原点
自分という人間を説明するならば、つまらないと言うほかない。
人を笑わせるような面白いことが言えるわけでもなく、誰にでも話せるような鉄板のエピソードもあるわけではない。
子どもが見せるような特定の何かに対する執着もなく、赤子のときには両親があまりの落ち着きように不安がって医者に相談するほどだったという。
思い返してみれば、感情の表現が下手だったのだろう。
感情が全くないわけではない。
空が真っ赤に焼けていくような夕日が好きだった。
物語を読み聞かせてくれる先生の低いしわがれた声が好きだった。
冬の澄んだ空気に吐いた息が白く消えていくのが好きだった。
それを、言葉や態度に出すのが不器用な人間だったから、周りからは大人しくて周囲に興味関心のない子だと思われていた。
そうやって扱われることを悲しいと思ったことはない。
自分の態度がよくないのだと、幼心にぼんやりとは理解していたから。
きっとこのままつまらない人生を送るのだと、あの時まではそう思っていた。
「なぁ、お前いつも教室の端っこで何してんの」
「......読書」
「ふーん、面白いか? それ」
「読んでみればいいんじゃないか。面白いかなんて、個人の感想だろ」
「その感想を聞きたかったんだけどなぁ。なんでそんなケンカ腰なんだ?」
「......読書中にいきなり本を取り上げられたら、誰だって腹が立つだろ」
「ひひ、まぁそれはそうだ。アタシが悪いなこれは」
教室の片隅でいつものように図書館で借りた小説を読んでいると、いきなり本が手元から飛んでいった。
視線を上げると、いたずらっ子のような笑みを浮かべた短髪の少女が立っていた。
日焼けした肌、動きやすさを重視した服装は可愛らしさの欠片もなく、むき出しの手足には擦り傷や生傷があちらこちらについている。
「保育園のときからそうだよな。ずっと一人でいて、つまんなくねーか?」
「逆に、人とずっと一緒にいて疲れないのか?」
「全然? 色んな奴と遊んだ方が楽しいだろ」
「じゃあ遊んできなよ。俺は君とは違う考えだから」
立花 立夏。
家が隣同士で親の仲が良く、保育園から顔を合わせることが多かった。
行動的でジッとしているのが苦手で人を巻き込んでは楽しそうに笑っている彼女と、その真反対の性格である自分は幼馴染ではあるもののあまり行動を共にすることはなかった。
学校で顔を合わせれば挨拶はするし、親が忙しいときにはどちらかの家で面倒を見てもらうことがあったが特別に仲が良いというわけではない。
そんな彼女が、急に教室で話しかけてくるのは珍しかった。
一つ学年が上の彼女が、わざわざ鍋島の教室までくることはあまりなかったからだ。
それに、今は放課後だ。
何もない予定のないクラスメイトはすぐに帰るか、校庭でサッカーを楽しんでいる。
立花もいつもなら上級生下級生問わず、校庭で何かしらの遊びに精を出しているはずだった。
だというのに、どうして立花は残っているのだろう。
そう不思議に思っていると、本を取り上げた手とは別の手に持っていた紙を鍋島の目の前に突き出した。
「朝の会で先生から聞いたか? 今度短距離の大会があるってさ」
「言ってたね。それが?」
「出ようぜ。一人だとつまんなそうだからさ、一緒に」
「は? 嫌だよ」
「いいじゃんいいじゃん。うちの母ちゃんに車出してもらうからさ、それならいいだろ?」
立花家と違い、うちの両親は共働きだった。
仕事について詳しく聞いたことはないが、家族三人が揃って家にいるということはあまり多くなかった。
だから、主に面倒を見てもらっていたのは自分の方だった。
立花はそういった事情を知っているから、送迎の負担はこっちで取り持つと言っているのだろう。
余計な心配だ。
鍋島は立花から本を乱暴に取り返して、プリントを押し返した。
「出ない。そもそも、走りたいと思わない」
「なんだよー。折角誘ってやってるのによー」
「出たきゃ一人で出ろよ。走ることの何が面白いんだよ」
「え? 面白いだろ。体一つで、身長も年齢も関係ない勝負ができるんだぜ? ハジメみたいなやつにはピッタリだろ」
「......どういう意味だよ」
「体育とかさー、ずっと周りに合わせて動いてるよなお前。ボールが来てもすぐにパスするし、自分が目立ちたいって動きしないじゃん。運動神経悪くないにさぁ」
立花の言葉に鍋島は驚いた。
彼女が学年の違う鍋島の体育の様子まで知っているとは思っていなかったからだ。
うちのクラスメイトの誰かしらから聞いたのだろうか。
鍋島は運動は嫌いだが、苦手なわけではない。
むしろ得意といってもいいだろう。
サッカーでも野球でもドッジボールでも、体格がものを言う小学生にしては技術だけで戦える人間であった。
それは運動神経がいいというわけではない。
動きが良い人間をしっかりと見て、その真似をする。
それが非常に上手かった。
要するに、目が良かったのだ。
ただ、それでも体育の授業は目立たないようにしていたし、あまり学校の休み時間も外で遊ぶようなことはしなかった。
「なんでシュートとか打たないんだ?」
「……外したら、怒られるだろ」
「なんだ、ビビりか」
「違う! めんどくさいんだよ。チーム競技なのに、失敗を一回しただけなのに責められるの。文句を言うぐらいなら自分が活躍すればいいのに、終わった後にぐちぐちと言う奴がいるから運動は嫌いなんだ」
「あー、いるいるそういうやつ」
鍋島は派手な言動もしない大人しい性格であったし、言い返すような気性の荒さを持ってはいなかった。
だから、そういった場面で矢面に上げられることが多くあった。
お前がもっと活躍していれば、もっと上手ければ、もっと頑張っていたならば。
そういう声に嫌気がさして、団体競技ではなるべく陰になるように気配を殺していた。
立花にはバレていたようだが、クラスメイトは鍋島のことを運動もできないボッチだと思っているはずだ。
「なおさらいいじゃん。出ようぜ陸上」
「はぁ? 運動は嫌いだって言ってるだろ?」
「陸上なら合わせなくていいじゃん。一人で走るだけだ。文句言う奴もいないし、思いっきり体動かせるぜ」
「いや、別に体を動かしたいわけじゃないんだが」
「そういう割には、たまに一人で走ってるじゃん」
「......なんで知ってんだよ」
「家隣なんだから、見かけるにきまってるだろ。近くの公園でグルグル走ってるよな」
「なんで場所まで知ってるんだよ」
「ひひ、なんでだろうなぁ」
痛いところを突かれて、語気が弱くなる。
運動は嫌いだ。
疲れるし汗をかくし体が痛くなる。
それでも、たまにはそれが良いと思うときがあるのだ。
どうしようもない気持ちのとき、やり場のない感情を消化するのには、一人で黙々と走るのは性に合っていた。
小学生らしくはないが、普段から仕事で忙しそうにしている両親にワガママを言えるだけの愛嬌が鍋島にはなかった。
「まぁいいよ。ハジメの意思を聞きに来たわけじゃないかな」
「どういうことだよ」
「先生からプリント貰うときにさぁ、『大会出るのか?』って聞かれたから、アタシとハジメは出るって言っちゃった」
「......はぁ!? 勝手に決めるなよ!」
「いいだろ、どうせ暇だろ?」
「そういう問題じゃない。リッカはいつもいつも!」
「ひひ、いつもいつも付き合ってくれてありがとうなぁ」
立花は無理矢理鍋島のカバンにプリントを詰め込んで、それから教室の外へと駆け出して行った。
「ほら、今日から練習しようや」
「待て! 俺は出ないからな!」
「家に帰るまでにアタシに追い付けたら、出なくてもいいよ。スタート!」
自分も慌ててカバンを背負い、駆けていった立花の後を追う。
学校内を走ってはいけないと思っている鍋島と、そういったルールを無視できる立花では差が縮まることもなく、昇降口を出た時には立花の赤い鞄は遠くに見えていた。
グラウンドでサッカーを楽しむ甲高い声を背に、鍋島は必死に走り出した。
***
「......ん」
こくりと船を漕いだ拍子に目が覚める。
沈み込むような柔らかいソファの感覚に、自分が今どこにいるのかを思い出した。
予定時間よりも早く上條邸に着いて和恵の案内でリビングに上がらせてもらったのだ。
太一も摩那も帰って来ておらず、和恵は買い物に出かけてしまい他人の家だというのに一人ですることもなくソファに座っていたのだった。
(小学生の頃の夢か)
瞳を閉じながら、ソファに深くもたれかかった。
年相応の子どもっぽい喋り方をする自分と、今と大差ない立花のワンシーンを思い出す。
結局あの後、立花に追いつくことはできずに言うことを聞くことになった。
当時の自分はまだ体ができていなかったし、普段から体を動かしてばかりの立花に足の速さで勝つことはできなかったのだ。
あれから十年以上が経ち、自分はまだ陸上競技に携わっている。
誘ってきた当の本人は高校を卒業したらさっぱりと満足して辞めてしまったが、鍋島は未だに満足することはない。
(リッカはなぁ、天才だったからなぁ……)
初めて出た小学生の大会から、高校卒業まで彼女は自分の種目で一回も負けることもなく引退した。
オリンピックや国体のような誰かの期待を背負うような大会はガラに合わないと出場しなかったが、それでも偉業ではあった。
自分も立花のような結果を残していたのなら、心置きなく引退できていたのだろうか。
そんなことを考えて目を開くと、視界一杯に見慣れた顔が飛び込んできた。
照明と顔の位置が被り、垂れた髪がさらに陰を濃くして表情は見えなかった。
「ばぁ」
「うわぁ!」
「あだぁ!」
鍋島がもたれかかっていたソファの後ろで、摩那が顔を覗き込むように立っていた。
突然の声掛けに、誰もいないと思っていた鍋島の体が反射的に飛び上がる。
その結果、覗き込んでいた摩那の額に鍋島の額がぶつかって、脳内に鈍い音を立てた。
ズキズキと額が痛む。
家には誰もいないと思い込んでいたため、油断していた。
額をさすっていると、対面のソファに何事もなかったかのように摩那が腰をかけた。
「ビックリしましたよコーチ! ぶつかったのが太一やお母さんじゃなくて、私で良かったですね!」
「......痛くないんですか?」
「ふふん。私、頑丈なので!」
「そういう問題ではないような......まぁ、怪我をしてないなら良かったです。いきなり立ち上がって、すみませんでした」
「あ、謝らないでくださいよ! 私が驚かせようとしたのがいけないんですし」
「いえ、仮にも乙女に対して頭突きをしてしまったのは事実なので」
「仮にもって言葉、いらなくないですか?」
「おっとつい口が滑りました」
「それは普段から乙女だと思ってないってことですよね!?」
制服姿の摩那が頬を膨らませながら抗議の声を上げる。
先ほど帰ってきたばかりなのだろうか、練習に行く格好には着替えていないようだった。
鍋島の視線に気がついたのか、摩那は申し訳なさそうな顔をして話し始めた。
「すみません。花壇に水をやってたら帰るの遅れちゃって」
「それについては連絡をもらっていたので怒ってはいませんよ。今日は軽い練習の日ですし、そこまで問題はありません」
「あと、寝てるコーチが珍しかったから写真も撮っちゃいました」
「それは今すぐに消してください。盗撮ですよ」
「ちゃんと宣言したから盗撮ではないんじゃないんですか?」
「......いや、撮る前に言わないとダメなのでは?」
「うーん、確かに。でもなぁ、寝てるコーチ、コロコロ表情が変わって面白かったですよ」
「そもそも、起こしてくれれば良かったじゃないですか」
「居眠りするほど疲れてるのに、起こすのはちょっと忍びなかったんですよ」
「その割には、ビックリさせようとノリノリで隠れてましたよね」
「それはそれ、これはこれですよ!」
何がどれなのかは全く分からなかったが、摩那は全く悪びれる様子もなく胸を張っている。
写真を消してくれる気配はない。
……まぁ、いいか。
自分の写真など見せびらかす相手などいないだろうし、いずれ飽きて消すだろう。
額をさすりながらそう切り替えて、これからのことを考える。
昨日がハードトレーニングだったため、今日は強度の低いランニングとドリルしか予定をしていない。
その後に大会での立ち回りでも軽く座学すればいいか。
そう思っていると、摩那はまだ目の前に座ったままであった。
いつもならすぐに走りにいけるよう準備をするのだが、今日は違うらしい。
お喋りの気分のようだ。
「何の夢を見てたんですか?」
「別に、話して聞かせるほど大した夢じゃないですよ」
「その割には苦い顔をしてましたよ。最後の方は安らかな顔でしたけど。リッカって人がこの前言っていた幼馴染ですか?」
「......私、寝言してました?」
「バッチリ聞こえるぐらいには」
「うわぁ、最悪だ」
初めて知る自分の癖に、鍋島は思い切り悶えた。
人前で寝る機会などそう多くはないが、鍋島が寝てる間に勝手に部屋に入ってくる人間が一人いる。
その相手に今まで自分の寝言を聞かれていたと思うと、途端に恥ずかしい気持ちが湧いてきた。
「結局、どんな夢を見ていたんですか?」
瞳がらんらんと輝いた摩那の顔を見るに、この質問に答えないと今日は終わりそうにない。
恥ずかしい気持ちを紛らわしたい気分でもあったので、仕方なくゆっくりと鍋島は喋り始めた。
「......小学生の頃の夢ですよ。三年生のときかな、教室の片隅で本を読んでたら、邪魔をしてくる人がいたんです。持っていた本を取り上げて、陸上の大会に出ろって急に意味の分からないことを言ってきたんです。」
「へぇ、それがリッカさんなんですねぇ。それからコーチの陸上人生が始まったんですか?」
「まぁ、そうなりますね。大会に出ないって言っても無視するし、中学に上がっても勝手に入部届は書くし、散々でしたよ」
「散々って言うのに、今まで陸上は続けたんですね。もしかして、初めて出た大会の結果が良かったとかですか?」
「びりっけつでしたよ。今思い返しても苦い記憶ですね。摩那さんとは真反対のデビューだ」
「えー、意外ですね。コーチはずっと上位にいるもんだと思ってましたよ」
「そんな人間は稀ですよ。私は普通の人間でしたからね。負けて負けて負けてたまに勝って、楽しいなんて思えるレースはなかったですよ」
立花に引っ張られて出た大会は、市内の小学生を集めただけの小さな大会だった。
学校の備品のボロボロのスパイクを借りて、100mを技術もなしに全力で駆け抜けるだけのレース。
自分より体格がいい小学生しかおらず、みるみると離されたのを覚えている。
摩那が感じるように楽しいとは思わなかった。
姫井が感じるように悔しいとすら思えなかった。
ただただ、摩耗したスパイクのピンがタータンのゴムを捉える感覚だけを感じていた。
今のように深く考えることもなく、体をがむしゃらに動かして汚いフォームでホームストレートをもがいていた。
「いい天気だったなぁ......」
今なら鮮明に思い出せる。
ホームストレートを走っただけでへばって、ゴールしてすぐに寝転がって見たあの日の空を。
競争相手も順位もタイムも舞台も何も関係なく、どこまでも続くかのような澄み渡る青い色を。
楽しくはなかった、負けたのだから。
悔しくはなかった、その域にまで達していなかったから。
それでも、走り切ったという充足感だけが心を満たしていた。
……今にして思えば、それが鍋島の原点だったのだろう。
「高校のときは、その青さが憎かったのにな......」
「ん、何の話ですか?」
「自戒ですよ。初心忘るべからず。さて、面白くもない昔話はこの辺にして、練習にしましょうか」
「えぇー、もっとコーチの子どもの頃の話聞きたいですよ」
「今度の大会の結果が良ければ考えますよ。外で待っているので、準備ができたら出てきてくださいね」
未だに渋る摩那を振り切って、玄関から外に出る。
照り付ける日差しの強さは夕方になっても弱くはならず、夏の訪れを感じさせる。
その空は、立花を追いかけて走り出した時の空を思い出させるような赤さであった。
あの日の自分から、ずいぶんと捻くれた価値観を持つようになってしまった。
「......はは、それだけ真剣になったってことだな。無理やり始めさせられたのに」
順位にこだわるようになったのは、勝ちたいと心から思い始めたからだ。
タイムを意識するようになったのは、標準記録という存在を知ってからだった。
陸上にのめり込めばのめり込むほど、勝ちへの執着は強くなっていった。
勝てなければ満足できないと思い込んで、ずっと勝手に乾いた心を抱え続けていた。
一位でなければ意味がない、タイムで勝てなければ価値がない。
本当は、それだけが全てではないと知っていたはずなのに。
自分がとてつもない視野狭窄に陥っていたことに、思わず苦笑が漏れる。
それから間もなく、音を立てながら摩那が勢いよく玄関から飛び出してきた。
「お待たせしました! 準備オッケーですよコーチ!」
「じゃあ、ロードワーク行きましょうか」
「はい!」
二人でゆっくりと走り始める。
靴裏がアスファルトを叩く音、規則的な呼吸、ジャージが擦れる音。
聞き慣れた音が耳に届く。
ずいぶんと、自分にしては続いたものだ。
「県選手権、今なら楽しめる気がしますよ」
「......やっぱり、コーチって陸上好きですよね?」
「さぁ? 好き嫌いで走ったことはないので分かりませんね」
「はぁー、素直じゃないですねぇ。認めたら楽になりますよ」
「認めるも何も、本心ですから」
思わずこぼれた言葉に、摩那は呆れた反応を返す。
好きか嫌いか。
それはもう鍋島にとって悩むほどのことではなかった。
走りたいから、走るのだ。
きっかけも過程も、もう気にしない。
この足で行けるところまで行きたいと、今はそう思えた。
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