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ぶちかませ800   作者: アストロコーラ
陸上を始めよう

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お試し契約

 摩那を指導する。

 そう決心してしまえばやることは明快だった。

 先ほどから隠れてこちらの様子を伺っていた和恵を呼ぶ。

 娘を心配しているのかと思ったが、顔にはニヤニヤとした笑顔が浮かんでいるからきっと野次馬していたのだろう。

 和恵に塾長からもらった契約書を渡す。

 指導料は鍋島が決めていいと言われたので、事前に決めていた金額を説明する。


「指導は基本的に週四日。時間制ではなく月額制でこの程度いただこうと考えています」

「あれ、摩那が相場の二倍って言ったのに、これだと相場より安くない?」

「素人の指導ですからね。相場の二倍はもらえません。それに、私の初めての生徒ということで一か月目はオマケで安くしてます。お試し期間だと思ってもらえれば」

「ふ~ん。お試し期間過ぎたら、どうなるの?」

「摩那さん次第ですが、契約を延長していただけるなら相場に近い値段にしようかと。一応、商売ですので」


 金額の良さに釣られて返事をしたわけだが、冷静に考えていきなり相場の二倍も貰うのは鍋島の良心が痛んだ。

 目先の金に釣られる愚か者ではあるが、金のために心を殺せるほど亡者ではない。

 ただ、これは個人での活動ではなく、会社名を使うのだ。

 貰うところはしっかりと貰わねば、いらぬ風評を招き他の人に迷惑をかける可能性がある。

 契約は月毎に更新し、一か月目は安い金額にするが二か月目からは相場と同じだけもらう。

 よくあるサブスクリプションと同じシステムだ。

 サービスが気に入ったら延長してね、ということだ。

 全文に目を通してから、和恵はサインと印鑑を捺してくれた。

 金額や契約内容に不満はないようだ。


「まっ、親としては問題ないわ。あとは摩那に任せるね」

「いいの、お母さん?」

「ダメって言ったら辞めるの?」

「……ううん、やりたい」

「ならいいわよ。滅多に言わないワガママですもの。気にせずやんなさい」

「ありがとう!」


 摩那とのやりとりを終えた和恵はひらひらと手を振って、リビングの奥にある部屋へと消えていった。

 摩那はワガママが通って嬉しいのか、契約書を両手で握って明かりに透かしたりして色んな角度から見ている。

 薄っぺらい紙切れが、とてつない宝物に見えているに違いない。

 その表情は高校生にしては幼く、まん丸の瞳が輝いている。

 しばらくはその気分に浸らせてあげたいが、鍋島としてはそうはいかない。

 良い気分に水を差すのは心苦しいが、まだ契約が決まっただけなのだ。

 これからのことを考えなければならない。

 決めることは、たくさんある。


「えー、ひとまず方向性は楽しく勝つということで、いいですね?」

「はい、鍋島コーチ! あ、もっと砕けてくださいね!」


 紙から目を離した摩那が、輝いた瞳でこちらを見る。

 摩那からの要望は無視し、白紙のルーズリーフとペンをカバンから取り出す。

 最上段に、『楽しく勝つ』と大きく書く。

 大雑把に、摩那の求める陸上競技生活を把握するためのメモだ。


「それで、種目は何がやりたいんですか?」

「もちろん、コーチと同じ800mですよ!」

「......800mは、おすすめできませんね......」

「え!? コーチがやっていた種目なのに!?」

「経験者だからと言うか何というか......短距離にしません? 楽しいですよ、多分」

「えー、800mがいいですよ! かっこいいじゃないですか!?」

「100mの方がかっこいいと思うんですけどね......」


 陸上競技は大きく分けて二種類に分類される。

 タイムを競い合う競走がメインのトラック種目、高さや長さを競い合う投擲や跳躍がメインのフィールド種目。

 基本的に陸上競技の大会と言えばこのトラック&フィールドのことが大半で、マラソンや競歩のようなロードレースは別の大会になりがちだ。

 摩那が志望するのはトラック種目のようだ。

 フィールド種目は軒並み専門性が高く、鍋島には教えられないのでそこは一安心であった。

 100mから400mまでの短距離路線、800mと1500mの中距離路線、5000mの長距離路線。

 運動音痴と言っているから、ハードル走は考えなくていいだろう。

 鍋島の考えではあまり中距離、特に800mは運動初心者におすすめできるものではなかった。


「800mの別名って知ってますか?」

「『陸上の格闘技』ですよね!」

「よく知ってますね。ポジション争いが苛烈で、転倒や接触が激しい様子からつけられた別名です。この事故は経験者でも避けられないものです」


 800mはスタートの仕方が変則的だ。

 割り振られたレーンからスタートし、バックストレートに入ってからレーンの移動ができるようになる。

 アウトレーンにいる人間は内側を目指すし、インレーンにいる人間は外側から寄せてくる人間を避ける必要がある。

 無酸素運動に近い速度で走る人間が、左右に大きく動くのだ。

 その移動の際に、頻繁に事故が起きるのだ。

 走っている人間が下手だとか荒っぽいから起きるわけではない。

 世界大会でも当たり前のように接触が起きるほど、ポジション争いが重要なのだ。

 もちろん、鍋島も何度も経験したことがある。

 スパイクで踏まれて流血したことだってある。

 そんな種目を、陸上競技どころかスポーツ自体初心者の摩那には勧めることはできない。


「まずは、400mで様子を見ませんか?」

「いえ、800m一本で行きたいです! これは譲れません! 憧れなので!」


 ただ、摩那の意思は固いようだ。

 握りしめた拳が言葉に合わせて上下に何回も振られる。

 その様子を見た鍋島は、諦めてメモに種目800mと書き足した。


(憧れか、厄介だな)


 それは、いくら正論を説いたところで崩れることのない感情だからだ。

 鍋島の中で摩那の性格像を修正していく。

 面白い、憧れ、楽しみ、プラスの感情で突き進むタイプのようだ。

 通常ならばその性格は美点であって、欠点ではないだろう。

 ただ、800mには向いていない性格だと鍋島は考える。

 中距離の練習は、地味で苦しいものばかりである。

 人によっては、800mを陸上競技で一番辛い種目と呼ぶ。

 それを楽しめるのは、特殊な人間だけだ。

 才能がある人間か、苦痛を喜べる人間か。

 摩那は、どちらの人間だろうか。


「......摩那さんの意向には従いますけど、種目は気楽に変更していいですからね」

「はい! 変更するつもりはないですけど!」

「それで、大会はいつ出たいとか希望はありますか?」

「練習の前に、もう大会の話になるんですか?」

「目標があった方が練習のモチベーションになるでしょう。そうですね、希望がなければ八月の大会にエントリーしましょうか 」


 スマートフォンを取り出して県の陸上競技連盟のサイトを開く。

 鍋島が高校生だった時から変わっていなければ、八月には二日間にかけて行われる大きい大会がある。

 中学生から社会人まで幅広い年齢層が参加できる大会だ。

 参加制限は特になく、県内から多くの人数が集まる。

 人数が多ければ、実力が近い人間は多くなる。

 今が四月の終わりぐらいだから、三か月丸々練習する期間があるということになる。

 黙々と練習することは大事だが、それを披露する場所も必要だ。

 摩那の練習の成果を確認するには、丁度いい大会になるだろう。

 そう考えながら大会の参加要項を眺めていると、視界の端で摩那が手を上げるのが見えた。


「今更なんですけど、部活に参加しなくても大会って出られるんですか? 私、大会の仕組みを理解してなくて」

「個人でもエントリー可能ですよ。枠組みは一般になりますけど」

「一般って、なにが一般なんですか? 特殊って枠組みがあるんですか?」

「詳しいことを説明すると長くなるので端折りますけど、摩那さんは高校生の大会には出られないと言うことです。ですので高校生ではなく一般ということですね」

「え!? 私、現役の女子高校生なのに!?」

「地区大会やインターハイなどの大会への参加資格がありませんからね。諦めるかおとなしく部活に入ってください」

「それができるならコーチに頼んでないですよぉ!」

「まぁ、そうでしょうね。でもそんなに気にしなくていいですよ。大会に大人が混ざるだけで、別に何の問題もないですから」

「うぅ、そう簡単に割り切れない......スポーツの年齢差ってすごい問題あるように感じます......」


 インターハイなどの高校生の大会の運営をする団体を高体連という。 

 高体連は学校単位での登録が基本になるから、摩那個人として高体連に選手登録をすることはできない。

 つまり、高体連が主催となる大会への参加資格がないということになる。

 学生向けの大会に出られない以上、参加できる大会は少ない。

 部活に所属しないデメリットをもろに受ける形になるが、これに関しては諦めてもらうしかない。

 それに、そんなことを気にするレベルではないだろう。

 三か月である程度の形にするつもりだが、形になるということは別に勝てるという意味ではない。

 運動音痴、そして部活の経験がないことを加味すれば、中学二年生より少し遅いタイムぐらいで走れれば御の字だろう。

 雑談を挟みながら方針を定めていく。

 ひとまずは夏の大会で800mで出場することを目標とし、それ以降の契約は未定ということになった。

 摩那は夏以降も走る意欲を見せているが、そこに鍋島が必要かどうかは分からないからだ。

 この三か月で運動音痴が多少でも改善すれば、部活動に所属できる可能性だって芽生えてくる。

 とりあえずは、摩那の頑張り次第といったところか。

 頭の中で今後の練習メニューとスケジュールを組み立てながら、すっかり冷たくなったお茶をすする。

 だいぶ、長居してしまったようだ。

 窓の外に目を向けると、雲は真っ赤に染まり夜のとばりがもうすぐ降りようとしていた。

 話し込むつもりはなかったが、時間はあっという間に過ぎていく。

 今日はこれぐらいで、帰った方がいいだろう。


「今日はこれで帰ります。そうですね、次の摩那さんの都合のいい日に、普段の様子でも見させてもらいましょうか」

「あ、もうこんな時間ですね。私は基本的に放課後なら時間があるので、後でコーチの予定とすり合わせしましょうね!」

「分かりました。あと、スマホの方に簡単な質問を送っておくので、時間に余裕がある時に答えておいてください。それでは、また後日」

「はい! よろしくお願いしますね、鍋島コーチ!」


 コーチと呼ばれることに若干のこそばゆさを感じながらも、鍋島は摩那に向かって頷く。

 指導者としての責任を肩に感じつつ、上條宅を後にする。


(指導者、か。もう、競技者じゃないんだよなぁ) 


 鍋島は現在大学二年生、本来なら一人の競技者としては油が乗っている時期だ。

 それだというのに、走る側ではなく教える側に立っている。

 玄関を開けると沈みかけた夕日が目に入り、思わず目を細める。

 競技に、未練はない。

 自分は負けて、それで終わりだと思ったから。

 一位になれない自分に、意味は無いと思ったから。

 ……そんな人間が、教える側に立っていいのだろうか。

 そこまで考えて、弱気な考えを捨てるように首を振る。

 教えてほしいと頼まれて、それを了承した。

 その事実以外必要ないだろう。

 自分のセンチメンタルな感情は、摩那を指導するのには邪魔でしかない。

 鍋島の頭上を、カラスが低い声で鳴きながら飛んでいった。

 もう、帰ろう。

 摩那用のメニューを作ったり、塾の準備もしたり、やることはたくさんある。

 忙しくなれば、このじゅぐりと痛む胸の傷も忘れられるはずだ。

 夕焼けの中、鍋島の足取りはひどく重たいものだった。


 ***


「あー、どうしようかなぁ」


 鍋島は一人、アパートの自室で天井を見ながら呟く。

 部屋は殺風景で、服を入れるタンスと布団を外したこたつ程度しか物がない。

 他に目を引くものといえば、たまたまくじ引きで当たった携帯ゲーム機ぐらいだ。

 押し入れに細々とした物はあるが、物欲の薄い鍋島の部屋には家具は少なく、テレビすらない。

 八畳もないような狭い部屋ですら、持て余している有様だった。

 ベッド代わりの寝袋に転がりながら、これからのことを考える。

 時刻は日付を跨いだようで、外からは虫の楽しそうな鳴き声が聞こえている。

 大雑把に情報を書き連ねた紙を寝ころびながら眺め、もう一度うめき声を上げる。

 鍋島が頭を抱えている理由はもちろん、摩那についてのことだった。

 摩那に尋ねた、普段の食事量や運動習慣をまとめたメモをもう一度見る。

 それらを呟きながら、情報を整理していく。


「一日三食しっかり食べる、大豆やキャベツなど野菜類中心の食生活……たんぱく質がちょっと足りないぐらいか? 背丈がある分、練習量が増えるならもっと食べてもらった方がいいか...... 中学二年の冬から5kmのランニング、寝る前の自重トレーニングと柔軟体操はほぼ毎日継続……情報だけ見ると十分アスリートだ」


 摩那から貰った情報をそのまま信じるのならば、やる気のない部活よりよほど運動している。

 栄養バランスも悪くないし、毎日の運動習慣はしっかりとしている。

 自重トレーニングも体幹を中心に組まれたもので、胸周りのトレーニングに少し偏っているのが気になるぐらいで問題はない。

 成長期に適切な負荷の運動をしたからか、身長は170cmある鍋島より少し低い程度で女子にしては背丈もある。

 悪くはない。

 全国大会に出場経験がある鍋島の目から見て、摩那への現状の評価は決して低くはない。


「でも、部活に入れてもらえないレベルの運動音痴なんだよなぁ」


 与えられた情報と、事実のギャップに苦々しい声が鍋島の喉から漏れる。

 文字だけを見るならば、摩那は陸上競技に耐えうるだけの十分な肉体が出来上がっていると言ってもいい。

 初心者の段階をある程度飛ばして、強度の高い練習メニューを組んでもいいぐらいだ。

 三か月の間みっちりと専門的な練習ができるのならば、夏の大会はもしかしたら予選突破ぐらいは狙えるかもしれない。

 運動音痴が、よほど重症であるという事実を見なければの話になるが。


「どういうタイプの運動音痴なんだ? そもそも、学校の部活で入部拒否ってなにしたんだ?」


 運動ができない人間というのは、当然だが世界にはたくさんいる。

 根本的に体が弱く、スポーツに向いていない体質の人もいるだろう。

 不器用で上手く体が動かせないタイプの人もいるだろう。

 頭で思った動きを再現することは、高度な技術が求められる。

 人は、理想の動きというものをある程度は理解できるし、知っている。

 テレビの中で一握りの天才たちが動くシーンをお手軽に見ることができるし、そうでなくとも体育の授業で軽やかに動く同級生を見たことはあるからだ。

 人体の限られた可動域を、どう動かすかのお手本は至る所で見ることができる。

 それなのに自分の体が不格好にしか動かないのは、肉体が理想の動きに耐えられる強度をしていないか、上手く再現するだけのセンスがないからだ。

 摩那は多分、体を動かすセンスがないのだろう。


「センスはなくても、体が出来てるならなんとかなるか……」


 悩んだ末、そう楽観的な結論を出してメモをこたつの上に置いて部屋の明かりを消す。

 センスはなくとも、それを補うために練習があるのだ。

 競技とは物まね選手権ではない。

 理想の動きなんてできなくても、勝てればなんだっていい。

 それに、運動音痴が摩那の誇張表現の可能性だってある。

 本当は違う問題を抱えていて、それを誤魔化すために可愛らしい嘘をついているのかもしれない。

 走っている姿をこの目で見たわけではないのだ。

 今度の土曜日に初めての練習の約束をしたから、その日に確認すればいい。

 それまでは、鍋島にできることはあまりない。

 目を閉じて横になる。

 真っ暗になった視界に、飽きもせず歌い続ける虫の声だけが響いていた。

 うるさいとも心地いいとも思えない、一定のリズムを耳が捉え続ける。

 しばらくしてまどろみ始めた意識に、一つの疑問が浮かんだ。


(楽しくって、なんだ?)


 脳裏に浮かんだのは、胸を張って堂々と宣言した摩那の姿だった。

 楽しいとは、なんだろうか。

 レースに出ることか?

 結果が出なければレースなんて楽しくはない。

 自分より上がいると知ることは、悔しいだけだ。

 敗北を実感するあの瞬間の、息もできないくらい煮え滾る嫉妬や絶望はとても醜いものだ。

 楽しさとはかけ離れた、負の感情だ。

 それならば、練習のことだろうか?

 鍋島にとって練習とは、勝つために必要な努力のことであった。

 呼吸もままならないほどに肺を絞り込み、筋肉が千切れたと錯覚するまで走りこむことであった。

 腹の中が空っぽになるまで吐いたこともあった。

 せり上がる胃液に焼けるような喉の痛みを感じながら、それでも走り続けた。

 それが勝つために必要なことであったと思っていたし、事実ある程度の結果は残してくれた。

 ただ、それが楽しい行為だったとは鍋島には思えない。


(摩那さんは、なにが楽しいのかなぁ)


 その答えを、鍋島は持ち合わせていなかった。


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