ライバル
「んぎぎぎぎぃ~」
「うわ、急に変な声出さないでよ摩那っち。そんなトイレで気張る父親みたいな声出してどうしたのさ」
「ゴウちゃん、例えが分かりにくいよ......いだだっ!」
「歩き方も変だし、筋肉痛?」
「そうなんだよ。レースって練習よりも体痛むんだね......あっ、ほら見てゴウちゃん! レース中の私をお母さんが撮ってくれたの!」
「どれどれ......は〜、独走じゃん。摩那っちってもしかしてスゴイ?」
「これだけ見たらそう思うよね! でもコーチは一言も褒めてくれないんだよ!」
学校への通学路、いつものように出会ったゴウちゃんに動画を見せる。
画面内の私は顔を苦痛と愉悦で顔を歪ませながら、ホームストレートを独走している。
不器用な私たちは歩きながらスマートフォンをいじったり見たりすることはできないから、道の端っこに立って会話をする。
カバンを持つ腕や体を支える脚は、筋肉がぴくぴくと痙攣して痛みを訴えている。
あまり筋肉痛になったことのない私には慣れない痛みであり、同時に心地よい勲章でもあった。
初めてのレース、全力を出し切った証なのだから。
そんなことを言うとコーチからは、『普段の練習は出し切ってないんですか?』なんて言われそうだから口には出さないけど。
普段の練習も全力だが、レースはその先に足を踏み入れた感覚があった。
体力を絞り出したあの先にある、灼熱の苦痛の中にあったこらえきれないほどの楽しさ。
あの感覚を、もう一度味わいたい。
そう過去に浸っていると、動画をしげしげと見つめていたゴウちゃんが私の方を向いた。
「陸上のユニフォームって、こんなに肌出すの? お腹丸出しじゃん」
「スゴイよね! 腹筋バキバキの子とかいるんだよ!」
「いや、羞恥心とか......摩那っちはないか。ほら行こう。私らの足じゃ遅刻するよ」
「あ、待っうびびびび」
「その変な声、クラスでは出さないでよ恥ずかしいから」
ゴウちゃんは呟くと、そのまま先を歩き出してしまった。
それを慌てて追いかけようとして踏み出した足がピクリと痙攣して、思わず声が出る。
今日は体育の無い日でよかった。
こんな有り様では、ただでさえ怪しい成績がさらに悪くなってしまうところだった。
通学路を、下駄箱を、階段を、年の取ったご老人のようにゆっくりと関節を曲げ伸ばししながら歩いて行く。
途中からゴウちゃんが背中を押してくれるほど、私の動きはひどくゆったりとしたものだった。
運動が苦手な彼女らしく、その手は力がなく弱々しいものだった。
教室に着く頃には、筋肉痛で悲鳴をあげる私と体力を使い果たしたゴウちゃんと二人して息を切らしていた。
「ひぃ、ひぃ、ひぃ」
「ゴウちゃん、さすがに体力なさすぎだよ」
「誰のせいで、こんなに、疲れたと思ってんだ......」
「ありがとね!」
「あれしきの走りでそんなにボロボロになるなんて、普段から怠けすぎなんじゃないのか」
教室に足を踏み入れた瞬間、私たちに向かって小馬鹿にするような声が聞こえた。
ワイシャツとスカート姿の姫井さんが私たちの前に立っていた。
扉に一番近い席の彼女は、いつも大勢のクラスメイトに囲まれているが今日は一人きりのようだった。
シトラスの制汗剤の匂いが漂っているから、今日も朝練を頑張っていたようだ。
いや、来る途中のグラウンドには誰も居なかったから、自主練をしていたのかもしれない。
そんなことを考えながら、姫井さんの悪態に反撃をする。
「初めての頃は誰だってみっともないものなんだよ。無様な姿をさらしたって、それは努力の証なんだから! 惨めでも情けなくても、私はいつも精一杯頑張ってるよ!」
「いや、僕はそこまで貶してないが......」
「あれ、姫井さんも鍋島コーチみたいにぼろくそ言ってくるのかと思っちゃった」
「えぇ......摩那っちのコーチ、口悪すぎでしょ……」
「鍋島さんって、そういうタイプなのか......でも、悪くないな」
「あげないからね! 私のコーチだからね!」
「おや、金だけのつながりだろう? その時間以外、私と鍋島さんが仲良くなっても何も上條さんには関係ないよね?」
「うぐぐ......」
「野村先生は少し放任主義だからな。辛口なタイプの方が、僕には合っていると思うんだ。鍋島さんは無駄な雑談もおべっかも使わないし、本格的に外部コーチになってほしいもんだ」
「それはコーチの一面しか知らないだけですよ! コーチは格闘ゲームが弱くて、すぐ嫌そうな顔をして、子どもに優しい面もあるんだからね!」
「......二人でやっててくれ。私は付き合わんからな」
姫井さんが敵意を見せ、私が張り合い、ゴウちゃんは自分の席にスタスタと歩いて行ってしまった。
ムキになって言い返したところで、ふと気がつく。
姫井さんが教室で話しかけてくるのは、初めてかもしれない。
いつもは遠巻きにじめっとした嫌な視線を投げつけてくるだけであって、直接会話をしたのはこないだのコーチの浮気現場ぐらいだ。
クラスメイトも私たちの会話が珍しいのか、チラチラとこちらに視線を向けている。
いつもより距離感のあるその雰囲気を感じ取って、私は全てを察する。
姫井さんの肩にポンと手を置いて、むふーと息を吐く。
「急になんだこの手は。おい、その勝ち誇った顔をやめろ」
「姫井さん、高校デビューバレたんだね......だから、今日は一人ぼっちで私に絡んできたんだよね......」
「なっ! 違う! そもそも僕は高校デビューじゃないって言ってるだろ!」
「うんうん、そうだよね。わかるわかる」
「理解者ぶるな! お前に話しかけたのは、鍋島さんの空いてる日が知りたいからだけだ!」
「コーチの?」
「そうだ。これから僕には、大型の大会が夏場まで続く。その日程の中で大事な大会にピークを持っていく方法や、調整方法を知りたいんだ。自分のやり方はあるが、やはり実績のある人間にアドバイスを貰うのが一番参考になるからな。部活中じゃなくて、ゆっくりと話す機会が欲しいんだ」
大会に出れる、その部分だけ強調した姫井さんが胸を張る。
制服の上からでも分かる健康的な体に、少しムッとする。
身長は私の方が大きいが、スカートから覗く太ももやブレザーの下から主張する胸は姫井さんの方が育っている。
ただの贅肉というわけではなく、引き締まった筋肉の体は同性の私から見ても魅力的である。
この肉体が、私よりも数十秒も速く走る体なんだなぁ。
太ももとふくらはぎは私よりも太くたくましいのに、腰回りと腕はそんなに変わらない。
中距離選手というよりも、短距離選手といった方がしっくりきそうな体型だ。
そうじっくりと眺めていると、不意にコーチのことが頭に浮かんだ。
コーチは、スレンダーな女子と豊満な女子、どっちの方が好きなのだろうか。
自分の体と、姫井さんの体を見比べてふとそんなことを思う。
コーチが姫井さんに取られるような心配はしていない。
契約がある以上、私との関係をないがしろにすることはないという確信はある。
ただ、それはあくまで契約上の話であって、プライベートの話に私が口出しすることはできない。
そこまで考えて、私は首を捻って疑問を抱く。
別に、コーチに恋心を抱いているとか恋人になりたいとか、そういった感情は私にはない。
私がコーチに抱いている感情は、師に対する尊敬であり運動音痴を受け入れてくれることへの甘えである。
兄に接する態度が一番近いだろうか。
気兼ねなく自分の考えを告げられる相手、それが私にとってのコーチだ。
だから別にコーチが姫井さんとプライベートでどうなろうと知ったことのない話ではあるのだが、彼女と付き合っている彼の姿を思い浮かべることには抵抗があった。
それは、何故だろう?
「うーん......」
「上條さん? 急に黙って──」
「あ、分かった!」
悩んで悩んで、答えに煮詰まった瞬間にパッと閃いた。
嫉妬に近いこの感情は、私にとって確かに未知のものだろう。
「私、姫井さんをライバルだと思ってるんだ!」
「は?」
「夏の県選手権って、うちの高校も出るでしょ? それなら、姫井さんとも競争するから、負けたくないって思ってるんだ!」
ライバル。
その言葉に、心が躍る。
スポーツの世界に程遠い位置にいた私にとって、今まで存在しなかった相手。
頬が緩む私と反対に、姫井さんの目は吊り上がる。
「ライバル? 唐突に何を言い出すかと思えば、僕と君が? 思い上がるなよ。お前なんか、決勝の舞台にすら上がれやしないさ。あんな遅いタイムで、あんな無様な走りで。大会を、僕を舐めるなよ」
「行けますよ。今は速くない私でも、とても綺麗とは言えない私でも。だって、コーチが行けるって言ったから。だから決勝で相手になる姫井さんに、負けたくないんだなって思ったんです」
「......やっぱりお前は嫌いだ」
「私は姫井さんのこと好きになってきましたよ。そんな感情をハッキリと示してくれるタイプだなんって思ってませんでしたから」
思い返してみれば、別に姫井さんからいじめられたわけでも陰湿な嫌がらせをされたこともない。
陸上が絡まなければ、案外カラッとした性格なのかもしれない。
そう考えると仲良くなれそうな気がしてきて、また頬が緩む。
ゴウちゃん以外にも、友達ができるかもしれない。
それを見て姫井さんが嫌そうな顔をして、口を開く前に一限目を告げるチャイムの音が鳴る。
「あ、授業始まっちゃうから、また後でね」
「僕はもう話したくないんだが?」
「コーチの話をしたいんじゃないの?」
「......ちっ。放課後、今日は午後練無いから、その時に」
「うん!」
返事をし、痛む足を無理やり動かして自分の席に向かう。
友達とライバルが同時にできたことが嬉しくて、晴れた青空がいつもより澄んで綺麗に見えた。
窓から吹く風には緑と土の匂いが濃くなって、段々と夏の気配を感じ始めた。
夏は好きだ。
走ろうと心奮わされたあの日も、夏だった。
あぁ、楽しみな事ばかり、増えていくなぁ。
***
「すみません、挨拶が遅れて。本当は閉会の後に行こうと思ったんですが、忙しそうだったので」
「気にしなくていい。それより、頭の怪我の方は問題ないのかね?」
「ええ。腫れてはいますが、異常はないと思います」
「脳は何があるか分からんからな、今日明日は様子を見ておいた方がいい」
「はい、そのつもりです」
芳志高校の来客用玄関で、鍋島は野村と話していた。
放課後の時間だからか、目の前の廊下を生徒たちがバッグ片手に歩いている姿がちらほらと見えている。
大会の日、転んで気絶した鍋島の介抱をしてくれたのは野村だと摩那が教えてくれていた。
当日にお礼をすべきだと思っていたが、忙しそうに動き回る野村の姿を見て挨拶は後日することにしたのだった。
豊かな顎髭を撫でながら、野村は鍋島に問いかける。
「それで、肇は次の大会は何に出るんだ? 長い休みを取っていたんだ、小さな記録会に出て終わりじゃないだろう?」
「現役復帰を決めた訳ではないんですが......目下の目標は、七月の県選手権ですね」
「それは、上條もかい?」
「出場大会の選定は、全て摩那さんのために考えています。高体連に所属していない彼女が出場できる大きい大会は、あまりないですからね。野村先生が部活に入れてくれると言うなら、話は変わるんですが」
「俺は育ててみたいんだがなぁ......記録会の走りだけでは、安全に参加させられるとは言い切れないからな。他の部員のことを考えると、ここで断言することは難しいかな」
「まぁ、そうですよね。言っておいてなんですが、柔軟性とパワーがある分、集団に混ぜるにはまだ不安があります。もう少し基本的な動きができるようになればまだマシなんですが......」
鍋島が練習を教え始めて一か月。
動きは段々と陸上選手になりつつあるが、それでもまだ素人に毛が生えた程度だ。
初めてのレースは周りも初心者かつ低学年であったから独走の形になり何も問題は起きなかった。
あれがもし、競り合う形の展開になればどうなっていたかは分からない。
人のリズムに釣られてテンポがおかしくなる摩那は、サブトラックでのアップでも度々横を走る人間にリズムを乱されていた。
基本的に集団で走る部活の形式には、まだ時期尚早だろう。
少なくとも、人の走りに影響されない確固たる自分の形を身につけさせたいところだ。
……本当に、あと二か月で身に付くか?
怪しいラインだ。
摩那のタイムが速くなることは、鍋島は一ミリも疑ってはいない。
強い目的意識があり、強度の高い練習に耐える肉体があり、技術を教えられる自分がいる。
鍋島の目算では現在の2分35秒から2分20秒~15秒程度までタイムを縮めることは可能だと考えている。
それよりも先も狙える素質はあるが、さすがにその先は時間をかける必要がある。
鍋島が摩那は爆発的に成長すると思っているのは、今が素人の時期だからだ。
0%を60%まで上げる労力と、60%から先に上げる労力では桁が違う。
タイムだけなら簡単に伸ばせられるだろう。
しかし、それに見合ったフォームを作るには二か月という期間は短すぎる。
内心の悩みに、野村の前だというのに思わずため息が漏れる。
ただ野村も何かに悩んでいるのか、鍋島と全く同じタイミングでため息をついていた。
「何か、お悩みでもあるんですか?」
「いや、霧子のことでね......県大会が近いから調整の期間に入っているんだが、勝手に走り込んでいそうでな......」
「あぁ、姫井さん。確かに、インハイまでは調整なしで行きそうな性格してますもんね。細かい調整の仕方とかは、指定してないんですか?」
「頭ごなしに言うのは好きじゃなくてね。ある程度のメニューは与えているが、厳守はさせていないよ。それに、自分で考える力も身に付けてほしいからね」
大会の調整の仕方は、走り方同様人によって大きく異なる。
一週間前になったら当日まで一切走らないで足を休める人もいるし、逆にメニューを激しくしてギリギリまで体を追い込む人もいる。
普段の食生活を一変させる人もいれば、全く変えないいつも通りの生活をする人もいる。
このあたりは、当人にあった形を自分で模索するしかないのだ。
しかし、部活の顧問というのは大変だな。
普段の仕事に加えて、放課後まで生徒の面倒を見なければいけないのだから。
「マンツーマンならともかく、複数人を指導しなければいけない部活動は教えるのも難しそうですね。顧問、大変でしょう?」
「それがやりがいだよ。肇も、上條を教えるのは大変だが嫌ではないだろう?」
「......嫌ではないですね」
「くっくっ、相変わらず肇は素直じゃないな。楽しいと言えばいいのに」
確かに摩那を教えることにやりがいを見出してはいるが、それが楽しいという感情につながるかは鍋島にはよく分からない。
なにせ、頭を悩ませている時間の方が長いのだ。
どう野村に伝えるべきか悩んでいると、廊下の方が少し騒がしくなった。
聞き慣れた女子の声がして、嫌な予感がした。
「おい! まだ鍋島さんの連絡先を教えてもらってないぞ! 普段のお前の様子なんかどうだっていいんだ、無駄話ばっかりしやがって!」
「お話しするとは言ったけど、教えるとは言ってませーん! コーチの連絡先が知りたかったら、ちゃんとした頼み方があると思うよ、姫井ちゃん」
「ちゃん付けはやめろ気持ち悪い!」
「可愛いのに......それに、コーチの個人情報なんて勝手に教えられるわけないじゃないですか。知りたいなら、自分で聞いてくださいよ」
「ぐっ、急に正論言いやがって......わかった、今度何かおごろう。だから、鍋島さんの連絡先を教えてくれ」
「......購買のチョコパンとかでもいい?」
「それでもいい! あといい加減自分で歩け! なんで僕が背中を押さなければいけないんだ!」
「あ~、楽だ~」
声が段々と近づいてくる。
姿を現したのは、姫井さんと摩那さんだった。
なぜか、姫井さんに背中を押してもらう形で摩那が歩いてる。
いや、今はそんなことはどうでもいい。
会話の内容の方が問題であった。
女子高校生二人が、男性の連絡先を求めて言い争っている。
それだけ抜き取れば、健全とはいいがたい会話だろう。
恐る恐る野村の方をちらりと見る。
口元はほほ笑んだままだが、顎髭を撫でる手は止まっておりこちらをジッと細い目が捉えている。
プレッシャーが跳ね上がり、自身の周りだけ重力が二倍になっているような感覚に陥る。
「......肇、本当にやましいことはしてないよね?」
「天に誓って」
「怪しいな。君のようなタイプが、天や神に祈るのはなにか裏があるときだ」
言いがかりだと声を上げたかったが、鍋島にも思い当たる節があるので言い返せない。
ついこないだまで何かに祈るという行為自体あまりしたことのない鍋島だ。
そんな人間が天に誓ったところで、嘘臭さが増すだけだ。
どう釈明すべきか悩んでいると、何かに気がついたのかぐるりと摩那の首がこちらを向いた
「あれ、コーチじゃないですか。高校で会うなんて珍しいですね」
「え、鍋島さん......と野村先生」
「やぁ霧子。やっぱり、上條と仲いいじゃないか」
「いや、これは──」
「それとも何かな。部活以外の日も、肇に練習をつけてもらおうと俺に隠れて行動しようとしていたのかな?」
野村の矛先が姫井に変わったのを確認し、摩那をこっそりと手で招く。
彼女が変なことを言う前に、状況の確認を済ませて起きたかった。
「なにしてるんですか? 廊下で騒ぐのは迷惑だからやめた方がいいですよ」
「先生みたいなことをいいますね、コーチは」
「ただの常識ですよ。それはさておき、なんで私の連絡先の話になってるんですか?」
「姫井ちゃんが知りたいらしいですよ。大会の調整方法とか知りたいって」
「あー、うーん……」
丁度先ほどまで野村と話していたことが話題に上がり、どうしたものかと頭を悩ませる。
鍋島の大会前の調整方法は、ごく一般的なもので難しいことはしない。
足を休ませ、栄養を整え、心身ともに落ち着かせる。
ただそれだけだ。
姫井の期待に応えられるだけの知識はないし、教えるという行為は野村の自主性を重んじる方針に逆らうような気がする。
考え込んでいると、摩那がジッとこちらを見つめていることに気がついた。
一か月外で練習していたせいか、摩那の真っ白だった肌は少しだけ日焼けして健康的に見えた。
「教えてあげないんですか?」
「私の生徒ではないですからね。勝手に決めてはいけないでしょう」
「じゃあ、やっぱりコーチの一番弟子枠は私でいいんですよね?」
「一番弟子がどういう意味で使っているのか分かりかねますが、私個人の生徒は摩那さんだけですよ」
「......よしっ」
小さくガッツポーズをする摩那を、鍋島はいぶかし気な目で見る。
摩那の奇行とよく分からない質問は度々あるが、今回もその類だろうか。
問いただすのも徒労に終わりそうな気がして、野村の方に視線を戻す。
どうやらあちらも話が終わったようで、二人がこちらに近づいてくる。
「肇、この後時間あるかい?」
「ええ、今日はバイトも何もないので、大丈夫ですよ」
「空き教室を貸すから、姫井に少し授業をつけてやってくれ。一人で暴走されるより、お目付け役がいた方が安心できる」
「自分でいいんですか? 野村先生の方が詳しいと思いますが。それに野村先生の方針と合いませんが」
「いいもなにも、肇が指名されているんだ。肇が教えてくれた方が嬉しいだろう。俺の方針は気にしなくていいから、自由に教えてやってくれ」
「......頼むよ、鍋島さん」
「あ、それなら私も知りたいですよコーチ! 前回はいきなりレースでしたからね。調整とか言われても、全く分からないので」
「はぁ......」
三者三様の言葉が鍋島に投げかけられる。
最早、断るという選択肢はなさそうだった。
ただのアルバイトの塾講師が、まさか進学校の教室で教師の真似事をすることになるとは。
人生、何があるか分からないものだ。
評価、感想、誤字指摘等していただけると嬉しいです。
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