動機
走ることのモチベーションは人それぞれだ。
体を動かすことが好きな人、誰かと競い合うことが好きな人、ただ速さだけを求める人。
より速く、より高く、より遠くへ。
己の限界に挑むその姿は、結果がどうであれ個人の意思を薪にして燃え上がらせているように見える。
各学校の色とりどりのジャージ姿を横目に見ながら、鍋島は競技場の運営本部で野村と向き合っていった。
「悪いね肇。休みだろうにわざわざボランティアしてもらって」
「いいですよ別に。招集係程度なら大した労力も必要としませんし」
「そう言ってもらえると助かるよ。担当が病欠してしまって人手が必要だったんだ。上條の練習もつけたいだろうにすまんな」
「摩那さんは昨日が追い込み日だったのでどっちにしろ今日は休みですから、お気になさらずに」
野村から手渡された腕章をつけ、オレンジ色の派手な帽子を被る。
今日は急遽県大会の運営ボランティアということで、野村に朝に電話で助っ人を頼まれたのだ。
鍋島は審判の資格を取っていないので高度な判断を必要とする任には就けないが、雑用程度なら高校時代から補助員として何回か経験している。
今回は、招集所でのボランティアということだ。
タイムテーブルと出場者のチェックリストを受け取りながら、野村との会話を続ける。
いつものように顎ひげを撫でるその手が、少し力がこもっているように見えた。
「上條の調子はどうだ?」
「順調ですよ。強度の高い練習に合間合間の補強運動、たまの座学で良い循環ができています。体が強いのはやはり教える身としてはとてもありがたいですね」
「はは、それはいいことだ。怪我の心配が少ないだけで指導のしやすさがグッと変わるからな」
低くしわがれた野村の声は、どこか苦労を感じさせるものだった。
長い指導歴があるのだから、どこかで誰かの競技人生を怪我で終わらせてしまった過去があるのかもしれない。
それとも、今日のことで緊張しているのか。
「姫井さんはどうですか? 最近はあまり部活の方に顔を出していないので、様子を見てないのですが」
「霧子だがなぁ、ちょっと県突破すら怪しいかもしれん」
「え? 調整でも失敗したんですか?」
野村の細い目がさらにきつく絞られ、ブチッと顎髭が抜ける音がした。
姫井は全国上位のタイムを持っており、今年の春の大会でも悪くはないタイムで走っている。
毎年総体のシーズンになると陸上雑誌にベストタイムのランキングが掲載されるのだが、姫井は上位につけていた。
そんな人間が、県すら突破できない有り様になるとは到底考えられなかった。
鍋島が県のレベルを舐めているわけではない。
それほどまでに、インターハイ出場者が叩き出すタイムというのは抜きん出ているということなのだ。
ひょっとして、鍋島が教室で座学をした日から不調なのかもしれない。
あの日の姫井は気落ちしていて、とてもではないが安定したメンタルとは言えない様子だった。
そうさせたのは自分なのだから、責任感というものが心の中で芽生えていた。
「私が座学したせいですかね......」
「いや、そうではないよ。君の教えを受けた他の生徒は躍動しているし、霧子もやる気に満ちていたからね。ただなんというか、最近の霧子は試行錯誤が上手くいっていない感じなんだ」
「あー、余計なことを言い過ぎたかもしれませんね」
「いずれにせよいつかは当たる壁だったんだが、最悪のタイミングで来てしまったなぁ......メンタルが荒れていると走りも荒れるから、余裕を持って見られる状態ではないんだ」
競技を続けていくと、いずれ誰しもが避けられない壁に道が阻まれる。
その壁を容易く壊すものもいれば、人の何倍も時間をかけないと乗り越えられないタイプもいる。
それがモチベーションであれ技術であれ、その壁に直面しているときの走りというのはあまり良いものにはならない。
姫井は、丁度大事な大会でその壁とぶつかってしまったようだ。
野村が言う試行錯誤とは、その壁を乗り越えるための努力のことだろう。
「大丈夫なんですか」
「こればっかりは蓋を開けてみないと何ともだな。何にせよ今日という日はきてしまったのだから、霧子次第だ。おっと、そろそろ時間だ、招集所を仕切る審判には話をつけてあるから、段取りはそこで聞くといい」
「分かりました」
運営本部から挨拶をして退出する。
鍋島の腕章を見て挨拶をしてくる高校生たちに、律義に返事をしながら招集所へ向かう。
夏の大会に向けてライバルになりそうな人間の様子でも見に来ようと軽い気持ちで来たが、どうやらそれは叶わないようだ。
キリキリと胃が痛み出す。
鍋島も一緒にグラウンドで汗を流し、少しとはいえ指導したことのある生徒たちが今日、最後の舞台になる可能性を今更になって実感し始めている。
ほぼ部外者といっていい鍋島でこれなのだから、顧問の野村はどれだけの重圧を感じているのだろうか。
(......夏の大会、摩那さんをちゃんと応援できる自信が無くなってきたな)
人目があまりない廊下の隅で、鍋島は大きくため息をついた。
陸上競技は、タイムという絶対的な数字で競い合う競技だ。
タイムだけが価値のあることであり、体調やメンタルなど何の言い訳にもならない。
誰しもが平和的に終わるなんてことは、あり得ないのだ。
スポーツで叶う夢があるということは、同時に叶わなかった夢があるということだ。
散るにせよ咲くにせよ、見る側の覚悟というものは鍋島にはできていなかった。
(今日、断ればよかった......)
後悔先に立たず。
重い足を引きずって、鍋島は招集所へと再び歩きはじめる。
どこかの高校の、明るい挨拶が競技場に響いて消えていった。
***
僕にとって、走る意味とはなんだろう?
大会当日になって、そんな意味のない問いがグルグルと頭を駆け巡る。
体に一切の不調はない。
むしろ、今までの競技人生において一番上手く調整できたと言ってもいい。
それなのに、どこか集中力に欠けている。
一位になりたいとあれほど願っていたはずなのに、今はどこかレースすら他人事のように感じる。
気がつけば予選と準決勝は終わっており、決勝にはギリギリ八位で滑り込むといった有り様だった。
『あなたに一番足りないのは、ハングリーさですよ』
『タイムを縮める執念があなたには足りない』
鍋島さんの言葉が脳内に鳴り響く。
どこまでも貪欲に、真面目に練習に取り組んできたはずだった。
それなのに、僕より格上の人間から見ればその努力は不十分にしか見えないものだった。
鍋島さんが悪意をもって僕を否定したわけではないことは分かっている。
自分のピークが今しかないと思い込んでいる僕への励ましの意味合いがあると、頭では理解している。
だけどどうしても心は重く、スッキリとしないままであった。
何のために走って、何のために練習を重ねてきたのだろう。
今考えるべきことではないことが、ずっと靴底にへばりついたガムのように頭から離れない。
走っても休んでも消えない倦怠感のようなものに、体の力が抜けていく。
もうすぐ決勝の時間になるというのに、こんな調子では上位入賞すら怪しいだろう。
(......別に、終わってもいいか)
今にして思えば、僕はどうしてあれほど焦っていたのだろう。
鍋島さんに専属コーチをお願いしてまで、野村先生の言うこともろくに聞かないで、何に駆り立てられるように突っ走っていたのだろう。
終わってしまえば、辞めてしまえば、こんな悩みからも解放されるのだろうか。
「9レーン、姫井霧子さん……姫井さん!」
「っ、はい!」
ぼんやりとしていた頭では、僕の名前を呼ぶ招集係の声に気が付かなかった。
年若い男の声に呼ばれて慌てて立ち上がる。
その時に、抱えていたスパイクが手元から転げ落ちてしまった。
新品とは程遠い、けば立ったシューレースのスパイクが招集係の足元に跳ねていく。
男はそれを拾い上げると、靴裏をじっくりと見つめて頷いている。
「ピンは問題ないですね。ゼッケンと腰番を見せてください」
「な、鍋島さん!?」
「えぇ、お疲れ様です。なんとか決勝まで進出しましたね。心ここにあらずといった走りで、見てる方としては肝が冷えるような内容でしたが」
スパイクを丁寧に返してくる男性は、午前中に招集をしてくれた初老の男性と違い鍋島さんであった。
ここにいるはずのない人物に、ついに自分は幻覚を見ているのかと頬をつねってみた。
ただただ痛みが走るだけで、それが現実だと訴えてくる。
「なんで、ここに......?」
「実は午前中からいましたよ。点呼は違う人がやってましたけど、腰番回収しに行ったりチェックリスト本部に送りに行ったり雑用をしてました」
「招集係の人は違う人だったのに」
「お願いして、このレースだけ担当を変わってもらいました。姫井さんの様子があまりにもおかしいので、確認するタイミングを作ろうと思いまして」
「......やっぱり、僕の走り、おかしいですか」
「いつもと比べれば異常と言っていいですね。ただ、自覚があるなら修正はできるでしょう。頑張ってください」
鍋島さんは首元をトントンと叩きながら、言葉を口にする。
分かり切っていた答えだが、それでも人から断言されると傷つくものだ。
集中できていない自分が悪いのだけれど。
持っていたユニフォームのゼッケンと腰番を鍋島さんに見せ、それで女子800mの招集は終了となった。
近くにいた選手たちは、そそくさとベンチから立ち上がり動き始めた。
僕はベンチから動くことなくただ鍋島さんを見ていた。
走ることよりも、誰かと話していたい気分だった。
「そういえば鍋島さんって、審判の資格あるのか?」
「ないですよ。だから、本当は招集係もやってはいけませんね」
「えぇ......大丈夫なのかそれ」
「大丈夫ではありませんよ。だから、この組だけです。それよりも、姫井さんは行かなくて大丈夫なんですか? あんまり時間はありませんよ」
「そうだけどさ、走る前は人と会話してリラックスするのがルーティンなんだよ」
「そんな見え透いた嘘は信じませんよ。練習ですら無駄話を嫌うあなたが、レース直前に意味もない時間を割くタイプなわけがない」
「......鍋島さんは遠慮ってものがないね」
「摩那さんに言わせれば、ノンデリって言うらしいですよ。私にはわかりませんが」
「そういうところが素直に言うのがデリカシーに欠けるんじゃないか?」
素っ気ない鍋島さんの態度。
いつもと変わらないその様子を見ると、自分がいつもと違って浮ついた態度になっていると自覚してしまう。
鍋島さんにはきっと、こんな醜態をさらすことはないのだろう。
どこにいっても、どんな舞台でも安定したパフォーマンスを発揮できる人間。
そういう人だけが、記録を残すことができるのだろう。
目の前の男性が県記録保持者だということを意識するたびに、自分の矮小さに嫌気が差してしょうがない。
どうして、僕はこの人のようになれないのだろう。
俯いた視線の先、丁寧に手入れしてきたスパイクがひどく汚れた価値のないものに見えた。
ぽつりと口からこぼれたのは、そんな浅ましい比較を止められない自分を慰めるための言葉だった。
「鍋島さんは、ずっと勝てる人だから、レースが嫌になったりしないんでしょうね」
「……姫井さんは、嫌になったんですか?」
「どうなんだろうね。ずっとこの総体で活躍するために練習してきたはずなのに、心が浮ついたまま集中できないんだ。なんのために走るのか、分からなくなってきたというか。鍋島さんは現役のときなんのために走ってました?」
「流行ってるんですか、それ」
「?」
「なんのために走る、ってことです。摩那さんにも聞かれたんですよ。それってそんなに重要ですか?」
「モチベーションは大事でしょ。メンタル一つで結果が変わる競技で、目的意識が薄い人は努力しきれないよ」
部活は強制されてするものではない。
自分で選んだ種目で、自分が走ると選んだからここにいる。
親から陸上を強制されるような人間はごく少数で、大半が僕のように自分で選んだ部活だろう。
だからこそ、熱意というのは選手間で濃淡のグラデーションを見せている。
今の僕は燃えカスで、他の選手はたった一つの表彰台を狙ってギラギラと心を燃やしている。
この差は、タイムに如実に表れることだろう。
そんな当たり前のこと、鍋島さんが分からないはずはない。
あぁ、僕の無様な姿を見て呆れているのかな。
それとも、どう励まそうと言葉を選んでいるのかな。
そう思って顔を上げて見た彼の顔は、想像とは違って困惑に満ちた表情だった。
「申し訳ないんですが、本当にモチベーションの有無が理解できないんですよね。指導者としては分かりますよ? 熱意がある方が教えやすいですし、上達も速いのはそういうタイプですからね。ただ、選手としての目的意識って聞かれると困るんですよね。悩んだことがないので」
「ははは、そういうメンタルの人間がずっと勝てるんだろうね」
「あと、それも姫井さんの勘違いですね。私は勝者のポジションに立ったと思ったことは一度もありませんよ」
「でも、県記録保持者じゃないか」
「それは一回だけタイムが良かっただけで、しかも高校三年の最後のレースだけです。そのレースも結局二位ですし、姫井さんが想像しているような大それた人間ではないですよ私は。上澄みであるかもしれませんが、常勝と胸張って言える戦績ではないんです」
「それなら鍋島さんは、なんで走ってこれたのさ。負けた日のことを考えると、走る気力が湧かないレースだってあるだろう?」
停滞はストレスだ。
かけた時間、走ってきた距離、積み重ねてきた努力。
それが目に見える形で現れないということは、心をどんどんと疲弊させ足を重くする。
鍋島さんはそういったものと無縁の選手だったはずだ。
モチベーションが無いというのなら、何が彼の足を前に進ませていたのだろうか。
「そんなの、負けたら悔しいじゃないですか」
そう答えた鍋島さんは、自分で口に出した言葉に驚いた顔をしていた。
まるで勝手に口が動いたかのようで、それは考えて動かした言葉ではなかったようだ。
初めて見るその顔は、僕が憧れた冷徹な顔つきとは違って子どものような幼さがあった。
負けたら、悔しいか。
その気持ちは、痛いほど分かるなぁ。
負けたくないともがいてもがいて、今の僕がいるのだから。
「お喋りが過ぎましたね。決勝、頑張ってください」
「ああ、スッキリしたよ。見せられる走りをしてくるさ」
「そうしてください。野村先生がお腹を抱えていたので、結果で安心させてあげてください」
「ははっ、そうか。それは悪かったなぁ」
スパイクを大事に抱え、ベンチから立ち上がる。
今度は落とさないように、ギュッと腕に力を入れる。
更衣室でユニフォームに着替えながら、自分の原点というものを思い返す。
800mを始めたのは鍋島さんへの憧れからだが、陸上部になったきっかけは小学生の出来事だった。
クラスの意地悪な男子に、体育で足の遅さをバカにされて悔しかったのだ。
その子は運動会でリレーに選ばれるほど足が速くて、私はクラスで下から数えた方が速かった。
バカにされた事よりも、何も言い返せない自分の足の遅さが悔しかった。
だから、とても練習した。
学校の体育には真剣に取り組んだし、家に帰ってからも親に怒られない程度に家の周りをグルグルと走ったものだ。
それでも小学生のうちにその子に勝てることはなく、ずっと悔しい思いをしていたのだ。
男の子はもう僕をバカにしたことを覚えてはいないだろうが、僕はずっとその悔しさを覚えている。
負けたくない。
原動力というには幼稚で取るに足らない小さなものだが、それをずっと心に宿して走ってきたのだ。
それだけが僕の足を前に動かしていたはずなのに、全国大会に出場した時から慢心して自分を見失っていたようだ。
今の僕に必要なものは専属コーチでもなく走るモチベーションでもなく、たった一つの気持ちだけで良かったのだ。
(ハングリーさも執着も、負けたくないって気持ちを忘れてたから足りなかったのかな)
視界が澄み、足取りが軽くなる。
やることが明確になった。
スタート地点にたどり着くと、既に来ていた他の選手と目が合った。
今日の僕のパフォーマンスを見て侮るような目や、年下に負けてなるものかと敵意の目が突き刺さるのを感じる。
誰も彼もが、たった一つの席を自分の物にしようとプレッシャーを放っている。
そのプレッシャーを受けて、軽く息を吐いて笑って見せる。
こいつら全員に、僕の背中を見せつけてやるだけでいい。
悔しい思いはしたくない。
たったそれだけの思いが、僕を突き動かしてきたのだから。
「悪いけど、今日君たちが見るのは僕のゼッケンだけだから。よろしく」
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