サーキットトレーニング
この練習が一番嫌いでした
「運動靴はちゃんと持ってきてありますか?」
「ありますよー。出る前も聞いたじゃないですか」
「生返事するだけの人が身近にいたので、確認するのが癖になっているんですよ」
「私、運動はできないですけどそういうのはしっかりしてますからね! こないだの中間テストも学年一位ですからね!」
「頭の良さと忘れ物をしないかは関係ないのでは?」
「それはほら、その場のノリで流してくださいよ」
小雨が降りしきる中、車の中で忘れ物がないかチェックする。
どんよりとした灰色の雲からパラパラと降る雨は運動には支障がないだろうが、連日続く雨によって道という道には水たまりができていた。
いつもの練習場も水はけがいいとは言えず、整備の観点から使用禁止の立札が貼られていた。
ロードワークにしてもよかったのだが、この後は土砂降りになる天気予報になっていて山にはいかにも大雨を降らせそうな黒い雲がかかっている。
そういうわけで、今日は塾長からもらったチラシを頼りにアリーナでの室内練習をすることにした。
幸いにも予約は空いており、サブアリーナのコート半面を二時間使用できることになったのだ。
トランクから必要な荷物を取り出し、雨に濡れすぎないように小走りで体育館のロビーに向かう。
ロビーは広く、メインアリーナやサブアリーナ以外にもトレーニングルームや会議室など様々な案内板が天井からぶら下がっていた。
摩那も来るのは初めてなのか、辺りをキョロキョロと見回している。
鍋島も使用方法がよく分からなかったので、とりあえず入ってすぐ横にある受付に聞くことにした。
暇そうにボールペンをいじっていた中年の女性が、話し相手ができた喜びか営業スマイルをふんだんに浮かべて鍋島に対応する。
「すみません十六時で予約していた鍋島です」
「鍋島さんね......はい、二名で予約ですね。ご利用は初めてですか?」
「はい」
「ではこちらの方にご利用者の情報をご記入ください。卓球台やバレーボールネットなどの道具は別料金になりますが、いかがなさいますか?」
「コートの利用だけで大丈夫です」
「分かりました。使用後の清掃と消灯はセルフになっていますので、ご協力お願いします......はい、大丈夫ですね。あちらがサブアリーナになりますので、奥のコートをご利用ください」
電話番号などを書いて渡し、それと交換するようにA4サイズの紙をもらう。
利用方法やルールなどが箇条書きにされた文章全てに目を通す。
なるほど、基本料金が安い代わりに、道具の貸し出しなどは別料金として取られるわけか。
その別料金も大した額ではないので、子どもも利用しやすい配慮がされている。
有名スポーツメーカーが提携しているためか、館内の購買にはそのメーカーのシューズやタオルなどが販売されており、設備も全てそのメーカーの物のようだ。
換気のためか開放されているメインアリーナの方からは活気ある掛け声が聞こえており、どうやらバレーチームが貸し切りで練習しているようだ。
その反面、サブアリーナは閑散としており利用者はあまりいないようだった。
もう一度紙に目を落とすと、メインとサブでは利用できる設備に大きな違いがあり、またほとんどがセルフサービスとなっているようだった。
ふむ、悪くない。
道具は自前以外の物は使う予定はないし、掃除と言ってもモップ掛けをするだけでいいらしい。
それだけの労力で雨風をしのげる場所が確保できるなら、安いものだ。
案内に従ってサブアリーナの方に向かう。
ボールが強くぶつかっても問題ないように設計されている重厚な扉を開ける。
利用者がいないためか、こもった空気は少しホコリ臭い。
ただ摩那は気にならないようで、初めての練習場所に目を輝かせて駆け出していった。
「わースゴイ! こんな大きい体育館を貸し切りですよコーチ!」
「貸し切りではないんですが......まぁ他に予約は入っていなかったので、実質貸し切りみたいなものですか。半面しか予約は取っていませんが」
「半面でも二人きりで使えるなんて贅沢ですね。それで、ここで何をするんですか? 最近は雨続きでゆっくりとしたロードワークしかしてなかったから、思う存分体を動かす気分ですよ!」
「やる気があるのは結構ですが、怪我だけは本当に気を付けてくださいね?」
普段慣れているアスファルトやトラックとは違い、体育館のコートには特有の硬さというものがある。
何より、荒い地面と違いワックスがかけられたコートは滑りやすい。
転倒して怪我、滑った体勢を無理に守ろうとして捻挫や関節を痛めるということはざらにある。
体育の授業でその辺りの危険性は理解しているはずだが、今日の浮かれ具合を見るとあまり期待できそうにはない。
いつも以上にしっかりと見張る必要がありそうだった。
「わかってますって、そんな子どもじゃないんですから心配しなくても大丈夫ですよ」
「こないだ体育で怪我したばっかりなのに?」
「自打球は不運な事故じゃないですか! プロ野球選手も避けられないような怪我はノーカウントですよ!」
「その理論ならどんな怪我もノーカウントになるんですけど......」
「細かいことはとりあえず置いといて、今日はどんな楽しい練習をするんですか?」
「細かくはないんですが......はぁ、もういいか。今日は前半はいつも通りの動きづくり、後半はサーキットトレーニングをします」
「サーキット……聞いたことないですね。走るんですか?」
「それ、絶対に違うサーキットを思い浮かべてますね。走りはするんですけど」
摩那が思い浮かべているのはおそらく、F1などのサーキットのことだろう。
英語にしてしまえば両方とも同じcircuitから来ているのだが、今回の意味は周回の意味だ。
有酸素運動と無酸素運動を交互に行う練習方法で、基本的にはオフシーズンに取り組むことの多い練習だ。
シーズン中に取り入れるには負担が大きく、定期的に練習することに向いていないからだ。
それに走りを鍛えるというよりも、肉体を鍛えるというトレーニングなのでスピードが欲しいシーズン中にサーキットをやる人はあまりいない。
それでも今日そのトレーニングを取り入れるのは、雨によって強度不足の体に刺激を入れるのには最適だと考えたからだ。
「いつも通りのアップと体操とドリル、あと今日は思いっきりメディシンボールを投げていいですよ」
「え!? いいんですか!?」
「......えぇ、多分」
摩那に渡したメディシンボールも今日は持ってきてもらっている。
荷物の一つである丸いクッション性のあるボールを、摩那は嬉しそうに持ち上げている。
軽々と持ち上げているそれは、一応3kgとそこそこの重さがあるのだが。
思わず体育館の窓ガラスを見る。
流石に運動を想定している場所だけあって、ガラスに直接ボールがぶつからないように柵があるので悲惨な事件は起きないだろう。
勢いよく投げられたその球が自分に飛んでくることだけが恐怖ではあるが。
「とりあえず、アップしましょうか」
「はーい」
バスケットコートをなぞる形でゆっくりと走る。
キュッキュッと運動靴が体育館の床を捉える音がして、新鮮な気分になる。
鍋島の大学では体育が必修ではなかったので、室内で運動するのはずいぶんと久しぶりになる。
少しだけバスケットボールやバドミントンなど体育でやっていた競技をやりたい気分になったが、道具がないのでできない。
それに、相手が摩那なら運動という形にすらならないだろう。
そんな失礼な事を考えていると、摩那が話しかけてきた。
「コーチって陸上以外の運動ってできるんですか?」
「できますよ、人並みぐらいには」
「へぇー、意外ですね」
「そうですか? 運動神経はそんなに悪くないように見えていたと思うんですけど」
「陸上部の人って基本的に球技とかのセンスないじゃないですか。だから、コーチもないのかなぁって」
「摩那さん、時々エグい偏見を口にしますよね。言いたいことは分かりますけど」
「あ、分かってはくれるんですねそこは」
鍋島が所属していた陸上部はあまり人がいなかったが、他の高校の陸上部との交友はそこそこにあった。
速ければそれだけで注目を集めるものであるし、野村の誘いで国体の選抜合宿にも参加していたからだ。
合宿ではクロストレーニングの一環として球技を行うこともあったが、運動センスの良さを感じる相手は確かにいなかった。
いつも走るトレーニングが中心なのだから、球技などできなくて当然ではあるのだが。
球技によくある急停止、急加速、直角に曲がるなどそういう動作は慣れていない人間はスムーズにできるものではないし、そこにボールが加わるとなると経験者以外はまともに動くことすらままならない。
だから、摩那の言いたいこともなんとなくは理解できた。
(合宿の最初にやったアイスブレイクのサッカー、あれはひどかったなぁ......)
過去の体験を思い出しながら、アップを進めていく。
柔軟体操を済ませ、簡単なドリルを行う。
何回見てもひどいフォームではあるが、転倒しないだけ上達は見て取れる。
……摩那を見ていると、上達が速いのか遅いのか、時々判断に困ることがある。
マイナスがゼロになっていってるだけなのだが、一か月足らずでゼロ付近まできていることを考えると速いのだろう。
ただ、センスのある人間はそもそもマイナスにはならないのだが。
それでも摩那本人は笑顔でドリルをこなしている。
前向きに練習し続ける姿勢だけは、誰にも負けない美点だろう。
「ドリル終わり! 次は何やるんですか?」
「メディシンボールのトレーニングですね。家ではできない、ダイナミックな動きをしてみましょうか」
「いいですね! こないだガラス割ってから、あんまり使わせてもらえなかったのでうずうずしてたんですよ!」
「摩那さん見た目は細いのに、案外パワー系ですよね」
「体脂肪率一桁台の鋼の肉体ですよ!」
「うーん、いいことなのか断言しかねますね……」
アスリートとしてみれば素晴らしいことではあるが、一般的な健康の観点から見れば体脂肪率が一桁しかないのは痩せすぎの傾向にある。
ホルモンの乱れや免疫力の低下に繋がるそのリスクを、摩那は理解しているのだろうか。
そう思ったが、別に摩那も無理して痩せようとしているわけではない。
無理なダイエットや食事制限を経てできた体ではなく、自然と普段の習慣からできた肉体なのだ。
そこはあまり心配しなくてもいいのかもしれない。
摩那の肉体が強靭であることは、間近で見続けてきた鍋島が一番理解している。
自惚れて体調不良を見過ごさないことだけは心に留めて、深く追求はしないことにする。
「それじゃあ、スクワットの姿勢から思いっきり真上にボールを投げてみましょうか。落下してくるボールに潰されないでくださいよ」
「そこまでどんくさくないですよ」
「もっと客観的に自分を見れませんか?」
「むぅ、コーチも人に投げつけるナイフの鋭さを自覚してほしいですね、っと!」
摩那が全身を使いメディシンボールを真上に放り投げる。
3kgのボールが高く舞い、放物線を描く。
ズシンと体育館の床を揺らして、ボールが小さく跳ねた。
「思ったよりも綺麗に投げれますね。もっと転んだり変な方向に投げ飛ばすものかと」
「へへーん、庭でこっそり練習してましたからね! まぁ、これでガラス割ったんですけど......」
「何やってるんですか」
「真上に飛ばすなら大丈夫かなって......横に飛んでっちゃんですけどね」
「......今度から危険そうなことをやる時は、声を掛けてください。私が判断しますので。とりあえず、今日は真上に投げるのと、背面に投げるのをやりましょう。ここならガラスを割る心配はないですから」
「はい!」
それからはしばらくの間、二人で一つのボールを交代交代で放り投げていた。
ボールを高く飛ばすためには、腕の動きだけではなく全身をバネのように連動させることが必要になる。
関節は柔軟に、筋肉は下半身から上半身へと力が伝わるようにフォームを作る必要がある。
腕の力だけでは上手く投げることはできないし、下手なフォームでは腰や肩を痛める恐れがある。
摩那は練習はしたというだけあり、まだぎこちないながらもボールを上手に投げれている。
30分ほどフォーム修正も含めて投げ合うと、汗が止まらなくなってきた。
本練習に向けて丁度いい刺激になっただろう。
「メディシンボールはこれぐらいにして、サーキットにしますか」
「はい!......サーキットトレーニングって結局何するんですか?」
「30秒筋トレして走って、30秒筋トレして走って、それだけです」
「なんていうか、簡単そうに聞こえますね」
「やってみてのお楽しみってやつですね。ちなみに、多分全国の運動部にアンケートを取ったら不人気練習のトップ争いに食い込むと思いますよこの練習」
「へー、そんなに辛いんですね」
一つ一つの動作は単純な筋トレであるし、言葉だけで聞けばインターバルやレペティションの方がきつく聞こえる。
だが、サーキットトレーニングはこの二つに劣らないきつさがある。
地味な苦痛が、心を折りにくるのだ。
それでも摩那は楽しそうに唇を歪めている。
……やはり、Mっ気があるな。
バスケットボールコートの隅へ対角になるように二つのコーンを置く。
コーンで筋トレをし、次のコーンまでは外周をランニングでつなぎコーンに着いたらまた筋トレだ。
「メニューはそうですね......バーピーはできなさそうですから、普段やっている筋トレだけにしますか。腕立て、スクワット、プランク、ランジ、腹筋、もも上げの六種類でいきますか」
「それだけでいいんですか?」
「これを三周を一セットとして、最低三セットはやりますよ。多分、一セットからしんどいですよ」
スポーツドリンクで喉を潤しながら、鍋島はジャージを脱いで軽装になる。
靴ひもをしっかりと締めながら、一つため息をつく。
鍋島に練習に対する拒否感は一切ない。
必要な努力ならばそれがどれだけきつかろうと受け入れる覚悟がある。
それでも、サーキットトレーニングは気が重くなるものだった。
摩那用の軽い筋トレメニューではあるが、しっかりと自分を追い込めばきついメニューであることには変わりない。
「じゃあ、やりましょうか。地獄のサーキット」
「地獄なんて、コーチは大袈裟だなぁ」
「はぁ......練習後も笑ってたら、購買にあったアイスでも奢りますよ」
「言質取りましたからね! さぁ、やりましょうよコーチ!」
その後、結局アイスを奢ることにはならなかった。
***
「はぁ、はぁ、ひぃ」
「ペースが落ちてますよ! あと10秒サボらず!」
「ひぃ!!」
返事もろくにできず、コーチの叱責には苦痛の声しか上がらなかった。
肺がきつい、腕が重い、足が上がらない。
誰だ、この練習を簡単だと言った愚か者は。
私の向かいで、私と同じように腹筋をしているコーチの顔も苦しそうに歪んでいる。
普段の練習で一緒に走るときは私のペースに合わせているから、いつもコーチは涼しそうな顔をしている。
そのコーチが、額から汗を垂れ流し眉に深いしわを作っている。
滅多に見れないその顔を見るに、本当に辛いときのコーチはこんな顔をするんだろう。
それなら私は、人に見せられないもっと情けない顔をしているのだろう。
もはや腹筋とはいえない謎の動きでじたばたとしている姿は、誰から見ても滑稽に違いない。
「30! はい、次のコーンまで走って!」
「はひぃ!」
急かされて、慌てて立ち上がりよたよたと走り始める。
ストップウォッチ片手に走るコーチは息を切らしているものの、フォームはいつもと変わらず綺麗な走りだった。
負けじと私も胸を張ったが、息も絶え絶えの体ではそれが精一杯だった。
コーンについた瞬間、コーチが声を張り上げる。
「もも上げ、よーいはい!」
「っ!」
「背中曲げない! これがラストだからって甘えない! 頑張れ!」
コーチが檄を飛ばす。
それに応えるために、重くなった体にムチ打って必死にももを動かす。
背筋を伸ばし、腰までももを上げる。
それだけの動作が、今は何よりも苦しい。
(きつい! きつい! きつい!!)
思考に余裕はなく、辛さだけを訴えている。
フォームの綺麗さだとか呼吸のリズムだとか、そういったものを考える余裕は一切残っていなかった。
30秒だというのに、無限に続くような錯覚に襲われる。
まだか、まだ終わらないのか。
「あと10秒! 出し切って!」
「ぎぃぃ!」
乙女とは思えない声が口から漏れる。
体に残った力を振り絞り、必死にももを上げる。
同じ側の手と足が出ているような気がしたが、それすらもはや自分では分からない。
「終わり!」
その声を聞いた瞬間、私はコートに倒れ伏した。
コートの冷たさが熱のこもった体にはとても気持ちよかった。
ばっちいだとか、クールダウンを早めにした方がいいなんてまともな考えは思いつかなかった。
ただただ、休みたかった。
レペティションも辛いトレーニングではあったが、サーキットはまた違うきつさがある。
じりじりと削られていく体力と肉体が、こうもしんどいとは始まるときは想定もしていなかった。
(コーチに怒られるかな、そろそろ動けって......)
寝転がった姿勢のまま、コーチの方に視線を向けると珍しい光景が飛び込んできた。
コーチは両手を地面について、荒い呼吸を繰り返している。
一切の余裕が見られないその姿は、私と出会ってから初めて見るものだった。
とめどなく流れる汗がコートの一点に水たまりを作り、視線は焦点が合っていないのかどこか虚ろだ。
そんな姿になるまで、コーチも自分から追い込んだということなのだろう。
私の面倒を見ながらそこまで出し切るのは、器用というか真面目というか、なんとなくコーチらしいと思えた。
(はー、今の私、乙女的にはひどい格好なんだろうなぁ)
疲労と痛みを訴える体から現実逃避するためか、どこか他人事のようにそんなことを考える。
汗まみれで、コートの上で寝っ転がる姿はとても他人に見せられるようなものではないだろう。
確かにこれは、不人気の練習になるのだろう。
一つ一つの動きが単調な分、最後までやり遂げたという達成感があまりない。
やっと終わった、それだけの感情が心を占めている。
ぼんやりと天井を眺めていると、いつの間にか回復したコーチがスッと視界に入ってくる。
その顔はまだ苦しそうではあったが、だいぶ平時の表情に戻っている。
「立てますか。摩那さん」
「もう少し寝てたいです......このまま寝たらダメですかね?」
「汗冷えて風邪ひきますよ。だから言ったでしょ? 地獄だって」
「正直、なめてましたぁ」
コートの冷たさと汗が熱を奪い始めて体がブルッと震える。
これ以上寝ころんでいると、本当に風邪を引いてしまいそうだ。
重い全身に力を入れ、コーチの手を取って起き上がる。
汗ばんだ手の感触に、恥ずかしさを覚えるが今更だろう。
多分、乙女としては見せてはいけないものをもうずいぶんとコーチには晒してしまっている。
だからもう、コーチには何も気を遣ってはいない。
それだけの関係性は築けたと、私は思っているから。
「おぶってくださいよ、コーチ」
「それだとクールダウンにならないでしょう。ダウンまで含めて練習なんですから、頑張ってください」
「先生みたいなこといいますね」
「肩書は家庭教師なんだから、先生で間違ってないと思いますよ」
「知ってますかコーチ。最近の先生のトレンドは生徒に優しい先生なんですよ。だから、私にも優しくしてほしいですね」
「優しいのと甘いのは別では? ほら、さっさとジャージ着てダウンしますよ。今サボると、明日の自分が辛い思いをするんですから」
「ぶーぶー」
ぶー垂れてみるが、言われていることは正論なので反論はできない。
ジャージを羽織り、スポーツドリンクを口にする。
乾いていた体が一気に潤うようで、ついがぶ飲みしてしまう。
疲れ切っている時の、スポーツドリンクはどうしてこうも甘く美味しく感じるのだろうか。
ペットボトルを空にすると、少しだけ体に活力が戻ってくる。
それと同時に、練習を乗り越えたんだなぁという充足感が満ちてきた。
口の端が、ニヤリと持ち上がる。
「そういえばコーチ。約束、覚えてますよね」
「約束?」
「ほら、アイスですよアイス! 私、今笑えてるので奢ってくれるんですよね!」
「あぁ、いいましたね。サーキットが終わった時はあんなにへばっていたのに、よく主張できましたね」
「だってコーチが言ったんじゃないんですか。ダウン含めて練習だって。だからまだ、練習中なんですから約束は有効なはずですよね!」
「......まぁ、一理ありますね」
「やった!」
ご褒美をもらえることが分かると、途端に体から力が湧いてきた。
我ながら、現金な性格だと思った。
なんのアイスにしようかなぁ。
ダウンを済まし、最後の柔軟体操をしながらそう考えていると、口に手を当てて考えていたコーチがポツリと一言漏らした。
「これから雨が降るたびに体育館での練習ですし、少しぐらいは良い思いをさせましょうか」
「え?」
「梅雨入りですからね。グラウンドが使えないほどの大雨の時は、ここに来て練習になりますよ。いやぁ、楽しみですね。摩那さんがお望みの、辛いトレーニングメニューです」
「......」
「おや、笑顔が消えましたね。ダウン、終わりますけど、どうしますか」
「......アイスなしでいいですから、毎回サーキットはなしにしませんか?」
確かにきつい練習は望むところであるが、毎回はさすがに心にくるものがある。
もしも明日大雨が降ったならば、今日と同じことをするということになる。
それは、心が折れてしまいそうだ。
最低でも隔日、できれば週一にしてほしい。
「ふっ、はははっ」
「コーチ?」
私が気が滅入る想像をしていると、唐突にコーチが笑い出した。
今日は、滅多に見ないコーチの姿ばかり見ているような気がする。
「毎回毎回こんな厳しいトレーニングさせませんよ。怪我しますよそんなん」
「なっ、だってコーチが!」
「毎回サーキットをやるとは一言も言ってませんよ。勝手に摩那さんが勘違いしただけです。それなのにアイスはなしでいいなんて、なんて謙虚でいい生徒をもったのでしょう」
「ハメられた!」
「人聞きの悪い。さて、練習は終わりです。帰りましょうか。怒り顔のようですし、約束はなしですね」
手早く荷物をまとめたコーチは、用具置き場の方にすたすたと向かってしまった。
からかわれている。
そう感じた時には、慌ててコーチの背中を追いかけていた。
「コーチの意地悪!」
評価、感想、誤字指摘等していただけると嬉しいです。
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