質と量
トレーニングは小さいアクシデントはありながらも、ほぼ理想的なペースで消化されている。
実際のレースで他人と走った経験からか、摩那は鍋島と走っても大きくリズムを崩すことはなくなったし、ドンドンと知識を吸収している。
吸収した知識が即座に反映されないのは、初心者かつ運動音痴だから仕方のないことだ。
教えたシザースはまだぎこちないし、理想のフォームも見つけられてはいないが、出会った頃と比べればだいぶ陸上選手らしくなったと言える。
五月は順調に、練習漬けの毎日を送ることができた。
タイムトライアルの結果も予想以上に伸びていたし、これからの一か月はさらに重要になるだろう。
問題は、練習ができる環境がなくなるということなのだけれど。
目頭を押さえながら、塾の生徒たちに実施したテストの答案から目を離す。
窓の外はしとしとと雨が降っており、止む気配はない。
梅雨入りの宣言ももうそろそろされるだろう。
天気予報には一週間ずっと傘のマークがついており、外で運動をするにはあまり向いていない季節になってきた。
職員室に備え付けの緑茶を啜りながら、降り続ける雨を眺める。
高校生ならば体育館なり人がいない廊下なり室内で練習ができる環境はあるが、摩那にはそれがない。
小雨であれば外で走ることに大した問題はないが、長く降り続いたり大雨が降ると土のグラウンドはぐちゃぐちゃになり走れるものではない。
現状、二人してカッパを着てロードワークをするぐらいしか選択肢がない。
別にそれも悪くはないのだが、強度という点で些か不満が残る。
摩那は中学二年生から積み上げてきた体力があるから、今必要なのは競技に耐えうる肉体作りなのだ。
ロードワークだけで、体力を使いきるオールアウトまで追い込むのは至難の業だ。
鍋島が現役時代の時は近くの公園にランニングコースがあったから、そこで追い込むことができたがこの辺りにはそういった場所はない。
鍋島が毎朝走っている公園はあくまで子どもが優先であり特別なコースがあるわけはない。
早朝のような誰もいない時間ならまだしも、摩那が練習ができる学校終わりの時間帯は使えないだろう。
農道は比較的車通りが少なく走りやすい道ではあるが、それでも農家の軽トラックは通るしアスファルトが欠けていたり走ることに全力を出せる道とは言い難い。
どうしたものか。
野村に頭を下げて、雨の日だけ摩那も部活に混ぜてもらおうか。
調整方法の座学を高校でやらせてもらったとき、摩那は別に避けられているような雰囲気はなかったし、姫井とも交友はあるようだ。
いや、廊下などの狭い場所の練習は今の摩那にはまだ早い。
スタンダードな指導方法をする野村のことだから、室内練習は動きづくりがメインになるだろう。
陸上の動きづくりは基本的に体だけで行うドリルと、ラダーやミニハードルを使った動きづくりがある。
そのどちらも、摩那は上手くできない。
集団に混ざっても、流れを悪くするだけだろう。
本格的に大会シーズンとなった陸上部の邪魔をしたくはない。
だから、野村を頼る線はなしだ。
そうなると、本格的に手詰まりなのだが。
頭を悩ませていると、塾長がいつの間にか鍋島の横に立っていた。
「手が止まっているけれど、何かあったのかな?」
「......いえ、少し考え事を。仕事中にすみませんでした」
「いいよいいよ、注意したかったわけじゃないからね。困ったことがあったなら話だけでも聞くけども? 難しい採点でもあったかな?」
「採点は別に問題はありませんよ。ここは別に、掛け算の順番が逆だとか止め跳ねができてない漢字はダメだとか細かいルールはないですよね」
「勉強の本質ではないからね、そんなもの。答えさえあってればいいよ。そういう細かい矯正は、生徒にとっては面白くないだろう?」
「勉強に熱心な子が来ている塾ではないですからね」
「そういう子どもに厳しく教えても逆効果だからね。楽しく勉強をする、あくまでそれがモットーだから」
手に持っていたマグカップを飲みながら、塾長は立花の席に座った。
立花は今はいない。
なんでも生徒の誕生日らしく、その子の家で有志の塾生と誕生会をするらしい。
……塾生に懐かれすぎているな、あの人は。
「それで、何に悩んでいるのかな? 家庭教師の子かな?」
「そんなところです。これから梅雨に入るじゃないですか。自分は濡れながら走る分には問題ありませんが、女子を毎日雨の中で走らせることには流石に抵抗があります。かといって雨の日は練習しないとなると、体が鈍りすぎます。芳志高校の体育館が使えたらいいのですが、部外者の自分が利用できるわけもなく、どうしようかと」
「あぁ、そういうこと。確かに、最近ずっとジメジメしてるもんねぇ。屋外活動の人間には死活問題か。鍋島君の高校時代はどうやって対策していたんだい?」
「ずっと雨の中走ってましたよ」
「なんというか君は、陸上に関することになると割と狂人のメンタルをしているよね。実体験を押し付けないだけ良心的でもあるんだけどさ」
「そうでもしないと勝てない人間だったので。それに、この練習スタイルは現代に沿っていないことは自覚しているので押し付けませんよ」
鍋島の練習スタイルはシンプルだ。
質より量、その一言に尽きる。
現代のスポーツ科学において、または道徳的観念において求められる練習とは『より短くより効率的に』である。
教える側の人間が質より量など宣えば前時代的だと批判される時代に、鍋島は自分のスタイルを摩那に押し付けたいとは思えない。
ただ、鍋島は現代の質を求める風潮には少し懐疑的な見方をしている。
そもそもだ、量をこなせない人間の質というものはたかが知れている。
初心者というものは何が質の高い練習なのか分からないし、上級者になればその質をより多く積むことができるかの勝負になる。
短い練習で結果を出せる人間はごく一握りの天才だけであって、みな血反吐を吐くような努力をこなすしかないのだ。
それだというのに、皆が寄ってたかって練習は短い方が良いというのは何かが間違っているような気がしてならない。
それに、レースという極限の舞台で必要なメンタルは、普段の練習から自らを追い込んでいないと発揮されないものだ。
積んだ練習だけが、孤独な舞台を立つ己の支えになるのだから。
(令和の時代になって、こんなことを言えば炎上するな......)
結局は精神論にしかならないので口にはしない。
鍋島にとって救いな事と言えば、摩那も若干鍋島寄りの思考なのかやたら練習量を多めにしたがることか。
鍋島との練習以外にも、毎朝のランニングと筋トレと柔軟を継続的に行っているらしく、その強度も段々と上がっている。
摩那に渡した3kgのメディシンボールはもう軽々と振り回せるらしく、ついにこの間庭に面していた家のガラスを割ったらしい。
塾で太一が、何故か共犯にされて母親に怒られたと愚痴っていたのは記憶に新しい。
すまん太一、自分が監視役に設定したばかりに。
「鍋島君?」
「あぁ、すみません。少しボーっとしていました。仕事に戻ります」
頭を振って、思考を元に戻す。
脱線しすぎだ。
そもそも、今はアルバイトの時間であって無駄なことを考えていて良い時間ではない。
採点の作業に戻ろうとしたときに、塾長は少し待っててと鍋島に言い残して職員室から出て行った。
パタパタとスリッパが上に行く音がしたから、二階の住居部分に行ったのだろう。
この建物は一階が塾で、二階が塾長の私室となっているらしく普段はそこで生活をしている。
奥さんとは離婚していて、その時に道楽も兼ねて自宅を改造して塾にしたらしい。
詳しい話を聞いていいか分からなかったので深掘りをしていないが、たまに奥さんと電話しているところを見ると仲は悪くなさそうに見える。
下衆の勘繰りをしても仕方がないので、塾長が戻ってくるまで黙々と採点の作業に戻る。
成績が良い生徒も悪い生徒も、必死に回答欄を埋めようとした跡が見える。
問題用紙の余白には試行錯誤の過程が鉛筆によって残されており、分からなくても何かを書こうという意識が多くの生徒に身に付いている。
それを見ると、自然に頬が緩む。
たとえ点数が低かろうと、解こうとあがいたその努力は無駄にならないだろう。
小学校を卒業して中学生になれば、否が応でも受験戦争に巻き込まれることになる。
その時の力になれていたら、塾講師としてそれほどうれしいことはない。
ドタとひと際大きな音が天井から聞こえて、そのあとまたスリッパの音が近づいてきた。
開けっ放しになっていた職員室の扉から、塾長が一枚の紙を持って戻って来た。
「はい、あげるよこれ」
「なんですかこれ......市営総合体育館の案内?」
「そう。鍋島君はここが地元じゃないから知らないと思ってね。一昨年に全面改装してね、個人でも綺麗な体育館の利用ができるんだよ」
「へぇ、メインアリーナは高いですけど、サブアリーナは安いですね。一時間五百円、悪くないですね」
「社会人サークルやイベントでも結構利用されててね。うちの生徒もたまに集まってはバスケやらバレーをしてるらしいんだ」
塾長が持ってきたのは、市街地にある総合体育館の利用料金などが書いてあるチラシであった。
市と有名スポーツメーカーが協力して運営している為か、規模が大きい割には値段が安い。
手軽に行ける距離であり、金額も懐に優しい設定である。
体育館半面の値段であり、摩那と二人で利用するなら二時間予約しても一人頭ワンコインで済むのはありがたい。
室内でやろうとしている練習メニューはさして時間がかかるものではないから、気軽に利用できそうだ。
「いいんですか、もらっても?」
「ただのチラシだからね、気にしなくていいよ。塾の親御さんがスタッフだからってもらっただけだし、私は運動とは無縁の人生だからね」
そう笑って塾長はズボンに乗っている贅肉をパチンと叩いてみせた。
妙に愛嬌のある仕草で、自然に鍋島の表情は和らいだ。
「塾長も運動した方がいいと思いますよ。なんなら、コーチングしましょうか?」
「はは、君もくたびれた中年になればわかるようになる。重い体を引きずって運動することの抵抗感をね」
「常日頃から運動習慣を身に付けておけばいいのでは?」
「......やっぱり、鍋島君は狂人だなぁ」
「そんな変わったことを言ったつもりはないんですが」
「分かる日がいつか来るさ、当たり前のことを当たり前にこなすことの億劫さが」
塾長はそう言って立花の机に置いていたマグカップをもって自分の席に戻った。
会話は終わりのようで、ノートパソコンに向き合って鼻歌交じりに作業をし始めた。
鍋島は自分の手に残った一枚のチラシを見る。
あまりにも雨がひどいようならば、利用してみるのも悪くはないだろう。
チラシはファイルに入れてバッグにしまう。
とりあえず今は、仕事の方に集中しよう。
一つ深呼吸して、生徒たちの答案とにらめっこし始めた。
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