何のために
(コーチって、素の一人称は俺なんだなぁ。普段の口調は、作ってるのかな?)
ベンチに腰をかけながら、そんなことを考える。
本当ならトラックギリギリまで近づいて観戦したいが、邪魔になるかもしれないことを考えて自重する。
レーンには既にコーチ以外の選手は全員入っており、それぞれがルーティンをこなしてスタートの合図を待っている。
ジャンプ、屈伸、背伸び、もも上げ、色々な動きをする人がいる中、5レーンに入ったコーチは一切の動きを見せずただただ佇んでいる。
(久しぶりのレースだから緊張してるのかな? コーチも可愛いところあるなぁ)
そう思ってコーチの顔を見るが、そこには私が見たことのない表情があった。
いや、表情はなかった。
全くの無表情でレーンを見つめている彼は、誰だろう。
太一に向ける温かな眼差しも、私に向ける呆れたような目も、困ったように笑う口元も、何もなかった。
さっきまで私と話していた人と、本当に同一人物なのだろうか。
あまりの変貌ぶりに、私の中から現実感が消えていく。
トラックの中、彼の周りだけ隔絶されているかのように冷たい雰囲気が満ちていた。
「On Your Marks」
彼の一挙手一投足から目が離せない。
特徴のない平均的な身長の細身の体に、抜き身の真剣のような鋭さが静かに宿っている。
練習時のコーチからは感じない、トラックに立っている彼だけが放つ異様な空気。
時が止まったかのように、世界が静寂に包まれる。
乾いた破裂音がするまで、私は呼吸すら忘れて彼を見つめていた。
***
号砲の音とほぼ同時に、脚を強く踏み出す。
一歩、二歩、三歩。
スパイクがタータンと触れる小気味のいい音を聞きながら、体から力を抜く。
十分な加速は既にした、飛ばす必要はない。
あとは、周りの流れ次第だ。
意図的に速度を控えめにしてコーナーを抜ける。
ブレイクラインを越えたタイミングで、首を小さく左右に振って展開を確認する。
2レーンの少年と8レーンの大男が、先頭を狙って快調に飛ばしている。
(外側から被せられると面倒だ。外はブロックして2レーンに引っ張ってもらうか)
瞬時にそう判断し、ピッチを上げる。
大男と同じ速度まで加速し、インコースに入られないようにピッタリと並走する。
自分の右腕と大男の左腕が軽く接触し、大男の顔が少し歪む。
鍋島はこれぐらいでは動じない。
もっと激しいぶつかり合いをしたことがあるし、ひどい時には転倒までしたことがある。
相手は鍋島と競ってまで先頭に立つつもりはないらしく、ズルズルとポジションを後ろに下げていく。
200mを通過するときには、飛ばしていた2レーンの少年が先頭に立った。
その右後ろを悠々と確保し、体内のラップタイムと設置されている電光タイマーを確認する。
(27秒......体感通りだな)
チラリと肩越しに後ろを見る。
ペースが思ったより速かったのか、集団は細長い一列になっている。
このペースについてこれない少年と大男以外のことはもう考えなくていいだろう。
コーナーを回りつつ、はぁーと大きく息を吐く。
吐いて、吐いて、吸う。
呼吸のリズムが走りのリズムとなり、軽やかに体を前に運んでいく。
コーナーを抜けたホームストレート、風を裂く音に混じって荒い息が聞こえた。
(ペース落ちたな、56秒後半ぐらいか)
実力以上に飛ばし過ぎたのか、少年の荒い呼吸音が歓声にかき消されることなく鍋島の耳に届く。
少年の足の回転はじりじりと鈍くなっている。
400m通過をし、ラスト一周を告げる鐘がけたたましく鳴り響く。
ラップタイムは57秒と、体感より少し遅いタイムが表示されていた。
最初は速かったが、中だるみした一周目になり総じて言えばスローペースだろう。
前に出れるチャンスを感じたのか少年の疲労を察したのか、後ろから大男が上がってくる気配がした。
タイムにこだわるならここで鍋島もペースをじっくり上げるべきタイミングであり、順位にこだわるならばラストのホームストレートまで大男を風よけに使うべきだ。
どちらを選ぶか。
(......飛ばすか)
タイムに意味はない。
序盤がスローの展開になった以上、ベストタイムが出ることはありえない。
順位に意味はない。
次に繋がるものがない記録会の一位は、鍋島にとって価値のあるものではない。
それならば、練習として割り切った方が有意義だ。
脳内に浮かんだ第三の選択肢を即座に選びとり、鍋島の体が急激に加速する。
大男と少年の絶望の吐息が聞こえた。
後ろを振り返ることはしないが、音が離れていくからついてこれなかったのだろう。
ゆったりしていたペースが急激に変わり、風切り音がより大きくなる。
ピッチは速く、ストライドはより大きく。
鍋島の体が、レンガ色のタータンを切り裂くように疾走する。
バックストレートを抜ける頃には、自分の足音以外なにも聞こえなかった。
タンタンと一定のリズムを刻む足、呼吸は少しだけ乱れているが余裕はある。
ラストの200m、もう一段階ギアを上げてラストスパートをかける。
実力の近い競争相手がいるならば、ここから熾烈なデッドヒートが繰り広げられるのだが、今は鍋島の一人旅だ。
相手に向けられるはずの意識を、自分の体に向けて走りを客観的に判断する。
(関節が錆びてるみたいで、ぎこちないな。ブランクってやっぱりでかいな)
メトロノームのように正確にリズムを取り続ける腕、しなるように大きく無駄なく回り続ける脚。
フォームに歪みはなく、教本のような走り方だろう。
ただ感覚は何かがズレているようで、違和感を訴えている。
重心移動か、体幹の甘さか、高校時代と比べて大きくなった背丈か。
何にせよ、あまり褒められるレースではないな。
「......足りない」
ゴールラインを鍋島の胴体が通過して、電光掲示板に表示されたタイムを見てぼそりと呟いた。
練度が、練習量が、速度が、スタミナが、内容が、何もかもが絶対的に不足している。
1分54秒33。
一周目のラップタイムが57秒であったから、イーブンペースでもう一周したことになる。
それを考えて、大きくため息をつく。
一周目がスローペースの展開なのだから、ラップタイムはもっといいタイムで走るべきなのだが、この体たらくだ。
全力を尽くしたわけではないが、もっと自分は走れるものだと思っていた。
……いや、当たり前か。
本格的な練習をしていない以上、何を思ったところで鍋島の怠慢という結論が変わることはない。
結果に不満はあるが、受け入れられる内容だ。
いい練習には、なったはずだ。
「……はぁ」
「一位でため息をつくのは、ちょっと嫌味みたいでよくないですよコーチ」
ベンチに向かって歩くと、摩那が冷たい目でこちらを見つめてくる。
確かに、言われてみたらそうかもしれない。
自嘲の呟きではあったが、周りにしたらそうとは受け取れないだろう。
体を冷やさないためにジャージを羽織り、スパイクを脱ぐ。
きつく結ばれていた靴ひもがほどかれると、足の指先に血流が流れ込んですこし痒くなる。
その痒みから意識をそらすために、摩那に話しかける。
「嫌味ではなく、自分に向けたため息なので許して欲しいですね。それより、レースは参考になりましたか?」
「フォームが綺麗だなって! あと、スパートをかけるタイミングが私と変わらないのに、余裕があってすごいなって! 私と違って、ばてばてじゃないですもんね!」
「......他は?」
「それぐらいですかね! 細かいところは、家に帰ってお母さんが撮ってくれてる映像で振り返りたいと思います」
「うーん......まぁ、詰め込み過ぎてもよくないかぁ......」
「その残念な子を見る目をやめてくださいよコーチ。コーチって結構表情に出るから、傷つくんですよ!」
幼児のような感想だが、初めてのレース直後ということもあって細かい技術まで見ろというのは酷な注文なのかもしれない。
それよりも、自分は本当に表情が顔に出るタイプなのだろうか?
自分の顔を触ってみるが、かいた汗が指について不快なだけだった。
……テントに戻る前に、更衣室でシャワーを浴びた方がいいだろう。
乳酸が溜まったふくらはぎをほぐしながらこの後のことを考える。
二人ともレースを消化した以上、この場に残る意味はない。
野村に挨拶だけして、さっさと帰るのが賢い選択肢だ。
でも、摩那のことだからおそらく最後まで競技を見たいと言い出すだろう。
あの近い距離感を考えると、汗は流しておいた方がいい。
クールダウンをして、汗を流して、テントで座学の続きでもしようか。
そうぼんやりと考えていると、鍋島の前でずっと摩那がもじもじと突っ立っていることに気がついた。
自分が理解した性格の彼女なら、もっと騒ぐか質問攻めにしてくるはずなのに、やけに静かだ。
顔を上げると、明るい摩那にしては珍しくきまりが悪そうな表情をしていた。
「......なにか?」
「あっ、いえ、そのなにかと言えば別に大したことじゃないんですけどー、えっーと......そのぉ......」
「そこまでもったいぶられると気になりますね。なにか悪いことでもしたんですか? 怒らないので話してもらえると嬉しいですね」
「そんな幼児扱いしないでくださいよ! 私は太一と違って、悪いことをしたらちゃんと白状できますからね!」
悪いことをしないと言わないあたり、素直な摩那らしい発言だ。
ただ、そうなると彼女がなにを言い淀んでいるのかが自分には分からない。
黙って、摩那の発言を待つ。
何回かもごもごと聞き取れない音を立てた後、覚悟を決めたかのように瞳が鍋島を捉えた。
「コーチって、走って楽しいですか?」
「......え?」
「レース中のコーチから感情をあまり感じなかったんですよね。集中だとか真顔だとかじゃなくて、無なんですよね。普段のコーチと温度感がすごくて、それでも別に熱があるわけでもなくて。その、言葉にすると難しんですけど、やっぱり無だなって」
思ってもいない言葉に、一瞬面を喰らって言葉に詰まる。
摩那の表情は興味半分で聞いたわけではなく、真剣そのものであった。
摩那にとって楽しさとは、走るうえで茶化すことのできない重要な要素なのだろう。
それを改めて感じ取ったから、鍋島も茶化さずに本心をさらけ出す。
「レースを楽しいと思ったことはないですね。練習の結果を出すための場所であり、一位を目指す舞台、ただそれだけです」
「......それって、なんのために走ってるんですか?」
「は? そんな簡単なこと──」
言いかけた口が、止まる。
一位を取るために走るのだ。
そのためだけに逃げ出したくなるような厳しい練習を積んで、食べたいものを我慢する苦痛な生活を過ごすのだ。
それが鍋島の考えであり、変わらない指標であったはずだ。
でもそれは、競技者としての理論であって、レースを辞めた鍋島には当てはまらない。
楽しさもない、一位にもなれない。
それならば自分は、何のために走るのだろうか。
ぐらりと音を立てて、地面が揺れて指標が崩れ落ちていく。
レース中に思ってしまった。
タイムに、順位に、意味はないと。
それは、競技そのものの否定だ。
鍋島がどうでもいいと判断したこの一位は、誰かにとっては本気で狙っていた一位のはずだ。
いつから自分はこんなに傲慢で怠惰な人間になっていた?
一人のランナーとしての心構えは、鍋島の中で完全にぐずぐずに腐り落ちていた。
どの口で、摩那の向上心を褒めていたのだろう。
分からない、分からない、分からない、分からない。
自分は、何のために走っているのだろう。
熱に浮かされて出た記録会で、冷めるようなどうしようもない矛盾に気がついてしまった。
意味がないのならばやめればいいのに、どうして自分はこうも執着している?
どうして心はじゅぐりと痛みを訴え続けている?
口は音にならずに無様に数回動いて、結局言葉を紡ぐことはできずに項垂れる。
「走り終わった選手は、移動してくださーい! 競技進行にご協力お願いしまーす!」
「......移動しましょうか、コーチ」
自分は、何を陸上に求めている?
摩那に手を引かれて、ベンチから立ち上がる。
視界の隅に見えた、電光掲示板に表示された自分の名前とタイムがひどく空虚に見えた。
***
「全力ではなさそうだが、それでもこのタイムか。悪くないな」
電光掲示板の一番上に表示された肇の名前を見て、野村は数回頷く。
お手本のような位置取り、スローペースと見るや二周目をスパートに切り替える機転の速さ、トップレベルのタイムを叩き出してなお余力を残している体力。
これが、二年間のブランクのある人間の走りとは思えなかった。
おそらく、最初から最後までタイムにこだわるレースをしていれば50秒台を切ってきただろう。
現日本記録が1分44秒50、肇の自己ベストが1分44秒54だ。
高校時代から身長が大幅に伸びており、肉体の全盛期がこれからくるだろう。
研鑽を積み重ねれば、きっと自己ベストも日本記録の更新も夢ではない。
問題は、燻り続けている本人の意思をどう焚きつけるか、だが。
肇は気付いていないのか気付かないフリをしているのか分からないが、陸上競技に未練があるのは体を一目見ただけで分かった。
衰えないように維持され続けている体は、走り込みだけでは作れない水準の体があったからだ。
食事制限や筋肉トレーニングも並行して行われているであろう肉体は、一線級の選手として通用するだろう。
それなのに、本人の意識は競技に向いていない。
あくまで、指導者として乞われたから陸上に携わっているというスタンスだ。
無意識と自意識が、ねじれにねじれている。
このねじれを本人が自覚しなければ、きっと事態は好転しないだろう。
走り終わった肇の方を見ると、上條と何か話しているようだ。
数回言葉を交わしたあと、肇は何かに悩むように下を向いて動かなくなった。
(まぁ、モチベーションの方は上條がなんとかしてくれそうだな)
肇の手を引く上條の表情が、強い決心に満ちた顔つきであったためそう判断する。
自分にできることは、練習場所の提供と彼が望んだ場合復帰へのお膳立てをするぐらいか。
真面目な肇に、年上の自分がアドバイスしても重荷にしかならないだろう。
頼られた時に、助けてあげられるようにだけ備えはしておこう。
意識を切り替えて、補助員の仕事をサボってレースを食い入るように見つめていた自分の教え子に声をかける。
「上條と肇のレースは、参考になったかな?」
「あいつのレースはどうでもいい。周りが遅いだけで一着になっただけだ。レース展開も、フォームもぐっちゃぐちゃで見れたもんじゃない。ずっと笑いながら走って、気味が悪い」
「競技を初めて一か月の人間があそこまで走れるんだ、いいライバルになると思うがね。磨けば君にも劣らない走りになる」
「あいつが、僕の? 冗談はやめてくれ、あんな無茶苦茶な走りに負けるはずがない。そんなことよりも、鍋島さんの走りだ。抑えめに走っていたけれど、やはり彼の走りは参考になる」
滅多に見ない熱を孕んだ霧子の瞳に、野村は首をかしげる。
あまり他者をリスペクトしない霧子が、これほどまでに鍋島には尊敬の念を露わにしている。
それは、初めて見る姿だった。
「肇の走りを見たことがあるのか?」
「中学生のとき、まだ僕が短距離選手だったころに、初めて鍋島さんを見たんだ。今日みたいに補助員として駆り出されたときに、彼がここで県記録新を打ち立てるときに、僕はスタートラインの間近で見ていた」
口ぶりから察するに、そのレースで肇に憧れて中距離に転向したのだろう。
野村もそのレースを自分の目で見ていたから、まだまぶたの裏にその光景が焼き付いている。
他の追随を許さない圧倒的な走りで、最初から最後まで先頭を走り切った彼の姿を。
割れんばかりの会場の歓声にも、数十年ぶりの県記録更新にも眉をピクリとも動かさない彼の表情を。
霧子から内心の熱が漏れ始め、口数が増える。
「正確でどこまでも無機質なフォーム、恵まれていない体格でも最前線で戦える姿、どこまでもドライで揺れることのないメンタル、僕が理想とする選手の在り方が彼には全てあるんだ!」
「その理想相手と比べると、お前のメンタルが弱いのはなんでだ?」
「うるさいな! 理想をすべてマネできるわけじゃないだろ! 僕だってしたくてムラのある走りをしてるわけじゃない! 体格の不利は筋トレとレースプランでカバーしてるし、フォームもずっとずっと改善している! それでいいだろ!」
「それもそうか。俺の失言だな。おっと、仕事に戻らないと怒られそうだ」
周りの目がこちらに向けられているのを察知して、会話を切り上げる。
霧子はまだレースの余韻に浸っているのか、目の焦点があっていない様子で電光掲示板を眺めている。
その姿を見て、野村は内心でため息をつく。
肇はレース展開やフォームを参考にするにはうってつけの存在だが、競技に対する在り方を学ぶには危ない存在だ。
一位という結果にこだわる姿勢は美徳でもあるが、同時に危うさでもある。
当たり前の話だが、一つの大会、一つの種目に、一位は一人しか存在しえない。
勝者が一人な以上、大多数は敗者になるのだ。
もしも、自分が一位になれないと一度でも思い込んでしまえば、競技に向けられる熱量はたちまちのうちに消え去ってしまうだろう。
霧子には、そういった弱さと危うさがある。
指導者として、教鞭をとる者としては、結果と同じぐらいに過程を大事にしてほしい。
積み重ねてきた練習や座学は、一位になれずとも無駄にはならないのだから。
敗者になるということは、決して恥ではないのだから。
また起き上がればいい。
霧子もその辺りを理解すれば、選手としての成熟したメンタルが持てるようになると思うが、口にはしない。
(年寄りの押し付けがましい説教になるからなぁ......熱意はある分、未だに正しい説教の塩梅が分からないな)
来週の県大会に向けてのモチベーションが上がったのか、霧子は今までより真剣に他人のレースから何かを学び取ろうとトラックに視線を送っている。
普段からこれぐらいの熱量で、自分の言うことも聞いてほしいのだが。
指導とはやはり、難しいものだ。
それが、楽しいことでもあるのだが。
未来ある若者達の将来を考えて、野村は一人ほほ笑んでいた。
評価、感想、誤字指摘等していただけると嬉しいです。
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