深度
窓からは運動部の掛け声が元気に響き渡り、廊下からは吹奏楽部の楽器の音がかすかに聞こえてくる。
四十程度の机と椅子の組み合わせと、一番後ろに置かれたロッカー。
学校の教室というものは、そこが自分の母校というわけでもないのに不思議とノスタルジーな気持ちにさせる。
昔は壇上を見つめる側であったのだが。
自分を見つめる数十の瞳の視線を感じながら、鍋島は現実逃避していた。
「私コーチの正面ね!」
「席ぐらい、どこでもいいだろう......あ、僕は最前席ね」
「今日は、よろしくお願いします鍋島先生!」
「「お願いします!!」」
「......はい、こちらこそ、よろしくお願いします」
何故か知らないが、いつの間にか話が広まって学校に残っていた陸上部にも講義をすることになった。
姫井や摩那はもとより、生徒一人一人の高い熱量を伴った瞳に、気後れしそうになる。
当たり前か。
姫井はインターハイレベルなのだから今日はただの座学に過ぎないが、他の選手はそうではないだろう。
県大会に出場することがいっぱいいっぱいの人もいるだろう。
三年生が県大会で負けるということは、部活の引退を意味する。
人によっては、それが人生最後のレースになるだろう。
懸ける思いの重さが、生徒一人一人にあるのだ。
生半可なことは教えられないな。
首筋をトントンと叩きながら、教えることを頭の中で段取りをつけていく。
二週間と目前に迫った県大会の調整方法ということだから、基本的な内容と実体験を踏まえて教えていけばいいか。
「それでは、大会の調整方法の一般論でも話しましょうか。練習とは違い、大会に向けて己のピークを持っていくことを調整、またはピーキングと言います。これは陸上に限らず全部のスポーツに当てはまることですね」
「はいはい!」
「なんでしょう、摩那さん」
「よくピークを持っていくってスポーツ漫画でも見ますけど、実際はどういう状態なんですか? 経験をした事がないのでイメージがつきにくいんですよね」
「まぁ、摩那さんはそうでしょうね。そうですね、ここで言うピークとは、単純に肉体が完全にリフレッシュしている状態とでもしましょうか。常日頃から走っている皆さんには、一日二日休んだだけでは抜けきらないほどの疲労が蓄積しています。その疲労を限りなくゼロにし、大会当日に最高のコンディションになっている状態をピークとします」
「へー」
教室の反応は二種類だ。
摩那のように走ることしか知らない一年生たちは新鮮な反応をしているし、逆に大会慣れしているであろう姫井たちは聞き慣れていると言った顔をしている。
調べればいくらでも出てくることであるし、熱意のある生徒はある程度調べて実践しているのであろう。
反応を見ていると、坊主頭の少年が勢いよく挙手して発言をした。
「調整は自分流でしているんですけど、合っているかどうかの確信が持てなくて......鍋島さんは、具体的にどのような調整をしていたんですか?」
「私ですか? 特別な調整はしていませんでしたよ。そうですね、意識していたのは三つぐらいですね。一つずつ解説していきましょうか」
「お願いします!」
鍋島はチョークを持って黒板に文字を書き始める。
チョーク特有の感触と音は、塾でも慣れているはずなのに未だに違和感を覚える。
字は男にしては綺麗な方であると思っているが、大きく見やすい文字を書くというのは意外に技術がいるのだ。
コツコツとチョークの音とそれを見守る生徒の呼吸音だけが教室に響いていた。
「一つ目、練習量を減らすこと。当たり前の話ですが、いつも通りの練習をしていたら疲労というのは抜けません。普段の練習と比べて六割ほど量を減らしましょう」
「量だけでいいのかい?」
「はい。できれば、練習強度は保った方がいいですね。今まで週に三回きつい練習をしていたとしたら、それを一回に減らしてペースは変えないような調整が望ましいです。二週間も強度を下げるとなると、試合で走るペース感覚がなくなりますからね。ここで注意してほしいのが、質はあくまで下げないだけで、上げようとしないでください。量を減らしている意味がなくなります」
「質は、あくまでレースペースの設定か?」
「そこは人それぞれですね。基本的には普段の練習の設定タイムでいいと思いますよ。距離に関しては、私は1000mをよく刺激として入れていましたが、600mでもいいですし400mでもいいです。自分に合った距離を探してみてください」
姫井の合いの手に反応しつつ、黒板に文字を書き足す。
あくまで全体量を減らすだけであって、質を下げることはしない。
陸上界隈では大会前に本番と同じ程度のペースで走ることを刺激入れと言ったりするが、この刺激入れの際に張り切って疲れてしまう人が少なくはない。
疲労を抜いた体は、自分が想像している以上によく動く。
その状態に慣れていない人は、楽しくなってペースを上げて張り切ってしまうことがままある。
それでは疲労抜きをしている意味がなくなってしまう。
それに、量を減らしていると焦燥感に襲われるのだ。
大会が近いのにこんなに走らなくていいのか、と。
この焦燥感を割り切れない人間は想像以上に多い。
休むという選択も重要なのだが、日本人気質と言えばいいのか、何もしないことは辛いらしい。
だから、家でリラックスできる人間はそれだけで大会本番が強かったりする。
ここにいる生徒たちは、どちらに分類されるのだろうか。
質問してきた坊主の少年を筆頭に皆真面目そうな顔つきをしているから、のんびりとするのは苦手そうだ。
……その点、摩那は精神が図太いので安心だ。
これを、安心と表現していいかは疑問が残るが。
こほんと咳ばらいをして、次の話題に移る。
「二つ目は、食事ですね。普段からバランスのいい食事を取るように意識していますが、試合の一週間前から食事メニューを大きく変えていました」
「コーチって、料理できるんだぁ……」
ぼそりと聞こえた摩那の声は無視する。
県大会がない摩那にとって今日はただの座学に過ぎないが、他の生徒はそうではない。
勝つ可能性を1%でも上げる機会なのだ。
摩那には悪いが、この時間だけは芳志高校陸上部の方を優先させてもらう。
「皆さんは、普段大会の前後で食事メニューを変えてはいますか?」
「えー、気にしたことなかったかも。いつもお母さんの料理だからなぁ」
「俺もだ。プロテインは飲むようにしているけど、それぐらいだな」
各々が周りの生徒と会話をし始める。
それを聞く分に、食生活を意識している生徒はあまり多くはなさそうだ。
まぁそんなものだろうと、鍋島は口には出さずにその会話を聞いている。
部活動とはあくまで学校生活の一部でしかなく、それに人生を懸けている人間は稀だ。
食は日常を彩る重要な要素であり、それを縛りつける生活を送るのは苦行であろう。
この中でそれができていそうなのは、姫井だけだろうか。
彼女の瞳だけは、他の真剣な生徒の眼差しと比べても、ひと際ギラギラと輝いている。
どこかで見たことのある瞳だな。
記憶を掘り起こしてみてもその瞳の持ち主が思い出せず、諦めて頭を振って話の続きに戻る。
「あくまで私の話になりますが、カーボローディングという手法があります。大会の三日前から、高糖質食に切り替えて体内にグリコーゲンを溜める食事方法になります。グリコーゲンは体を動かすエネルギー源のことですね」
「......あれ、鍋島さん。それって、マラソンランナーや長距離走の調整方法じゃないのか? 最大でも5000mまでしかない高校陸上にはあまり関係ない方法に思えるんだが。少なくとも、僕達には必要ない技術じゃないか?」
「確かにカーボローディングはマラソンやトライアスロンなど、一時間以上競技を行う人に向けた調整方法になります。ただ、あなたたちも大会当日はそれに負けず劣らずの長時間の勝負をするでしょう? 例えば、400mなんかは朝に予選、昼に準決勝、夕方に決勝と一日かけてレースを行うことになります。800mも一日に予選決勝を行う必要があるし、短距離選手は個人種目プラスリレー種目です。エネルギーはあって困ることはありません」
黒板に鍋島が食べていた糖質の食事を書きながら、質問をしてきた姫井に答える。
普段の食事と比べて、米などの炭水化物や果物のような糖を多く含む食材を多く摂取するのがカーボローディングだ。
姫井の言ったようにマラソン向けの調整方法ではあるが、大会は何かと長丁場になりがちだ。
陸上競技は一人二種目、リレーを入れたら三種目まで出ることができる。
三日間ある大会の中で、後半になるにつれてエネルギー不足に悩まされることは珍しいことではない。
決勝までコマを進められる強い選手は、その三日間で予選準決勝決勝を三セット、つまり最大九回もレースに出る可能性があるのだ。
厳しい日程の中、事前に出来ることはした方がいいに決まっている。
生徒の質問に答えながら黒板に文字を書いていくと、端から端まで文字で埋まってしまった。
外をチラリと見ると、段々と日が暮れかかっている。
座学も大事だが、休養日にあまり長々と拘束するのも良くはないかと考えて、区切りの良いここで話は終わりにしよう。
「質問がこれ以上ないようなら、時間も頃合いなので終わりにしようと思いますが、何かありますか?」
「コーチ、三つ目はいいんですか?」
「ああ、三つ目は普通の話です。イメージトレーニングをしようってことだけなんで。それぐらいなら、皆さんも普段からしているでしょう?」
「はい、私は常に先頭を走っている姿を思い浮かべてますよ」
「摩那さんの場合、順位よりもフォームのイメージトレーニングをしてほしいんですが......」
「綺麗に走っている自分の姿が想像できません!」
「それをできるようにするためのトレーニングなんですが......まぁ、今は置いておきましょう。大会が近い皆さんは、簡単にできて効率のいいピーキングと食事調整を自分でも調べてみてください。方法は十人十色ですし、カーボローディングは私の経験談で話してますからね。鵜呑みにせず、自分で考えるように」
そう締めくくり、パンと手を叩く。
張りつめていた教室の雰囲気が和らぎ、雑談の声が上がり始める。
鍋島が教えた知識に致命的な誤りはないと思っているが、こういったものは自分で試行錯誤する経験が必要だと思っている。
教わったものを自ら試し、取捨選択し己の血肉にしていく。
その作業がゆるぎない選手としての核を作り出す。
摩那にも姫井にも他の生徒にも、そういった体験を通してほしいと鍋島は考えていた。
野村も頭ごなしに考えを押し付けない指導方法は、きっと自分と同じ思想だからだろう。
段々と帰りはじめていく生徒を見送っていると、席には姫井と摩那だけが座っていた。
「お二人は帰らないんですか?」
「コーチと一緒に帰ろうかなって!」
「僕はまだ聞きたいことが聞けていないから」
「私が現役時代にしていたことは大体教えましたよ? 他に聞かれても、あまり答えられませんが」
「コーチ、さっきから私のこと無視してませんか?」
「気のせいですよ」
ぶんぶんと手を振る摩那には視線を向けず、真剣な顔をした姫井のほうを見る。
鍋島が語った調整は実際に現役時代に行ったことであり、それ以上の内容はあまり教えられる気がしない。
もっと専門的な話をしようと思えばできなくもないが、付け焼き刃の知識は姫井が求める答えではないだろう。
何が、知りたいのか。
姫井は逡巡してから、その口を開いた。
「コーチが言っていた調整方法は僕もやっている。ピーキングも知っている、カーボローディングもしている、イメトレは欠かしたことはない。一番で走る自分を想像できないなら、勝てるわけがない」
「そうですね。姫井さんは正しい競技者のメンタルをしています。一位の自分を思い描く、それができない選手は走る前から負けています」
「でも実際の僕は、本番で勝ちきれない。鍋島さんのように、インハイの決勝の舞台に立てない。ましてや県記録ですら更新できていないレベルだ。僕と鍋島さんは、何が違う......?」
絞り出したような姫井の声に、摩那の騒がしい動きが止まる。
茶化してはいけない空気を察して、席で大人しくしている。
姫井の瞳から先ほどの勝気さはどこかに消えて、迷子の子どもみたいに力がない。
その姿に一瞬言葉に詰まるが、この場を誤魔化してもいたずらに悩む時間が増えるだけだろう。
だから、慰めることもせず言葉を飾らず淡々と告げる。
何が違う?
その答えは簡単だ。
全てが違う。
「強度ですね」
「……練習のかい? 僕の練習はぬるいと?」
「全てにおいてです。私は顧問が陸上経験者ではなかったので、メニューから大会まで全て一人で調べ上げる必要がありました。吐くまで走った日もあるし、靴擦れやマメが潰れて靴下が赤く染まったこともあります。両親は共働きで遅くまで帰って来なかったので、料理も基本的に自分でしていました。走るために必要な栄養を調べ、食生活は全て陸上を中心に作り上げました。私は、私が出来る範囲において勝つための努力を積み上げてきました。姫井さんはどうでしょうか?」
「僕は......」
「例えば、イメージトレーニングをしていると言っていましたね。それは、どのレベルのイメージトレーニングですか」
「え?」
「理想のフォームでしょうか? レースの展開でしょうか? 大会当日に走っている自分の姿でしょうか? そんな誰でもできる当たり前のことで、満足はしていないでしょうか?」
「コーチ、逆にそれ以上何を考えればいいんですか。コーチが挙げたものが、私には全てのように感じるんですけど」
「では摩那さん。理想のフォーム──はあなたは想像できないので、理想のレース展開にしましょうか。そのイメージをして、私に口頭で説明してください」
「え、私の? えぇーと、うーんと......」
机に顔を落として俯いた姫井を気遣ってか、摩那が口を挟む。
急に質問を振られた摩那は、あたふたとしながらも考えを声に出しながらまとめ上げていく。
「私は駆け引きとかできないので、二周目からロングスパートをかける展開が理想じゃないですか? 最高の状況はこないだみたいに余力を残したまま先頭からスパートをかけることですけど。あと、コーチの試合を見て思ったことは最後尾からだとどんなに頑張っても一位まで届かない展開になりそうなので、一周目も常に先頭を狙える位置にはいたいですね」
「ほぉ、レースを経験したからか、実感のこもったいい考えですね」
「えっへん、私だって毎日イメトレしてるんですよ!」
「では、タイムは?」
「へ?」
「200mのラップタイムは? 一周目の通過タイムは? レースメンバーの自己ベストの想定は?」
「えぇっと、200mは35秒で、一周目は70秒で──」
「それは練習で想定しているラップタイムを言っているだけですよね? 本番はイーブンペースで走れるとは限りませんよ?」
摩那のインターバルトレーニングは200mをメインに、35秒で走るようにタイム設定をして練習を積んできた。
彼女が口にしたタイムは、ただ単にそれをなぞっているだけであって本当にレースをイメージできているかは怪しいものに感じる。
イメージの作り込みが甘いのだ。
レースは全て屋外で行われ、常に対戦相手が存在する。
天候は? 風は? 湿度は? 強力な相手の有無は? 自身のコンディションは?
考えることは、無数にある。
「例えば、摩那さんと同じタイプばかりいるようなレース展開は想像しましたか? 全員が一周目を温存し、ラストスパートに全力をかけるタイプばかりだったら? その展開で摩那さんはどのような走りができるでしょうか。その逆に、全員が最初から飛ばすタイプだったら、摩那さんの理想の位置取りはどこになるでしょうか?」
「うっ、わかりません......」
「展開を考えるだけでも、これだけ考えることがあります。レースであれば、競争相手も事前に分かっているのでレースペースもある程度は想像できますね。姫井さんも摩那さんも、そのレベルのイメージトレーニングをしていますか?」
「私はないですね......」
「それぐらいなら、僕もしている。県大会は何回も走ったことのある相手が出るんだ。イメトレにも組み込むさ」
「そうですか。では、その相手の自己ベスト、今年のベストタイム、他種目のベストタイムを知っていますか? 同じ組で走る他の七人のデータを、ちゃんと調べていますか? 800mの選手といっても、400mタイプの選手と1500mタイプの選手がいますね。あなたの仮想敵は、どちらのタイプかしっかり調べていますか?」
「......いや、そこまではしていない。上位のベストタイムを知っているぐらいだ」
「強度が足りないといったのは、そういったところですね。姫井さんには前にも言いましたね、ハングリーさが足りないと。勝ちに貪欲な姿勢は素晴らしいですが、そんなものは競技者なら誰でも持っている。タイムを縮める執念が、あなたには足りない。順位につながることならなんでもするという姿勢が見られない。欠点を自覚し他人を頼れるのは美点ですが、それだけでは勝つことはできません」
競技において求められることはたった一つ、勝つことだ。
そのために、出来ることは全てしなければ勝ちには届かない。
誰も彼もが、一つしかない席を我先にと目指すのだ。
全員がやっているようなことをこなしただけでは、勝てるわけがない。
鍋島は、持てる限りの時間を陸上に費やした。
姫井には、まだ迷いが見える。
一番の違いは、それだろう。
「大会までの二週間、出来ることをもう一度見直してみてください。練習でもイメージトレーニングでも、改善できる部分はいくらでも見つかるはずです。野村先生があまり指示を出していないのは、自分で改善する力を身に着けてほしいからでもあると思いますよ」
「......分かった」
すっかりと意気消沈してしまった姫井は、のろのろと立ち上がり教室を後にしようとする。
本人の真剣さに応えて鍋島も真剣に向き合ったが、大会前にあまりいい影響を与えなかったかもしれない。
もっと、いい言い方があったかもしれない。
そう思ったとき、ふと自分のポケットに入っているものを思い出して姫井を呼び止める。
足の止まった彼女に、それを投げ渡す。
「姫井さん、はい」
「わっ! ……なんだこれ、シリアルバー?」
「私は食が細く、一食で摂取できるカロリーが決まっているので、間食によくシリアルバーを食べるんです。姫井さんも、ぜひ真似してみてください。食もトレーニングですからね」
「......はい、ありがとうございます」
受け取ったそれを少しだけ見つめたあと、姫井は頭を下げて教室から去って行った。
シリアルバー一つ上げただけで励ましになるとは思ってもいない。
ただ、姫井はどうも鍋島と自分を比べている節がある。
鍋島の習慣を教えることで、何かの足しになればいいと思ったのだ。
食が細いのであれば、間食など工夫をして摂取量を増やせばいい。
知識が足りないと思うのであれば、他人に教えを乞えばいい。
姫井にしかできない方法がきっとあるだろう。
姫井を見送ったあとに摩那の方に視線を向けると、鍋島に向かって両手を差し出している姿が見えた。
はて、何の手だろうか。
「私にはないんですか?」
「ないですよ。なんであると思うんですか」
「うーん。私と比べて、姫井ちゃんに甘くないですか?」
「そうですか? 摩那さんにも甘く対応しているつもりですが」
「教え子は私なのになー。姫井ちゃんに食べ物をあげて、私には何もないのかなー。お腹空いたなー」
ちらりちらりと芝居じみた視線から察するに、夕飯でも奢ってもらいたいのかもしれない。
真剣な話をしていた直後というにも関わらず、食欲があるということは素晴らしいことだ。
切り替えの速さがあり、神経が図太いということなのだから。
これでいて適当な性格ではないのが、摩那の良いところでもあるのだが。
鍋島は黒板を綺麗に元の深緑色にしてから、摩那に返事をした。
「摩那さんもお腹が空いているようなので、解散にしましょうか。気をつけて帰ってくださいね。それではさようなら」
「コーチ、ここは『何か奢りますよ』っていう場面ですよ。なに帰ろうとしてるんですか?」
「そんな見え透いた芝居なら、誰でも帰ろうとしますよ」
「でもこれが太一なら?」
「駄菓子くらいは奢って帰るんじゃないですか?」
「......コーチ、私は気がつきました。姫井ちゃんに甘いっていうより、私にだけ冷たいんですよ! 私にも駄菓子買ってくださいよ!」
「小学生と同じ扱いをされたいんですか......?」
「そういうことじゃなくてー!」
摩那の叫び声が二人しかいない教室にこだまする。
湿っぽい雰囲気を消してくれる摩那のこの点は、鍋島にとって好ましいものだった。
いまだにぷんすかと不満を述べている彼女を見て、フッと頬を緩める。
大会も頑張っていたし、たまには息抜きも大事か。
「ラーメンでも食べに行きますか? こないだいい店を教えてもらったんですよ」
「いいですね! 味が濃くて、太麺が私の好みですよ!」
「あぁ、私と一緒ですね。美味しかったので、摩那さんのお眼鏡にもかなうと思いますよ」
「私の舌は厳しいですよ~? あ、太一とお母さんも呼んでいいですか?」
「どうぞ。家族団らんに私が邪魔でないのならば」
メリハリというものは、なににおいても重要だ。
今日は思う存分に休んでもらおう。
明日から、また厳しい日々が始まるのだから。
評価、感想、誤字指摘等していただけると嬉しいです。
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