足踏み
「すみませんコーチ、今週はちょっと激しい練習は厳しいかもしれません......」
「分かりました。怪我とかは特にしてないですよね」
「そういうのは無いですよ。ただちょっと、その、体調が......」
「大丈夫ですよ。最近は少し追い込みすぎたので、一息入れるタイミングとしては丁度いいでしょう」
今日も今日とて練習のために摩那を上條宅まで迎えに来たのだが、そこで見た彼女は暗い顔で俯いていた。
体調不良、つまり女性特有の問題らしい
摩那の歯切れの悪い言葉を遮って、今日は休みにすることを告げる。
あまり理解しているわけではないが、立花という存在が常に身近にいたからその大変さは少しは分かる。
いつもは傍若無人の権化のような立花がその時期だけはシンと静かになるので、よほど大変なんだろうなと思う程度だ。
女性アスリートには避けて通ることのできない問題なのだから引け目に感じることはないのだが、摩那はいつもの明るさがない。
むしろ今までそういった時期がなかったことの方がおかしいのだ。
鍋島はそれを責めるつもりはさらさらないが、摩那は暗い表情のままだった。
「気負い過ぎですよ」
「だって、練習できる時間はそんなにないじゃないですか」
「別に夏の大会で結果がでなければ死ぬわけではないんですから。ここで無理して一生に響くような怪我をする方が問題ですよ」
「それは分かってますけど、だからといって次の大会に後悔が残るようなことはしたくないんですよ......」
落ち着かせるための言葉は頭では理解できるのだろう。
ただ、それで心が納得するかと言えば別の話になる。
次の大会がダメなら、その次に向けて頑張ればいい。
そんな精神で大会に臨むようならば、いい結果など出るわけがない。
一回一回が数少ない機会であり、次はないと思えるかどうかは大事な選手の資質だ。
年に複数回ある記録会なら練習程度の感覚でも問題ないが、県選手権は年に一回しかないのだ。
その限りある勝負の場に、悔いなく全力を出したいと摩那は思っているのだろう。
それなのに体調不良で足踏みすることに歯がゆいのだ。
鍋島も摩那の立場になって考えてみれば、怪我ではない要因で走れないのはストレスが溜まる。
さて、どうしたものか。
「ちなみに、今の気分はどうですか? 死にそうですか?」
「そこまでは重くないですよ。軽い運動なら、なんとかなると思いますよ。ただ、いつものようにトラックでの練習は無理だと思います」
「ふむ。座学も新しく教えることはもうそんなにないですし、どうしましょうね」
腕を組み、二の腕を指先で意味もなく叩きながら練習について考える。
完全休養にしてもいいのだが、それだと摩那の気が収まらないだろう。
夏まではある程度メニューについての共有はすませてあるし、急いで教えなければいけない知識もない。
負荷の軽い練習ならば水泳があるが、今の摩那の状態でプールのような公共施設を使うわけにもいかない。
体育館を借りようとも考えたが、低強度の運動ならわざわざ体育館を借りずともこの家の庭でもできるだろう。
今まで鍋島がしてきた練習をざっと振り返ってみたが、今の摩那に役立ちそうなメニューはあまり思いつかない。
量を増やしつつ吐くまできつい練習で追い込む鍋島のスタイルでは、体に負荷のかからないメニューは身に付いていなかった。
(ロードワークでもするか? いや、少なくとも今日明日はランニングは止めといた方がいいだろうな)
鍋島の中での低強度の練習はスローペースのジョギングと柔軟ぐらいしかない。
そのどちらも、今の状況には不適切だろう。
体調の面でジョギングはさせたくないし、柔軟は鍋島が指導するほどのことでもない。
I字バランスを難なくこなせる摩那に、今更柔軟をとやかく言う意味はない。
頭を悩ませる鍋島と、それを申し訳なさそうに見つめる摩那。
リビングには重苦しい雰囲気が立ち込め始めたとき、鍋島は今日太一を見かけてないことに気がついた。
「そういえば、太一は?」
「今日から遠足で登山に行ってるんですよ。キャンプファイヤーとかして一泊してから帰ってくるので、今はいないですよ」
「あー、ありましたねそんな行事」
鍋島の学校では林間合宿といってキャンプファイヤーのような派手なイベントはなかったが、確かにこの時期に一度山に登った記憶がある。
標高の高いところではなかったが、リュックを背負って坂道を歩くのはそこそこ苦行であった。
なにより、やたらと顔に向かって飛び出してくる虫が嫌だった。
そんなことを思い出しながら、ふと頭に名案が浮かんだ。
「じゃあ、私たちも山登りでもしますか」
***
「あのコーチ、これって練習になるんですか?」
「トレイルランやクロスカントリーといった山を走る種目もあるんですよ。練習にならないわけないでしょう」
「この山っておじいさんおばあさんでも歩けるようなスポットですよ? 登山って言うのもおこがましいレベルなんですけど」
「まぁ、正直ただ歩くだけなら気分転換ぐらいにしかならないですよね」
「えぇ......」
鍋島が摩那を連れてきたのは、山と呼ぶにはいささか標高が足りない場所であった。
山の入口にある温泉の脇にある、ハイキングコースだった。
坂にしては傾斜は緩やかで、登山道というには整備され過ぎている。
ゆっくりと案内板に沿って歩き、脇道に生えている花や季節の木を見るためのハイキングコースだ。
前に立花に無理やり温泉に連れていかれた時に見つけたのだ。
温泉に入る前に数十分歩く湯治客が多く、クマのような野生動物もあまり寄り付かないような場所であり、たまに地方番組で紹介されているのを見かける。
レジャーが嫌いな鍋島でも抵抗なく歩けるほどに整備されていて、体調が万全でもない摩那でも問題なく巡れるほどの緩さ。
軽い練習としては、うってつけの場所だろう。
「それならいつもの農道を歩けばよくないですか? わざわざこんな場所に来てまでする必要はないですよね?」
「あんまりハイキングには乗り気じゃないみたいですね」
「うーん。嬉しいですけど、ちょっと練習の気分だったので......いや、私の体調のせいで走れないのは分かっているんですけど」
「私の言うことをしっかり聞いてなかったようですね。ただ歩く、それだけなら練習にならないと言ったんです。ちゃんと意味があってここに連れてきていますよ」
陸上競技における高強度の練習として、レペティションやインターバルのようなトレーニングを思い浮かべる人間は多い。
それはどの場所でも取り入れやすく、分かりやすいトレーニングだからだ。
タータンのトラックがなくてもある程度の距離があるグラウンドさえあればよく、最悪信号がない直線の道さえあれば誰でもできる練習方法だ。
インターバルなんかはよく、ランニング中に電柱から電柱の間を全力で走るなんて取り入れ方をされるほど馴染み深い。
ただ、その二つ以外にもきつい練習がある。
坂道トレーニングだ。
傾斜のついた坂をただひたすらにダッシュする。
登りでダッシュすればパワーが身に付き、降りでダッシュすれば全力以上の速度を体感できる。
近くに安全に走れる坂道があるという条件がないと取り入れられないためあまりメジャーではないが、プロも採用するほどのしっかりとしたメニューである。
今回は、それを歩きでやってもらうのだ。
「傾斜のある場所を歩くということは、当たり前のことですがいつもと勝手が違う歩き方になります。歩幅が小さくなり、太ももをしっかりと持ち上げるという動作が必要になります。引きずるような歩き方では登れませんからね」
「それはそうですね」
「それに、重心を足に乗せる感覚を掴むのに坂というのは結構利用されたりするんです。しっかりと首から骨盤にかけた体幹の重心を把握できていないと、パワーが地面に伝えきれずに推進力のない走りになります。前に出した足に、しっかりと骨盤ごと体重を乗せられるか、そういった意識を持って歩きましょうか」
「なんか、そう言われるとすごい難しい練習な気がしてきましたね」
「摩那さんが苦手な感覚を身に付ける練習ですからね。平坦の道とは違う足の出し方が求められますが、感覚が一度でも分かると普段のランニングフォームも良くなりますよ」
そう断言して、摩那の前をお手本のように歩く。
足を前に出す。
地面を捉える足裏にしっかりと体重を乗せ、胸・ヘソ・骨盤が曲がらないように重心を前に前にともっていく。
ぐっと力がこもった足は鍋島の体を軽々と持ち上げる。
そのタイミングで後ろの足が流れないように無駄なく前に出す。
やっていることは普段のランニングと何も変わらない。
ただ、傾斜があるだけでタイミングが少しズレるだけだ。
その些細な感覚の違いが分かるようになると、重心操作は今までと一段上のレベルになるはずだ。
足への負担が大きすぎるため坂道ダッシュは取り入れてこなかったが、オフシーズンには本格的に採用してもいいかもしれない。
今日は、その一歩目ということにしよう。
後ろを振り返ると摩那はさっきまでの態度とは一変して、真剣な顔つきになっていた。
動きはひどく奇怪な見た目で、歩き方を忘れた人間のように不気味だったが。
「えぇーと、重心が今腰あたりだから、こうやって足を出して、重心を乗せる? なんかあんまり前に進んでいく感覚はないなぁ。胴体は変わらないんだから、意識するのは骨盤から下でいいのか......」
「......まぁ、いいか」
本人はいたって真面目な表情をしているものだから、鍋島は下手に口出しをせずにその様子を見守ることにする。
頭を悩ませ、ぶつぶつと考えながら歩く練習は走るだけの練習よりは得るものがあるだろう。
摩那は感覚を得るために、色々な足の出し方を試してはそのたびに首をかしげている。
重心周りの細かい感覚は、自分で見出して修正していく必要がある。
今は、その感覚を見つける作業だ。
ゆっくりと進むその作業は、体調が万全でない摩那には丁度いい練習になるだろう。
それに、さっきまでの沈んだ表情はもう面影もない。
一つのことにすぐ没頭できるのは、摩那のいいところだ。
摩那から離れすぎないように、鍋島もゆったりと歩きながら周りを見渡した。
ハイキングコースには季節の花が植えられており、空のように明るい青い花が目に映った。
あまりこういった風物詩には興味がない鍋島にも、それは季節の移り変わりを意識させるほど色鮮やかであった。
「あぁ、もう紫陽花が咲く時期か」
「コーチ、観光より私の方を見てもらってもいいですか?」
「おっと、すみません。あまりにも見るに堪えない歩き方だったものなので」
「いつもと違う歩き方をしろって言ったのはコーチじゃないですか?」
「重心移動を意識しろとはいいましたが、そんな化け物みたいな歩き方をしろとは言ってませんよ。骨盤を上手く動かすだけでいいんですよ」
「普通の人は骨盤を動かす歩き方なんて分からないんですよ!」
「そのための練習ですよ。ほら、頑張って。頂上には藤が植えてあるらしいですよ。楽しみですね」
「うぅ、コーチはもう完全に観光気分になってる......」
「そんなことありませんよ」
春の花は散り始め、夏の花が咲き始める。
六月、正念場の一か月がもうすぐそこまできていた。
「ふぐぅぅ......重心をどうしたら上手く移動させられるのかが分からない……」
「......不安だなぁ」
「コツとかないんですかコーチ!?」
「コツを身に付けるための坂なんですけどね......傾斜にちゃんと体重を乗せる意識をしてください」
「そんな言葉だけでできるなら私は陸上部から追い出されてませんよ! もっと分かりやすく、私でもできるレベルのアドバイスをお願いします!」
「逆切れやめてくださいよ。はぁ、姫井さんと同じレベルになるのはいつになるのやら」
「あ、姫井ちゃんの名前出した! また浮気しようとしてる!」
「またって何ですか言いがかりもやめてください。ほら、しっかり歩くことに意識を割いて。分からないならお手本を見せますから、しっかり足を動かしてください」
緩やかな山道をゆっくりゆっくりと二人で登っていった。
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