今は、それで
「はっ、はっ、はっ」
走る。
何かから逃げるように、何かを追いかけるように。
「はっ、はっ、はっ、はあ!」
汗がぼたりと頬から滴り落ちて、アスファルトを染めていく。
いつからそうしているのか覚えていない。
なぜ走っているのかすら、分かっていない。
どうして、自分は走っているのだろう。
「はぁぁ、ひっ、ひっ、はぁ」
息が吐けず、引きつる呼吸音が耳をつんざく。
足が上手く回らない、腕が鉛のように重く持ち上がらない。
不規則な呼吸音がひどく無様に聞こえて、苛立ちだけが募っていく。
空気の抜けたゴムボールのように、地面を弾まず体だけが空回りする。
自分の体だけ重力がなくなったのか、スローでしか体は動かない。
おかしい、何かがおかしい。
そう思い、今まで走ってきた道を振り返る。
そこには、真っ暗な闇だけが広がっていた。
足元のアスファルトはその闇に飲み込まれるように崩れ落ちていき、段々と鍋島の足元へと近づいてくる。
この闇から逃げなければ、この道が続く先を追いかけなければ。
意識は必死に体を動かそうとするが、手足はスローモーションのようにしか動かない。
(どうして、走る必要があるんだ?)
不意に、そんな疑問が思考を満たした。
この道が希望につながっているとは限らない。
落ちる闇が絶望とは限らない。
汗にまみれ、顔を歪め、体を痛めるこの行為に、意味があるとは限らない。
『なんのために、走ってるんですか?』
誰かの凛とした声が、頭の中で喚きだした。
意味、意味、意味、意味。
勝つために、一位を取るために。
それに、何の意味があるというのだろうか。
あくまで一位を取ることは鍋島にとって手段であって、目的ではなかったはずだ。
意味があって、一位を目指していたはずなのに。
感情があって、勝とうとしていたはずなのに。
いくら鍋島が振り返っても、ぽっかりと底の見えない穴が広がるだけで探してるものが見つかる気配はなかった。
不意に、右手にずしりと重みを感じた。
銀色のメダル。
消し去りたいと記憶から封印していた、敗北の証。
必死に走ってきた結果、手元に残っているものはこれだけなのか?
段々と体に力が入らなくなり、やがて鍋島の足は止まった。
「......初めて走った日のことは、覚えているつもりだったのになぁ」
スパイクなんて上等なものはなく、擦り切れた運動靴で走ったあの日。
コンクリートの固さともグラウンドの柔らかさとも違う、タータンに初めて足を踏み入れたあの日。
雲一つない青空の下、難しいことは何も考えずに走り抜けたあの日が、鍋島にとっての始まりの日だったはずなのに。
今はどうしてか、何を感じたのか思い出せないでいる。
広がり続けている闇が鍋島の足元まで届いて、地面が崩壊して体が宙に投げ出された。
***
「......頭いてぇ」
ズキリとした頭の痛みで目が覚める。
今は何時だ?
俺はいつ寝た?
寝た記憶がない、気がついたら寝ていた。
自分の部屋ではない。
鼻をくすぐるそよ風に、草木の匂いがする。
頭を動かそうとした時に、額に濡れたタオルが置かれていたことに気がついた。
それを取ろうと体を動かすと、また頭に痛みが走った。
「いづっ!」
「あ、コーチ! 起きたんですね! 気絶してたんですから、無理に動かないでくださいよ!」
足元から、聞き慣れた摩那の声がした。
あぁ、見慣れない青い天井だと思ったけれど、これはテントか。
痛む頭を押さえて忠告を無視してテントから出れば、空は段々と赤くなり始めていた。
朝から始まった練習会も終わりのようで、トラックではこれから4×400mリレーの準備が進んでいた。
「最終種目まで、寝ていたのか......」
「え、なんで最後って分かるんです? 全部の競技開始時間を覚えているんですか?」
「トラックで準備しているのがマイルだからですよ」
日本国内外問わず、陸上の大会の最終種目はマイルリレーで終わることが多い。
他の種目に出ている選手の兼ね合いと、リレーという競技が国や県の威信をかけた競技であるからだ。
日本でも、あまり結果が奮わない短距離路線でもリレーにはとてつもない力が入っている。
その日の締めということもあり、芝生席やスタンド席には多くの人が集まっており始まる前から盛り上がりの気配を見せている。
隣の天幕でも、メガホンを持った生徒たちが自身の学校のレースを今か今かと待っている。
……なぜ、自分は寝ていたのだろう。
真昼に行った800mから、夕方まで自分は眠りこけていたことになる。
引率者としての義務を忘れて、摩那をほったらかしにして寝るなど無責任もほどがあるだろう。
思い出そうとしても、腫れた後頭部が痛むだけだった。
確か、摩那とベンチで話していたところまでの記憶はあるのだが。
「どうして、私は寝ていたんですか?」
「覚えていないんですか? 私とテントに戻るとき、そこで遊んでいた子どもとぶつかって柵に頭を打ったんですよ。一応野村先生と医療班の人にも診てもらったんですけど、腫れ以外に外傷はないので問題ないらしいです。頭大丈夫ですか?」
「その言い方だと、煽りに聞こえるのは私の問題ですかね?」
「きっとまだ気分が悪いんですよ! 吐き気がする場合は救急車を呼ぶので、すぐに言ってくださいね!」
「痛みはありますが、多分大丈夫だと思います」
吐き気や目まい、頭痛といった脳に後遺症が残っているような体感はない。
子どもとぶつかった記憶が飛んでいるのは、単純に意識外からの衝撃だったからだろう。
自分の世界にこもって、下を向いて歩いていた罰だ。
摩那に怪我がないことは、不幸中の幸いか。
ズキリと頭が痛むのは打撲であって、大事になる気配は今のところない。
かといって無理して動く気にもならず、ぼんやりと座ってトラックを眺めることにした。
その横を、おずおずと摩那が遠慮がちに座った。
盛り上がりを見せるトラックとは裏腹に、鍋島と摩那の間には沈黙が流れていた。
準備ができたのか、1走の人間がそれぞれレーンに入り、スターティングブロックに足をかけた。
一瞬の静寂から、号砲が鳴る。
「おっせー押せ押せ押せ押せ村上! いっけー行け行け行け行け村上!」
「頑張れ中村! ファイトだ中村! 負けるな中村!」
「ゴーゴーレッツゴ―レッツゴ―種島!」
その瞬間、芝生席からは学校ごとの応援合戦が始まった。
あまりの歓声に摩那は目を見開いて辺りを見回している。
マイルリレーはトラックの最終種目、つまり、大会の参加者はほとんどが応援以外なにもすることがない状態になっている。
大会中はアップや競技でバラバラになっている時間が多いが、今この瞬間だけはほとんどの人間がそれぞれの場所に揃っていることになる。
だから、マイルリレーは学生の陸上競技において一番盛り上がる時間と言っても過言ではないのだ。
それを説明しようと口を開いて、何も言わないまま閉じた。
心にはまだ摩那の質問への問いが出てこずに、それが鍋島の口を重くしていた。
何のために。
いくら考えても、鍋島に答えは思い浮かばない。
俯こうとした鍋島に、摩那の声が聞こえた。
「コーチは、人が走っているところを見て、感情が湧き上がることはありませんか?」
静かに摩那が問いかけてくる。
摩那の方を向くと、トラックを見つめたままであった。
夕焼けに照らされた瞳は、真剣に走る選手を追いかけて忙しなく動いていた。
順位が変動するときは大きく目が見開かれ、バトンパスのときはハラハラと緊張を孕み、目まぐるしく変わる表情はレースを心から楽しんでいるようだ。
自分が同じようにトラックを見つめたところで、そこまで熱中することはできない。
一位を走っている人間のピッチが少しおかしいとか、バトンを持って走るコーナー走は練習してなさそうだなとか、そういった技術のことばかりが目につく。
「ええ、フォームの良し悪しやタイムを気にすることはあれど、感情が動くということはありません」
「それは、自分の走りもそうなんですか?」
「......はい。感情は、レースの邪魔にしかなりません。焦り、恐れ、緊張、それらは全てレースには不要の感情です。走るという行為に、不純なものを持ち込んでは一位になれない」
レースを眺めながら、自分の考えを整理するように摩那の問いに答える。
感情は、レースにはいらない。
強い思いというものは、姫井のように足枷になる可能性がある。
それに思いの強さで順位が変わるというのならば、普段の練習の意味がなくなってしまう。
誰しもが勝ちたいと強く願い、トラックに立っているのだから。
思いの強さは、陸上には必要ではない。
陸上競技に必要なものは、鍛え上げた己の体だけだ。
その体を効率的に動かすことが重要なのであって、感情は不要だ。
だから、陸上競技において鍋島が感情的になることはない。
「......なら、なんで私が走るときは、あんなに応援してくれたんですか?」
「え?」
「走っているとき、コーチの叫び声がしっかり聞こえましたよ。やることは変わらないって。前を向いてって」
「それは、指導者としてであって──」
「指導者だろうが何だろうが、鍋島コーチのセリフですよ。誰でもない、コーチの言葉だから私は前を向けました」
摩那の瞳が、鍋島を捉える。
真っすぐな琥珀色の瞳はいつも通り力強くて、今は目を合わすことができなかった。
「第四コーナーを抜けるとき、100mのスタートラインに立っているコーチが見えました。見たこともない顔で、私の名前を呼んでくれたじゃないですか。あそこ、本当はレース中は入っちゃいけない場所ですよね。そんなところに立ってまで、必死に応援してくれたのに、何も感じてなかったんですか?」
「それは──」
「それに、コーチ自身が言ってたじゃないですか。私の走りで、お腹が痛くなった、人生で一番緊張したって。何にも感じないなんて、そんなことないですよ、コーチ」
子どもをあやすような摩那の口調に、鍋島の思考がどろりと溶けはじめる。
脳髄に響く、甘い声だ。
摩那の言うとおりだと肯定してしまえば、それで楽になれる気がする。
ただ、鍋島に残された強固な理性が摩那の発言を否定する。
指導者としての鍋島と、競技者としての鍋島は別だ。
摩那に対して抱く感情は、塾で小学生相手に抱く感情と何ら変わりはない。
教え子が成長するのは嬉しい、やらかすところを見るのは不安になる。
でもそれは、自分が指導者として未熟だからだ。
きっと、慣れてしまえば、何も感じなくなるだろう。
……本当に?
ふいに歓声が止んで、風の音だけが鼓膜を揺らしていた。
顔をあげれば、リレーの一組目が終わったらしい。
タイムが良かったと喜ぶチーム、最下位でゴールして悔しさを顔を滲ませているチームがそれぞれゴールラインに集まっている。
自分にも、結果に一喜一憂していた時期があったはずだ。
どうして今は、何も感じないのだろうか。
いつから走る自分のことを、競技者といったカテゴリーに分けてしまったんだろう。
いつもの自分も走る自分も、どちらも同じ自分に変わりはないのに。
「......俺には、分からない」
「ゆっくり分かってけばいいんじゃないですか。あ、それなら勝負しましょうよ。私のフォームが綺麗になるのと、コーチが自分の気持ちを理解できるか、どっちが早くできるか」
その発言を聞いて、鍋島の口から笑いが漏れた。
さすがにそれは、負ける気がしないな。
自分の気持ちに敏感ではないが、極度の運動音痴の摩那よりはマシであろう。
強張っていた顔が緩むと、浅かった呼吸が楽になって思考が十全に回り始める。
暗闇に包まれていた脳に、すっと光が差し込んだような気分になった。
きっと摩那は、深い考えを持ってその発言をしたわけではない。
彼女はいつだって、単純で真っすぐだ。
その素直さを、今は見習うことにした。
「勝負にならないですよ。摩那さんがそれだけ器用なら、入部拒否なんてされませんよ」
「あ! 慰めようとしてるのに、人の傷跡をえぐりにきましたね! 許しませんよ!」
「慰めはいりません。そもそも、摩那さんの言葉に揺れた自分が悪いだけですからね。走る理由なんて、走りたいからだけでいいでしょう」
ポカポカと肩を叩いてくる摩那に対して、鍋島は吹っ切れた表情を浮かべる。
競技を辞めた理由?
そんなもの、高校で満足したからだ。
未だに走る理由?
そんなものは、特にない。
常々疑問に思っていたのだが、どうして陸上競技だけ走ることに意味を求められるのだろう?
『走ることのなにが楽しいの?』
陸上部に所属していれば、誰しもが一度は投げかけられる言葉である。
鍋島に言わせれば、他のスポーツだって芸術だって五十歩百歩だ。
球技は玉遊びであるし、美術は落書きであるし、鍋島にはその楽しさはよく分からない。
やっている本人が、満足できるならそれでいいではないか。
意味もなく素振りをしたっていいし、音楽が好きなら適当に楽器を弾けばいい。
走りたいと思った自分がいる、それだけだ。
走る意味も、遅いタイムも、一位以外の順位も、レース中の感情も、今の鍋島には必要ない。
それはそう思ってしまっただけで、そこに至るまでの過程に特別な理由があるわけではない。
なんで?
そう聞かれてありもしない答えを探したから、思考が煮詰まっていたようだ。
「私が走るときに楽しさは必要ありません。人の走りを見るときに感情は重要ではありません。私はもう、そういう生き方になっているのです。そこに意味はないし、見出す理由もない」
「でも、それってつまらなくないですか? どうせ走るなら、楽しみたいじゃないですか」
「それは摩那さんの考え方でしょう? 私は違う、それだけです。楽しむという感情は、私を走らせる動力にはなり得ない」
「むぅ......いつものコーチが戻ってきましたね」
「えぇ、ですので、肩を叩くのは止めてもらっていいですか? 頭に響く」
再び鳴り始めた会場の応援も、摩那に揺すられる体も全てが頭に響く。
ハッキリとし始めた視界には、選手たちのバトンリレーが映っている。
彼らには、走る意味があるのだろうか。
「はぁ、疲れましたね。今日は」
「そうですか? 私は楽しかったですよ!」
「それは良かった......ちなみに家庭教師になってから一か月が経ちますけど、契約は継続しますか?」
「当たり前じゃないですか! 私の覇道は始まったばかりですよ、鍋島コーチ!」
「覇道って大袈裟な。武力も権力もないでしょう」
「じゃあ私って、王道だと思います?」
「......邪道とかでいいんじゃないんですか」
「私のどこが邪だって言うんですか!?」
「お、先頭のアンカーがいい走りをしてますよ。参考にしてくださいあのピッチ」
「話をそらさないでくださいよ、コーチ!」
いつものようにくだらないやり取りをしながら、トラックの方を見つめる。
立花の言う通り、自分はうじうじしていたし未練があったのかもしれない。
そう割り切ってしまえば、心はいつも通りの平静を取り戻す。
走ることへの意味や、じゅぐりと痛む心の答えを得たわけではない。
それでも、今はいいと自然と思えた。
夕日に照らされた摩那の顔を、今度は目を逸らさずに見る。
その視線に気がつくと、摩那はニコリとほほ笑んだ。
「夏の大会が楽しみですね! コーチも一緒に出ましょうよ!」
「うーん。大き目の大会なのでアップからレースまで、摩那さんの様子を見てたいので、あまり乗り気になれませんね。予選と決勝があり、今日が比ではないぐらい忙しくなるので」
「大丈夫ですよ。初めての大会だった今日も、私一人で招集からレースまでできたんですから!」
「あんなにキョロキョロとして不安がっていたのに?」
「え!? 盗み見してたんですか!?」
「相変わらず人聞きが悪い。見守ってたんですよ」
「やってることは同じですよコーチ!」
夏、か。
後二か月、長いようで短い期間だ。
その時が来たとき、摩那は笑って大会を終えられるだろうか。
ただの人に過ぎない鍋島には、未来など分からない。
「まぁ、楽しみではありますね」
分からないから、その未来を考える楽しさがあるのだろう。
真っ白なキャンバスの前に、クレヨンを握りしめた幼子のような気持ちで鍋島もほほ笑み返した。
きっと、表彰台に立つ摩那を見るときに覚える感情は、温かい気持ちであるはずだ。
明日からも、家庭教師として摩那の力になろう。
「きっとコーチにも分かる日が来ますよ! 走ることは楽しいって!」
「それはないかなぁ」
「......なんで変なところでそう頑固なんですか?」
「教え子に似たんじゃないですか?」
「なぁっ!」
「さて、テントを畳んで帰ることにしましょう」
歓声が止み、会場からは全競技終了のアナウンスが流れている。
長い長い、一日の終わりを告げる声がしていた。
評価、感想、誤字指摘等していただけると嬉しいです。
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