溺れる
名前の知らない鳥が奇声を上げ始める朝一番、鍋島は一人で練習場に来ていた。
最低限の水分補給だけを済ませた体を、全力で走らせる。
摩那にやらせたように、鍋島もレペティショントレーニングを行っているのだ。
自分しかいない練習場に、小気味よいリズムで刻まれる足音だけが響いている。
ただ綺麗なリズムを作り出している鍋島の顔は苦痛に歪み、歯を食いしばっている。
それを自覚してさらに眉間のしわが深くなる。
陸上競技に限らず、スポーツに必要なのは脱力だ。
不必要な力みはいたずらに体力を消耗し、体の動きを制限する。
肩が上がる、顎が上がる、体幹が曲がる、着地する足が左右にぶれる。
走ることにおいて、力むということはこれだけのロスが発生する行為だ。
理解しているのになお、歯を食いしばってしまうほど自分を制御できていない。
1000mの全力疾走を、五セット。
それが現役時代の鍋島のトレーニングだった。
(それが、この体たらく......)
ゴールラインを走り抜けて倒れそうになった体を、無理矢理動かして少し外れた茂みまで足を引きずった。
先に居座っていたであろう虫たちが、倒れ込む鍋島を避けようと飛び立っている。
「おえぇ......」
胃液が腹からせり上がってきて、口に不快な酸味が広がる。
朝食はまだ食べていなかったから、走る前に飲んだスポーツドリンクだけが茂みにこぼれ落ちた。
それを朦朧とする意識で見つめながら、必死に呼吸を整えようとする。
記録会のように流した走りではない。
内臓が裏返っているのではないかと錯覚するほどに体を酷使した、全力の走りだ。
ふくらはぎが自分の意思とは無関係に痙攣し、心臓の鼓動がうるさいほどに鼓膜をつんざいている。
(こんな無様な姿、見せられないな......)
ぼたりぼたりと顔から汗が滴り落ち、唇からは粘性の高い液体が垂れている。
現役時代に、何度も何度も体験したこの感覚。
二度と走りたくないと思うほどの苦痛を、何故また自分は味わっているのだろうか。
無意味な問いに、力なく頭を振って立ち上がる。
夏の大会に自分もエントリーしたからに他ならない。
エントリーは悩んでいたが、複数人から出ろと言われて断るだけの理由を鍋島は持ち合わせていなかった。
摩那曰く、『全力で走るコーチが見たいです』
野村曰く、『今年の国体の選考に名前挙げたいから、出てくれ』
立花曰く、『久しぶりに走るハジメのきつそうな顔見たいから出ろ』
……立花の意見は無視するとしても、教え子と恩師に言われてはエントリーを決めるしかなかった。
県選手権は前回出場した記録会とは規模が違い、出場する選手のレベルも圧倒的に高い。
記録会の時のような生半可な気持ちで走っても、得られるものは何もないだろう。
だから、一から己を鍛えなおすことにしたのだ。
そうして思い知るのは、自分が衰えているという事実だけだ。
タイムも鋭さも、過去の自分とは比べるまでもなく劣化している。
毎日サボらず運動は続けてきたが、やはり競技用の体というのは別物のようだ。
一か月という短い期間、どこまで過去の自分を呼び戻せることができるだろうか。
乳酸の溜まった体を引きずって、ゆっくりと強張る体をほぐしながら歩く。
水道で口をすすぎ、吐瀉物の処理をしてからクールダウンを始める。
(今日は家庭教師の日か......昨日強度の高い練習をしたから、今日は軽めの練習で、明後日にインターバルかな)
自分の体に異常がないことを確認しながらジョグをこなした後、柔軟をしながら今日一日の日程を考える。
自分の練習、家庭教師、大学、アルバイトと考えることは多く、忙しい日々になる。
前までの自分なら、それを煩わしいと考えただろうが、今はその忙しさを充実と呼ぶことをなんとなく理解し始めた。
段々と登ってゆく朝日を細目で見つめながら、鍋島は深呼吸をした。
澄んだ空気が胸いっぱいに広がって、練習の余熱が抜けていくのを感じる。
練習を楽しいと思ったことはないし好きだと思ったこともないが、この瞬間の心地よい疲労感だけは嫌いではなかった。
(こういうのが、摩那さんは好きなんだろうなぁ)
笑顔で地面に這いつくばっていた少女の顔が思い浮かぶ。
鍋島にはまだ、摩那の気持ちは分からない。
今も摩那と同じだけの苦痛を体感したが、笑うことは自分にはできなかった。
(別に、それでいいんだけど)
楽しいという感情が分からなくても、それでいいのだと鍋島は既に割り切っている。
記録会の日、摩那に質問されたあの日から、自分にとって走ることに意味を求める必要はないと。
大会に出るから、体を研ぎ澄ますだけ。
レースで走るから、勝つために努力をするだけ。
それだけでいい。
草木を揺らす涼風が、火照った体を冷まして心地が良かった。
***
「はぁ......体育で怪我をしたから今日は軽い練習にしたいと......あれだけ怪我だけは気をつけてくださいと言ったのに......」
「うぅ、しょ、しょうがないじゃないですか! ただでさえ成績悪いんですよ! 手を抜くなんてできませんよ!」
「それで自打球が太ももに当たって打撲と......摩那さんのセンスでよくバットにボールが当たりましたね?」
「今年一番の奇跡ですよ! 人生で初めてボールがバットに当たりました!」
「その奇跡で怪我されたらたまったもんじゃないんですが......歩いて帰ってくるのに問題はありませんでしたか?」
「背中を押して歩いてくれる友達がいるので大丈夫でした!」
「……その友達には、ちゃんと感謝しましょうね」
上條家に足を運び、太一とゲームをしながら摩那の帰宅を待っていると、摩那は足をひょこひょこと引きずりながら帰ってきた。
その姿を見たとき、控えめに言っても喉から心臓が飛び出るほど叫びたい衝動にかられた。
練習によって怪我をさせたとなった場合どうすればいいか分からなかったからだ。
話を聞けばしょうもない理由すぎて、体から力が抜けてソファにへたり込む。
自打球も骨折に至るような怪我ではなく、内出血程度で済んだようだ。
保健室の先生にも明日からは問題ないと診察をもらったらしく、今日は激しい運動は念のために辞めたいということだった。
足を引きずっていたのも痛みが激しいからではなく、安静にしていた方がいいと思った摩那が左足を庇うように歩いてたらしい。
そういう状態ならば、今日は座学にでもしようかと思ったが、急すぎて特に教えることが思いつかない。
摩那は一人でもちゃんとトレーニング教本を読んでいるので知識は段々と身に付いている。
フォームについても実践ができる練習場で教えた方がいいし、メディシンボールを使った筋トレメニューも怪我のことを考えるとしない方がいいだろう。
「いっそのこと、今日は完全休養にします?」
「でも、予定だと明日がその日ですよね。折角コーチの時間が取れる日は、何か練習がしたいです」
「そう言われてもなぁ......」
ガリガリと頭をかいて、ため息をつく。
摩那も自責の念があるからか、いつものような明るさは鳴りを潜めしゅんとしている。
反省はしているようだし、事故のようなものを強く攻めるつもりはない。
どうしたものか。
自分は怪我とは無縁の選手であったから、走ること以外の練習メニューはあまり詳しくはない。
強度の高い練習をして、体が休まる程度に軽いジョギングをして、また強度の高い練習をする。
一年間そうやって過ごしてきたものだから、こういった中途半端な状態を経験した事がない。
うーんと唸りながら頭を捻ると、ゲームで遊んでいる太一が使っているキャラクターが目に入る。
攻めて攻めて攻めまくる、速い展開で戦うイギリスの女性軍人というキャラクターだ。
衣装を購入しているのか、デフォルトの見た目ではなく水着を着ている。
水着で戦場にいるのは若干シュールだが、出来がいいのでゲーマーの受けはいいらしい。
それを見て、一つの発想が閃いた。
「じゃあ今日は、水泳にでもしましょうか」
「え?」
「少し遠いですが、室内温水プールがあったはずです。そこで水泳をしましょう。クロストレーニングってやつです」
クロストレーニングとは簡単に言えば、専門種目以外の運動をすることである。
陸上競技で言えば、水泳やロードバイク、ヨガなどがよく挙げられるだろうか。
違う種目を行うことで普段使っていない筋肉に刺激が入り、体のバランスを良くする効果がある。
摩那は日々の柔軟で体が柔らかいのでヨガはあまり効果がないだろうし、ロードバイクは交通事故や転倒が怖い。
その点水泳は関節や筋肉の負担が軽い有酸素運動として優秀だ。
泳ぐのに足が痛いようならば水中ウォーキングでもいい。
負担の少ない有酸素運動は疲労回復効果も見込めるし、前日にハードなトレーニングを行った日には丁度いいだろう。
うん、悪くない。
鍋島は頷きながら自分の発想に満足していたが、摩那はまだ深刻そうな顔をしていた。
何か、問題点でもあったのだろうか?
そう思っていると、摩那が口を開いた。
「でもコーチ、私見せる用の水着持ってないですよ?」
「スクール水着でいいんですよ。何普通にプール満喫しようとしてるんですか」
「えぇー、そんなに私のスク水姿が見たいんですかぁー?」
「今日はお休みにしましょうか。えぇ、そうしましょう。私は帰りますね」
「あぁごめんなさい! ちょっとだけ調子に乗った私が悪いので、本気で帰ろうとしないでください! レジャープールにスク水で行くのが恥ずかしかっただけなんですって!」
バッグを手にしてソファから立った鍋島を、摩那が必死に押しとどめる。
メンタルが回復したのはいいことだが、ダル絡みされるのは面倒だった。
そもそも、普段から水着より露出が激しい姿でいるのに恥ずかしがる感覚がよく分からなかった。
腹がむき出しな分、ユニフォームの方が恥ずかしいと思うのだが。
それにレジャープールではあるが、スライダーや流れるプールで遊ぶわけではなく25mプールで泳ぐだけなのだ。
プールという単語だけで、少し浮かれているのかもしれないな。
はしゃぐ摩那とは対照的に、鍋島の心は冷えていく。
摩那の練習としてみれば水泳は最適な発想かもしれないが、一つだけ致命的な問題が残っていたからだ。
「じゃあ私、準備してくるので少し待っててくださいね!」
「はい、急がなくていいのでごゆっくりどうぞ」
忠告は届かなかったのか、足音を盛大に立てて摩那は自分の部屋に駆けていった。
……足が痛いんじゃなかったのか。
そう思いながらその姿を見送って、黙々とゲームをしていた太一に声を掛ける。
「摩那さんって、泳げると思う?」
「お姉に期待できると思う?」
「だよなぁ......」
それから摩那が来るまでは、ぼんやりと太一のゲーム画面を眺めていた。
***
車を走らせて、市街地の端にあるプールへとやってきた。
ごみ焼却場と併設されており、その熱を温水プールに利用しているという。
夏場は家族連れや学生で込み合うこの施設も、今の時期は閑散としており客は少ない。
鍋島は水着を持っていなかったので、入場口手前にある水着売り場で適当に地味な海パンとラッシュガードを買っていた。
入場前のシャワーを浴びながら、そういえば消毒槽や洗眼用水道って見ないな、なんてどこか気の抜けたことを考えていた。
この後のことを考えると、気が重くなるからだ。
施設内とは言え、濡れた体からはドンドンと体温が抜けていく。
対策用に買っていたラッシュガードを羽織り、ガラ空きのベンチに荷物を置いた。
暇な時間帯はウォータースライダーは稼働していないようで、プールにしては静かで活気がなかった。
虚空を見つめる若い男のライフセーバーの瞳が死んでいたので、ここのアルバイトは相当に暇らしい。
その瞳が急に色めき立ち、誰もいない流れるプールから入口に注がれる。
鍋島もその視線を追いかけてみれば、スクール水着の上からタオルを羽織った摩那が歩いてきた。
真面目な練習と告げていたからか、髪も真っ赤な水泳帽の中にまとめていて後頭部が少し膨らんでいる。
普段から見慣れた引き締まったその肢体に、いつもと違う様子があって鍋島は口を引きつらせた。
「うわぁ、痛々しい......」
「私だってなりたくてなったわけじゃないんですよ? だからその目をやめてくれませんか? 乙女の水着姿を見る目ではないですよ」
左太ももの内側が赤黒く変色していて、摩那の白い肌には似つかわしくなく浮いている。
ちょうどソフトボールの球の大きさぐらいで、自打球が当たった場所が見てすぐに分かった。
見た目の重症さとは裏腹に、摩那はあまり痛がっていない。
軽口を叩く余裕すら見せるので、自分も意識を切り替えて普通に接することにする。
「乙女がどこにいるんですか?」
「私以外にコーチの目の前に誰かいますか?」
「乙女という言葉を一度辞書で引いてみたらいかがですか」
「年の若い女のこと、つまり私のことですね!」
「……摩那さんのそういう神経の図太さは、すごいと思いますよ」
「へへーん、私の強みですからね!」
「嫌味も通じないあたり、割と無敵のメンタルですよね」
摩那はニコリと笑いながらベンチにタオルを置いて、準備体操をし始めた。
いつも通りのラジオ体操だ。
普段の練習であれば鍋島も一緒に行っているが、今はせずただただ座ってその様子を眺めている。
それに気がついた摩那が、不満の声をあげた。
「コーチは泳がないんですか? そんな海パンにパーカーなんて遊び慣れた大学生みたいな格好しちゃって。私はこんな洒落っ気もない水着なのに」
「まぁ、私は付き添いなので。あと、大学生に対する偏見がひどいですね」
偏見だ、とは言ったものの、鍋島にも遊び呆けている大学生を何人か知っているため強く否定はできなかった。
鍋島の姿をじろじろとまんべんなく見ていた摩那が、何かを閃いたようにニヤリと唇を歪ませた。
嫌な笑い方だ。
「はは~ん、さては、泳げないんですねコーチ?」
「......チッ」
「えっ、図星なんですか!? コーチにもできないことってあるんですね!」
「人間なんだからそりゃありますよ......」
鍋島は大抵のスポーツは人並み以上にできる。
それは体の使い方を熟知しているからであるし、コツを掴むのが得意だからだ。
それでもできないスポーツというものがある。
水泳は、その筆頭である。
別にかなづちというわけではない。
単純に、怖いのだ。
「勘違いされるのは癪なので言っておきますが、泳げないわけではないですよ。学校の体育でも、クラスで上から数えた方が速い程度には泳げましたから」
「じゃあなんで泳がないんですか? 学校のプールが大丈夫ならここもいいじゃないですか。室内な分清潔ですし、温水で泳ぎやすいじゃないですか」
「……怖いんですよ」
「えっ?」
「水中にいるのが、怖いんです。だから、必要でないならば泳ぎたくはありません」
出発前に思い浮かべていた致命的な問題とは、このことである。
鍋島は水中が嫌いだ。
水中というよりも、呼吸ができない状態がトラウマなのである。
きっかけとしてはしょうもないことだった。
近くの川に立花に連れまわされる形で遊びに行って、川底の石に足を滑らせて溺れたのだ。
運よく助かったからいいものの、鍋島はそこで初めて明確に死というものを実感した。
それ以来、命に関わるようなイベントは力の限りを尽くして避けてきた。
海? 海流にさらわれる可能性が高く、海水生物には毒性を持った生き物がいる危険な場所だ。
山? 天候の移り変わりが激しく滑落の恐れがあり、野生動物は人が太刀打ちできない力を持っているので危険な場所だ。
急な事態に対応できる知識と機転がない鍋島にとって、そういった危険な場所は本能が忌避するものになっている。
思い返してみれば、川の事故以来立花もそういった場所に鍋島を強く誘うことはなくなった。
彼女なりに気を遣っていたのかもしれない。
立花に振り回されていなければ、そもそも死にかけることもなかったのだが。
「へぇー、ふーん、ほーん」
「そのにやけ面やめてもらっていいですか。腹が立つ」
「いやぁ、コーチの弱点って珍しいじゃないですか。勉強ができて、運動ができて、料理もできて。嫌味なほどハイスペック人間だなぁって思ってったんですけど、一気に親近感を覚えましたよ」
「あぁもう、今は私のことはどうでもいいですから泳いできてください」
「はーい」
絡みついてくる摩那を無理やり25mプールに沈め、鍋島はプールサイドに座り込んだ。
流石に小中高と毎年授業で泳いでるだけあって、摩那は不格好ながらも25m程度なら簡単に泳げるようだ。
当初の想定では溺れることも覚悟していたし、打撲の痛みで足が動かないことも覚悟していたがその心配はないらしい。
行きはクロール、帰りは平泳ぎと伸び伸びと体を動かしている。
バタバタとあまり見ていていて気持ちのいいフォームではないことは、もはやご愛敬というやつだろう。
この分なら、ずっと見張っている必要もなさそうだ。
と、最初はそう思っていたのだが、摩那はここでもいつものチャレンジ精神を無駄に発揮したらしい。
クロールや平泳ぎは問題なかったのに、背泳ぎをしようとして鼻に水が入ったのか無様に水しぶきを立てて沈んでいった。
別に溺れている様子ではなかったが、鍋島はため息をつきながらプールに入った。
温水とはいえ、長時間動かずに浸かっていたら冷えそうな温度で身震いがした。
顔を水につけるのは怖いので、ゆっくりと水をかき分け摩那の所に歩いて行く。
ようやく浮かんできた摩那が咽ているところを、軽く頭を叩いた。
「真面目にやってもらっていいですか?」
「真面目にやった結果の失敗ですよ?」
「ライフセーバーがいる場所で溺れかけるのは本当に心臓に悪いのでやめてくださいよ。ずっと凝視されてましたよ」
「心配性だなぁコーチは。ちょっと水を飲んじゃっただけですって」
「摩那さんの運動音痴具合だと、本当に死ぬ可能性が見えるんですよ」
「でも、義務教育は生き抜いてきましたよ?」
「溺れたことは?」
「たったの四回ぐらいですね」
「今日は水泳禁止です。水中ウォーキングだけにしましょうか。平日は逆走が解禁されているらしいので、流れるプールに逆らいながら歩きましょう」
「えぇー、折角泳ぐ格好で来たのに......」
「また今度にしてください」
「また連れてきてくれるんですか?」
「......」
「え、無視ですか?」
摩那を連れて流れるプールに移動する。
本当は見てるだけのつもりであったが、横で見ていないと何をやらかすか分からないので鍋島もプールに入る。
肌が拒否感で粟立つが、我慢できない範囲ではない。
深呼吸をして、首筋に手を当て心を落ち着かせる。
息を吐いたタイミングで、顔にパシャリと水をかけられる。
摩那が、楽しそうに両手で水鉄砲を作っていた。
細い両手が動くたびに、的確に顔に水が飛んでくる。
運動音痴のくせに、変な技術はあるらしい。
飛んでくる水を手で払うたびに、摩那が笑い声をあげる。
「折角なんだから楽しみましょうよコーチ! 溺れても私がいるので大丈夫ですよ!」
「摩那さんがいても何の支えにもならないんですが......」
「こう見えてもパワーはあるんですよ? 溺れてるコーチぐらい引きずり出せますって!」
「二人して溺れる未来が見えるなぁ......」
「ふふ、それなら溺れ慣れてる私が助かる方法を教えてあげますよ。一回冷静になるんですよ。酸素には限りがありますからね。どっちが水面かしっかり確認して、ゆっくりと動くんです。そうすると、なんとかなりますよ!」
「そもそも溺れたくないんですが」
鍋島はゆっくりと水流に逆らわず、一歩一歩滑らないように踏みしめながら牛歩のように歩く。
摩那は潜ったり跳ねたり泳いだり、落ち着きのない子供のように動き回りながら鍋島のそばにいた。
……まぁ、運動目的で来たのだから、溺れない程度に動いてくれる分には文句はない。
水泳帽を外していた摩那の髪の毛が、水を吸って照明を反射して輝いている。
勢いよくクロールしたかと思えば、ピタリと立ち止まってこちらに向かって笑顔で手を振っている。
「コーチも泳いでみてくださいよ!」
「嫌です」
「えぇー、折角のプールなんですよ? 私はまだ授業で泳ぐ機会がありますけど、大学生は泳ぐ機会なんてなくないですか?」
「泳がなくても何も問題ないでしょう。死にたくありません」
「......コーチって、割とネガティブ人間ですよね。こんな足がつく程度のプールで、死ぬほどやわな人間じゃないですよコーチは」
「分かりませんよ? もし急に足がつって立てなくなったら死にますよ? 楽しくなって周りが見えずにプールの縁に頭をぶつける可能性だってありますね。死のうと思えば簡単に死ぬんですよ、水っていうものは」
「何のためにライフセーバーさんがいると思ってるんですか? 溺れていたら助けてくれると思うんですけど」
「見知らぬ他人に全幅の信頼を置くのは狂気の沙汰ですよ。どうしても泳げと言うなら私はビート板を借りてきます」
「なんていうか、見たことのないコーチの顔が見れて面白いですね。これ、無理矢理水中に押し倒したらどうなりますか?」
「今日で家庭教師の契約は終わりです。今までお疲れさまでした」
「筋金入りだなぁ......」
くだらない話をしながら、ほぼ二人の貸し切りとなっている流れるプールを歩く。
途中何回か、摩那が引っ張ってきたり押してきたがその度に思いっきり顔に水をぶちまけてやった。
摩那が疲れるまでそんなことが繰り返され、最後の方には鍋島もぐったりとしていた。
普段慣れない運動だからか、走っているだけでは感じることのない疲労感が体に満ちていた。
一時間もする頃には、体力が根こそぎもっていかれたような感覚であった。
ベンチでぐったりと座る鍋島の横には、元気そうに摩那がどこからか買ってきたアイスを食べていた。
「今日は楽しかったですね! たまにはこういう練習もいいかもしれないですね!」
「えぇ、クロストレーニングは定期的に行うといいですよ。ですので、今度は一人で行ってきてくださいね」
「えー、コーチも行きましょうよ。水に慣れる機会ですよ?」
「いやもう、いいです私は。ドッと疲れた......」
「私的には、ゲーム以外でコーチに勝てる分野が見つかってすごい嬉しいですけどね!」
「それは良かったですね......」
はしゃぐ摩那と、ベンチに座り込んでいる自分。
朝には無様な姿は見せられないと思っていたが、結局違う形で恥ずかしい姿を見られることになってしまった。
恥辱と練習価値を天秤に載せ、逡巡する。
……自分が少し恥をかくくらいで、摩那のやる気が上がるのならそれでいいか。
ガタンと天秤は練習価値の方に傾いた。
自分の練習にもなるわけだし、本格的にプールトレーニングを導入してもいいのかもしれない。
そう言い訳しても、あまり乗り気にはなれなかったが。
「また来ましょうね!」
「......」
「え、無視ですか!?」
まぁ、良い収穫があったと前向きに捉えよう。
水泳特有の気だるい疲労感を高校ぶりに味わいながら、鍋島は思考を投げ捨てた。
今日は、ぐっすり眠れそうな気がした。
「コーチ! おーい! 鍋島コーチ!?」
評価、感想、誤字指摘等していただけると嬉しいです。
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