪くない、ライバルもいる。言うことなしの環境です」
そうだ。
摩那にとって理想の環境が目の前にあるのだ。
かつて入部拒否されたと恥ずかしそうに言っていた少女が、今度は正しく受け入れられようとしている。
それは手放しで喜ぶべきことで、自分が一時の感情で無駄にしてはいけないもののはずだ。
だから、話を勝手に進めた。
摩那との話し合いになれば、決意が揺らぐと分かっていたから。
自分の膝下に落としていた視線を上げる。
摩那はまだ鍋島を見つめており、瞳は潤んで輪郭が滲んでいた。
少し前なら、この瞳を見ても心から湧き上がる感情なんて押し殺せただろう。
今は、無理だ。
摩那との出会いを経て、鍋島は柔らかくなった。
それを成長と捉えるべきか、弱くなったと捉えるべきか、今この場では断言できないことだった。
「……はぁ。私だって嫌ですよ。これからが面白くなる所なのに、自分が指導者じゃなくなるのは。美味しいところだけ野村先生に取られる気分だ」
「じゃあ──」
「だからといって、間違った選択は選べないでしょう? 最善は入部することに違わないんですから」
柔らかくなったとはいえ、芯が変わるわけではない。
鍋島にとって見えている最善を追いかけないことは怠慢であり、それを摩那に示さないことは職務放棄に感じられるのだ。
鍋島も苦渋の選択をしたことが分かったのか、摩那の剣幕は多少和らいだ。
納得はしてないという顔であったが、理解はしてくれたようだ。
ソファに腰をかけた彼女は元気がないからか、いつもより萎んでいるように見えた。
絞り出すような声が、摩那からこぼれる。
「私、まだコーチと走りたいです。でも、部活に入れて貰えることも嬉しいです。見てもらえなかった自分の頑張りが評価されるのは、本当に嬉しいんです」
「……」
「中学の時に陸上の世界を知って、それからずっと頑張ってきました。自分がトラックを走る姿を寝る前に何回も思い描いていました。一年生の時には叶わなかったその願いを、コーチは叶えてくれました」
「記録会に勝手にエントリーしただけです。摩那さんがずっと練習してきたおかげですよ」
「だとしても、コーチがいなければ私はきっとスパイクの感覚を知らないままでいたと思います。だから、だからっ......」
摩那の声はか細く震え、感情を抑えることができずに言葉は誰にも届かずに消えていく。
かける言葉が見つからず、鍋島はきつく唇を嚙みしめた。
まだ県選手権が残っている、別れはすぐではない。
口を開ければ、そんな無粋な言葉だけが飛び出していきそうだった。
摩那が鼻をすする音だけがリビングに響く。
会話がない空間とはこうも重苦しいものなのか。
何も答えてはくれない自分の膝を見つめながら、そんなことをぼんやりと考えた。
口が上手ければ、空気なんて読めない能天気さがあれば、慰めの言葉もかけられただろうに。
いくらかの時間が経って、沈黙を破ったのは摩那の方からだった。
「コーチ、私の目標、覚えていますか?」
「楽しく走ることじゃないんですか? 毎回言っていることを忘れるわけないじゃないですか」
「違いますよ。初めてコーチに伝えた目標は、楽しく走ることじゃありません」
思わぬ否定に、鍋島は口に手を当てて黙り込む。
初めて伝えられた、目標。
思い返すのは摩那と初めて、ここで会った日のこと。
陸上部から入部拒否をされたこと、家庭教師として陸上を教えることになったあの日、何を言われただろうか。
たった三か月前だというのに、それを思い出せないほどに摩那との日々は忙しかった。
答えを探し続ける鍋島に、摩那は目元を拭って優しく微笑んだ。
「鍋島さんみたいに、綺麗に走れるようになりたいんです。そうコーチに言いました」
「......難しいですよ。何せ、十年ものだ」
「ふふん、私は中二からずっと毎日走ってきたんですよ! それにこの三か月、誰に教えてもらっていたと思ってるんですか! 見せてあげますよ、私の集大成を!」
「それはそれは、期待しておきましょうか」
「後悔させてあげますよ。私を強引にでも抱え込まなかったことを」
「……ははっ、そんな日が来るといいですね」
「あ、笑いましたね! 人の決意表明を!」
いつものような明るいやり取りに、鍋島は思わず笑ってしまう。
濡れた瞳も、赤く染まった頬も見ないフリをした。
それを慰めるようなことはきっと摩那も望んではいない。
だから、万感の思いを込めてたった一言呟いた。
「楽しみですね」
「ええ! 楽しんでいきますよ!」
快活な摩那の宣言が空を裂いたかのように、雲が割れて日が差した。
リビングを照らした日の光を浴びて立った摩那が、鍋島の視界を埋める。
(ああ、やっぱり摩那さんは、笑っている方が似合う)
七月、大会が目前へと迫っていた。
いい結果だろうと望まない結果だろうと、今なら全てを受け入れて笑えそうな気がしていた。
鍋島の胸に巣食っていたじゅぐりとした痛みは、もう感じられなかった。
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