閑話 陽だまりの中で
五月も初週を過ぎ、段々と春の終わりの気配を感じさせていた。
山の天辺を覆っていた雪も完全に解け、整備の行き届いていない道には雑草が生き生きと伸び始めていた。
用務員の手が足りていないのか自然豊かと言いたいのか、一号棟と二号棟を繋ぐ中庭はろくに手入れがされず名前も知らない花が元気に陽の光を浴びている。
日当たりのいい中庭にはベンチがいくつか設置されており、暇な大学生がたまに読書をしたり歓談している様子を見ることができるのだが、今は男が一人座っているだけだった。
男はこちらに気がつくと、心底嫌そうな顔をして話しかけてきた。
おいおいそんなひどい顔、アタシじゃなかったら泣いちゃうぜ。
「よっ、おまた」
「そこまで待っていないので大丈夫です。それで、今回はどういったご用件ですか。立花さん」
「用がなきゃ会っちゃいけないのかよ。そんなんだからお前の交友関係は狭いんだぜ?」
「困ってないから、別に問題ないですよ」
「困った時にどうするんだって話だ。ハジメはクソ真面目だから、人を頼ることは苦手だろ? 普段から人の力を借りる癖をつけた方がいいぜ」
「はぁ......そのセリフを立花さん以外から聞いたのなら、参考にしようって気分になるんですけどね。今度のレポートを手伝えって言いたいんでしょ?」
「そうそう、アタシが頼り方のお手本を見せてやるってことよ」
「立花さんのそれは、頼ってるわけではなくもたれかかっているだけですよ」
「もたれかかっても許される関係性って素晴らしいと思わないか?」
「依存って言うんじゃないですか、それって」
「つまらんことを言うな、モテんぞ」
辛気くさいことを言う男はベンチにもたれかかって、深いため息をついている。
ため息をつく度に幸せが逃げるというが、もしそれが本当なら目の前の男にはもう欠片も残ってはいなそうだ。
そこそこ整った顔はいつも眉間にしわが寄っており、そのせいであまり近寄りがたい雰囲気を醸し出している。
面白くない男がいつも不機嫌そうにしているのだ、そりゃ友達は少ない。
その男──鍋島肇の横にどさりと座り、無言で右手を突き出す。
その手を見て、またハジメはため息をついて自分の膝に置いていたバッグに手を伸ばした。
バッグから取り出された手には小さめの風呂敷が握られており、それをアタシの方に差し出した。
風呂敷からは香ばしい揚げ物の匂いが漂っており、食欲をくすぐってくる。
「朝イチで頼んだのにちゃんと作ってくれたのか。デカい唐揚げ、いいねぇ」
「普通の女子大生は揚げ物なんてリクエストしないと思うんですけどね」
「そりゃ偏見だ。脂っこいもんが好きな女子だっていっぱいいる。アタシだってそうさ」
「なんだっていいですけど、せめて前日に言ってくれませんか? 当日にいきなり弁当の催促をされても困ります」
「はは、母親みたいなこと言ってらぁ」
「子どもみたいなことを言ってる自覚をもってください」
「それが許されるだけの関係性だってことだよ」
「ただの甘えでは?」
「お、卵焼き甘い味付けじゃん。いいね、いい嫁になれるよ」
「相変わらず人の話を聞かないで......」
ぶつくさと小言を続けているハジメを無視し、弁当箱をつつく。
冷めても美味しいように濃いめの味付けがされた唐揚げや、砂糖で甘めに味付けされた卵焼きはアタシ好みで箸が進む。
レシピにアレンジを加えるなど冒険じみたことをしないハジメの料理はいつも同じ味で安心感がある。
アタシもアタシの母親も料理はズボラであったから、同じメニューでも日によって味が変わるなんてざらだ。
だから、もしアタシが家庭の味を思い出せと言われたらハジメの料理が頭をよぎるのだろう。
うん、美味い。
料理屋でもやればいいのにと思ったが、愛想が悪いから繫盛はしなさそうだ。
それに、もし繁盛したらアタシがハジメをこき使えないからやっぱりなしだ。
「いつもの味だな」
「それ褒めてます?」
「ハジメは味が変わらない定食屋のありがたさを知らないだろ。久しぶりに行った飯屋が味変わってると悲しい気分になるんだよなぁ」
「はぁ、私はそんなに外食しないのでよく分かりませんね。メニュー通りに作るだけなんだから、そんな味なんてぽんぽん変わらないでしょう」
「バカだな、オリジナリティを出したがるのが料理人って生き物なんだよ」
「立花さんはどのポジションから料理人を語ってるんですか」
「世間一般からの評価だろ?」
「自分の意見を世間の意見っていう人は嫌われますよ」
「相変わらずこまけぇなぁ。その場のフィーリングで会話できねぇのかぁ?」
「誰かさんのせいで、不真面目な生き方は向いてないと気がつかされたので」
くだらないお喋りをしながら、弁当を食べ終える。
美味かった。
贅沢を言うなら、味噌汁もあると嬉しい。
冷えた米に温かい味噌汁は相性が抜群にいいからな。
今度、スープジャーでも買って渡そうかな。
満腹になると、穏やかな陽気も相まって眠くなってくる。
午後は全部サボって、昼寝でもしていようか。
歩いていける範囲に誰もこない寂れた公園があって、昼寝にうってつけのベンチがあるのだ。
「はー、寝るか」
「ダメですよ、三限目あるじゃないですか」
「知らないのかハジメ。一コマ五回まで休めるんだぞ? 今日休んだって別に問題はないだろ」
「もう二回休んでるでしょうが。それに、本当に風邪を引いた時に休めなくなりますよ」
「そしたら誰かに代返してもらうさ」
「この不良大学生が......」
まぁ、本気で代返なんてするつもりはないが。
バレたら一発で単位を落とす可能性のあることをするつもりはない。
アタシは不真面目ではあるが、越えてはいけない一線を越えるほどの不良ではない。
本当にダメなラインというものは、理解しているつもりだ。
だから、今日サボるのは別に問題のないラインだ。
明日の自分が頑張ればいい。
今日のアタシは眠いのだ。
「ふわぁ、本当に眠くなってきたな。三限目前に起こしてくれよ、あ、膝貸してくれ」
「嫌ですよ。なんで大学の中庭でそんなことしなきゃいけないんですか。そもそも、本当に用件はないんですか?」
「あー、あったっちゃあったけど別に大したことじゃないからな。それはどうでもいいのさ」
「それだと、ただ単に私が弁当作らされただけなんですけど」
「いつものことだろ」
「お前......」
「ひひひ、睨むな睨むなハジメちゃんよぉ」
本当は聞きたいことがあって口実と実益を兼ねて弁当を作らせたのだが、ハジメの様子を見てはぐらかすことにする。
記録会のことを聞きたかったのだ。
焚きつけた手前、もしレースに出ることがハジメにとって良い結末ではなかったら励ましてやろうと思ったのだ。
その心配はなさそうなので、口には出さないが。
自分のあまり中身のないバッグを枕にして、ハジメの膝に足を乗せてベンチに横になる。
小言が聞こえるが、無視だ無視。
(昔はもっと可愛かったんだがなぁ......いや、大して変わらんか)
寝たフリをして閉じていたまぶたを少しだけ開けてハジメの様子を見る。
呆れたような顔をしてまたため息をついている。
見慣れたその顔に、少しだけ入っていた肩の力が抜ける。
ハジメは高校で陸上をやめてから、ピクリとも感情が動かない人間になっていた。
現役時代と変わらない運動量はこなすし、楽しくもなさそうな食事メニューは続けているのに、なにか目的がなくなった人間のように無気力な顔で日々を過ごしていた。
アタシが飯に連れて行っても美味しくないんだがつまらない顔をしているし、勝手にバイト先を決めてもろくに反論せずにただ受け入れるだけの人間になっていた。
陸上に未練があることは、傍目から見ても一発で分かった。
問題は、ハジメ本人がそれを理解していないことだった。
アタシがそれを口にしてもこいつは理解しないから、荒療治が必要だと思っていた矢先だ。
陸上の家庭教師の話が転がり込んできたのは。
「寝たフリして誤魔化そうとしてませんか?」
「してないしてない」
「起きてるじゃないですか、足どけてくださいよ重いんですから」
「あ?」
「痛い痛い痛い! 止めろリッカ!」
足に力を込めてゆっくりとハジメの腹を押しながら、段々とまどろみ始める。
こんなしょうもないやりとりも、去年はできなかったのだ。
つまらん敬語もさん付けも陸上を辞めてから顕著になっていたし、たまにこうやって昔のような口調が出るのは肇がリラックスしている証拠だろう。
(見知らぬ嬢ちゃんに感謝かな~)
手のかかる弟のような存在が元気になったことに、一安心する。
いじれる相手はやはり、殴りかかってくるくらいの元気がないと張り合いがないから。
温かい日差しと丁度いい程度の雑音が、アタシの意識を段々と沈めていった。
***
「本当に寝たよこいつ......」
寝息を立て始めた立花を見つめながら、鍋島は思わず何度目か分からないため息をついた。
放っておいて移動しようと思ったが、自身の足には立花の足が乗せられており起こさずに動くのは難しい。
……別に起こしてもよくないか?
早朝から家に押しかけてきて弁当を要求され、今はフットレスト扱いだ。
なんで自分が気を遣わなければいけないんだ?
そう思って動こうとしたが、だらしのないほど緩んだ寝顔を見て浮かそうとした腰を下ろした。
……まぁ、いつものことか。
立花は理不尽でわがままではあるが、冷酷なわけではない。
きっと今日も、この行為には何か意味があったのだろう、多分。
「たまには俺も、サボってみようかなぁ......」
陽気もいいし、今日は塾も家庭教師もなにもない気を張らなくていい日なのだ。
そういう日があっても、いいのかもしれない。
鍋島にしては珍しく、何もかもの思考を放棄してまぶたを閉じた。
肌を撫でるそよ風が、とても心地よかった。
──結局立花にベンチから蹴落とされ、仕返しに叩き起こすことになるのだが。
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