ライバル?
「ふんふ~ん」
朝のシャワーを浴びて上機嫌に私はノートに文字を書き連ねる。
朝と夜、練習後に書く練習日誌だ。
どれだけの時間走っただとか、どれくらいの筋トレをしただとか、内容を書いてコーチに送るのだ。
その時の体の感覚はどうだったか、何を意識して走っていたのか、いつもと比べて疲労はどうか。
そういったものを言語化することによって、ただの走りがちゃんとした意味を持つのだとコーチは言った。
勉強と同じだ。
何のためにペンを走らせるのか、学習目的を意識していないと内容の理解や定着は非効率になってしまう。
私はイメージは苦手だけれど、こういった実用的なことを考えたり文字にすることは得意だ。
学年首席の学力は伊達ではないのだ。
「太一! 早く起きないと遅刻するわよー!」
お母さんの声が一階から響く。
太一は朝に弱く、いつも時間ギリギリになるまで寝ている。
しびれを切らしたお母さんが部屋に起こしに行くまでが、上條家の日常の風景だ。
パタンと日誌を閉じて、私も学校の準備をする。
今日は文化祭に向けて展示されるクラス花壇の水やり当番の日だから、いつもより早めに登校しなければならない。
鏡で身だしなみを整えて、バッグを持って一階に降りた。
太一の分だけの朝食がまだテーブルの上に残っており、お母さんがプリプリと怒っている姿が見えた。
「お母さん、私もう出るね」
「行ってらっしゃい。気を付けてね」
「はーい」
入れ替わるようにお母さんが階段を昇っていく。
起きる気配のない太一を起こしに行くのだろう。
来年から中学生だというのに、いつまでお寝坊さんでいるのだろうか。
私もお母さんも太一には甘いから、子どもっぽさが抜けずにいる。
……コーチも太一に甘いから、人たらしの才能があるのかもしれない。
うーん、私だけでも厳しくした方がいいのかなぁ。
そんなことを考えながら通学路を歩く。
通勤時間にはまだ早いからか、いつものような人混みはなく道は空いていた。
昨日の夜中に雨が降ったからか、湿ったアスファルトからむわっとした臭いが漂っている。
歩くだけでも汗をかくほどの湿気に顔をしかめる。
運動中の汗は爽快感があるのに、今は不快感だけがある。
朝から強い日差しに、これからもっと暑くなることを考えると憂うつな気分になる。
(梅雨は明けてほしいけど、気温は上がらないでほしいなぁ。夏は嫌いじゃないけど、冬の方が好きだな)
黙々と、ただ姿勢だけは気を付けながら歩き慣れた道を進む。
学校が見えたときに、正面玄関に垂れ幕が下がっていることに気がついた。
垂れ幕自体は芳志高校においてそう珍しいことではない。
この間壮行会をしたばかりだし、どこかの部活動が全国大会に出場を決定したのだろうか。
そこに書かれた文字が見える距離まで歩みを進めたとき、私は思わず声を上げてしまった。
「えっ!」
私が驚いたのは、その垂れ幕に見知った名前が書いてあったからだ。
その名前が載っていることに驚きはない。
去年も見たことがあるし、今年もそうなるだろうと予想はしていた。
『祝 姫井 霧子 ジュニアオリンピック出場』
あれ、今って総体の最中じゃないの?
全国大会じゃなくて、ジュニアオリンピック??
ぽかーんと口を開けてその垂れ幕を見ていた私に、後ろから声がかかった。
「おはよう、上條」
「あ、野村先生おはようございます! じゃなくて、あれってどういうことですか!?」
「どうと聞かれても、何がだ?」
声を掛けてきたのは、野村であった。
先週授業を受けたときよりも、少しぐったりとした顔つきで顎髭につやがない。
体調でも悪いのかと思ったが、今はそれよりも気になることがあった。
垂れ幕を指さし、野村に問う。
「姫井ちゃん、まだ県大会でしたよね? その次の地区大会もまだなのに、どうしてあんな垂れ幕があるんですか?」
「垂れ幕? あぁ、あれか。昨日の今日だってのに、準備が早いな。ジュニアオリンピックは総体とは別に、標準記録を突破すれば出れる大会だからな」
「あー、そういえばコーチから聞いたことありますね。じゃあ姫井ちゃん、大会すごかったんだ」
野村は初めて見たようで、感心するように垂れ幕を眺めている。
金曜日から日曜日の三日間行われていた大会を思い返しているのかもしれない。
その目には言い表せない色が浮かんでいて、感慨深げに頷いていた。
その途中で明らかに口が何かに耐えるかの如く歪んだ理由までは分からなかったが、充実した大会だったのだろう。
一瞬の間を置いて、野村は首をかしげながら私の方に顔を向けた。
「なんだ、肇から聞いてないのか?」
「? なんでコーチが関係あるんですか?」
「肇のアドバイス通りに走ったって霧子が言ってたからな。決勝の走りも理想そのものだったし、その様子を話しているかと思ったんだが、聞いてないようだな」
「……コーチ、私を放っておいて大会を見に行ってたんだぁ」
「俺の頼みで運営を手伝ってもらったんだ」
コーチからは何にも話を聞いていない。
金曜日にキッツイ練習をして、土日は完全休養だったから顔を合わせることはなかった。
いつもは完全休養が二日連続することはなく、日曜日は練習になると思っていたのだが、休みだった理由はこれか。
別に摩那に教える義理はないが、私がいないところでライバルのアドバイスをしているのはいかがなものかと思う。
これは、問い詰める必要がありそうだな。
野村に別れの挨拶を告げて、目的だった花壇に水をやる。
すくすくと成長している花を見ながら、どう問いただそうかと頭の中で算段を立てはじめた。
***
「それだけで不機嫌になられても、反応に困るんですけど」
「浮気って自覚を持ってくださいよ! 私はお金を払ってるのに、姫井ちゃんはただでアドバイスもらえるなんてズルくないですか!」
「浮気も何も付き合ってないです。それに、アドバイスも何も少しお喋りしただけですよ。姫井さんが勝手に覚醒したんです、私は何もしてません」
「大会の結果をネットで見ましたよ! 予選準決の二本と比べて決勝だけタイムがおかしすぎますよ! なんですかジュニアオリンピック決定って!」
「いやぁ、生で見てたんですけどさすがに痺れましたね。インハイ優勝もあるんじゃないですかね、あれだけのタイムなら」
県総体女子800m決勝。
明らかに不調であった姫井はその舞台で、過去最高のパフォーマンスを見せつけた。
摩那とは違い、ラストのホームストレートでスパートをかける差し切り型の姫井にしては序盤から積極的に仕掛けるレース展開。
最初から最後まで誰にも先頭を譲ることはなく、ゴールする時にはまさにぶっちぎりと形容すべきほど後続を引き離していた。
姫井の影を誰も踏むことができず、ただただ独走を眺めるだけの他の選手はゴール後全員唖然としていた。
県記録まではあと一歩というタイムではあったが、それでも県高校生記録かつ大会記録の樹立に会場は湧いていた。
大人にも引けを取らないそのタイムは、今年のインターハイの優勝候補に真っ先に名前を挙げられるほどの選手になった。
帰り際に会った野村はゲッソリとしながらも目が血走っていたから、相当興奮したのだろう。
鍋島も野村の立場であったなら、準決勝までの走りは心労が溜まるだろうし、その後の決勝の走りは興奮するだろう。
感情がジェットコースターに乱高下して落ち着きのない野村の姿は初めて見た。
それだけの走りをした姫井は、憑き物が落ちたようにサッパリとしていてタイムにも順位にもあまり興味を持っていなかった様子だったが。
まだ、彼女にとって満足する結果ではないのだろう。
県総体が終わっただけで、まだ地区大会から全国大会へと大会は続いていくのだ。
幸先のいいスタートを切っただけ、そういった感情なのだろう。
今までのような不安定な精神の気配はなく、あれならコンスタントに結果を残せそうだ。
姫井のことを考えていたのが不満だったのか、摩那がまた抗議の声を上げた。
はぁ、いつも通りのじゃれ合いの時間だ。
「むぅ。やっぱり姫井ちゃんに現を抜かしてるじゃないですか」
「別に現を抜かしていたつもりはありませんよ。摩那さんに使えそうなものはないか探しながら観戦していたので」
「え、そうなんですか。それは嬉しいですね」
「まぁ、役に立ちそうな情報は一切なかったんですけど。姫井さんはタイプが違い過ぎる」
「なんで期待させるような言い方をしたんですか?」
「勝手に勘違いしただけでしょう? ほら、今日の練習を始めますよ」
「それはそうですけどー」
「あ、そうだ。姫井さんから伝言を預かってますよ」
「姫井ちゃんから? 同じクラスなんだから直接言えばいいのになぁ」
大会終了時、野村と一緒に道具の後片付けをしていた際に姫井から摩那へ伝言をもらっていたことを思い出す。
その内容は鍋島にとっては嬉しい内容だったが、多分摩那はイヤな顔をするだろう。
姫井もそれを見越してか、彼女にしては珍しい喜悦に満ちた表情をしていた。
きっと直接言うのはトラブルになると思ったから言伝という形を取ったのだろう。
噛みつかれるのは自分なのだから、直接言ってほしいのだが。
「『県選手権棄権するから、僕の不戦勝ってことで』だそうです」
「……ん? それなら姫井ちゃんの不戦敗になるんじゃないんですか? そもそも、なんで出ないんですか?」
「あー、それはですね、県選手権の位置付けが複雑というかなんというか」
七月に行われる県選手権、つまり摩那が最大の目標として掲げている大会なのだが、その位置付けは非常に微妙なのだ。
摩那のような個人勢や社会人にとっては県内最大規模の大会なのだが、姫井のような上澄みの学生になると話が変わるのだ。
県選手権が開催されるタイミングは、地区大会が終わりインターハイ直前の時期に開催される。
インターハイに出れなかった選手やそれまでにジュニアオリンピックの標準記録を切れなかった選手にとって、最後の機会となる大会なのだ。
つまり、両方の出場資格を手に入れた姫井に取ってわざわざ出る価値はあまりない大会になったのだ。
鍋島の視点からすれば一位を取り合う強力な相手がいなくなってラッキー程度だが、摩那にとっては違うだろう。
姫井と競い合って勝つという目標を前から聞いていたし、本人に宣戦布告までかました。
それなのに、一方的な勝ち逃げ宣言は彼女の性格からすれば効く煽りになる。
「要は、姫井さん相手に勝ち負けをつけたいなら、全国の舞台に来いってことですね。彼女は出る大会を選べるほどの立場になったので、わざわざ摩那さんに合わせる理由がない」
「きぃー! なんかキザっぽくないですか!? じゃあそう言えばいいじゃないですか!」
「そうやって噛みつかれるのが嫌だったんでしょう」
「明日思いっきり噛みついてやるんだから!」
「本当に噛むのだけは止めてくださいね。刃傷沙汰は勘弁なので」
「……噛んで怪我させた場合、歯って刃物扱いになるんですかね? ならないなら刃傷沙汰じゃないので、コーチ的には問題ないってことですよね?」
「急に冷静になって揚げ足を取りにこないでください。意味ないですよその疑問。どっちにしろ傷害罪なんですから」
「コーチが変な言葉選びするからー」
「他責もなしです。時間は有限なんですから練習しますよ」
「はーい。姫井ちゃんに負けないようなアドバイスをお願いしますね!」
そう言いながら摩那はトラックに駆けていった。
鍋島が先導して練習するのだから摩那が一人でトラックに行く意味はないのだが。
モチベーションが高まっているのか練習メニューが頭から抜けているのか、気合を入れている摩那に対して苦笑する。
ライバルの活躍にじっとしていられないのだろう。
ライバルと言えるほどの実績を摩那は残していないのだが、それを指摘するほど自分は野暮ではない。
目指すべき相手がいるということは、競技を続けていくことで大事な要素だ。
陸上競技は一人で走るわけではない。
タイムを競い、順位を争い、パフォーマンスを披露し合う相手が必ずいる。
(ライバル、俺にはいなかったな)
走る動機を他者に求めない鍋島にとって、強く意識をするライバルというものは存在しなかった。
全国の舞台で一位を争いあった相手のことは覚えているが、その相手をライバルと意識したことはない。
県内の大会で何回も顔を見た相手はいるが、切磋琢磨する関係ではなかったから今はもう顔すら思い出せない。
負けたくない、それは姫井との会話で気がついた自分の走る動機の一つだが、その思いが特定の個人に向けられることはなかった。
……誰に、負けたくないと思ったのだろう。
「コーチー? 早くやりましょうよー! 姫井ちゃんに負けたくないですよー!!」
「今行きます」
摩那の呼び声に我に返り、来ていたジャージを脱ぎ捨てて軽装になる。
今は摩那の練習時間だ。
別のことを考えていたら、また面倒な絡み方をされそうだ。
意識を切り替えるために、頬を軽く叩いて鍋島もトラックに向かって歩き出した。
じりじりと日の光を浴びたタータンは熱を持っていて、足が焼かれているような感覚がした。
春が終わり、夏が始まる。
摩那の夏は、どのような結果になるんだろうか。
「ペースと目的は頭に入っていますね? それじゃあ行きますよ」
「はい! どんとこいです!」
「......よーい、はい!」
少なくとも、つまらない終わり方にはならなさそうだ。
評価、感想、誤字指摘等していただけると嬉しいです。
X→https://x.com/asutoro_narou




