感情の発露
「一組目の人はレーンに入ってください」
招集場と同様に、ゼッケンと腰番を係の人に見せる。
私は一番外の9レーンだったから、私の点呼が終わると同時に各選手がレーンに入るように促される。
トラックに足を踏み入れる前に、大きく深呼吸して自分を俯瞰する。
緊張はしているが、招集場で感じた怯え混じりの緊張ではない。
許容できる範囲だ。
体は自由に動くし、思考は澄んでいる。
自分のレーンに入り、ゆっくりと自分の立った場所を見つめる。
800mはコーナーから始まるため、それぞれのスタート位置は横一線ではない。
9レーンでは内側の選手の様子が見えず、外側には誰もいない。
最初の100mは一人で走る形になるだろう。
アウトレーンは、ブレイクラインを割ってからインコースに体を入れる際の接触が多い。
そのことはコーチから前もって聞いているため、私の覚悟は決まっている。
(接触上等! 何事も体験体験!)
深く吸っていた息を、大きく吐き出す。
体内に満ちた新鮮な酸素が、私をより集中させる。
コーチのアドバイスも、教えてもらった作戦もしっかりと頭には入っている。
スパートタイミングはラスト一周の鐘が鳴ってから。
それまでは後ろで温存して走る。
細かいレースの駆け引きは、できないからしない。
深呼吸を済ませ、ふとももを力強く叩いて活を入れる。
(さぁ、上條 摩那! 初レース、私をコーチにしっかりアピールするぞ!)
この一か月、コーチにたくさんワガママを言ったし時間をかけてもらった。
それは正当な契約の権利でもあるし、それを引け目に感じたことはない。
ただ、コーチはもらっている報酬に対して結果を出すことを義務だと思っている。
私の体調は小まめに気をかけてくれるし、練習に対しても真摯に見てくれる。
それはきっと、コーチの生真面目さからくる考え方だ。
なら、生徒の私はどうだろうか。
指導の結果を示さなければ、教えてもらう価値がないと判断されても仕方がないのではないか。
小さな記録会とコーチは言った。
それでも、このレースは私にとっての大一番だ。
楽しく、勝つ。
私の価値を見せつけて、これからもコーチにワガママを言ってもいいのだと自分を納得させるためのレースだ。
もう一度大きく息を吐く。
勝負の時間だ。
コーチから譲り受けたスパイクで、トラックに足を踏み入れる。
その瞬間、温度が一気に冷えたような錯覚に襲われる。
露わになった四肢にまとわりつく生温い空気がハッキリと知覚できる。
周囲の観客席から注がれる視線が、私の肌に突き刺さる。
(これが、本番の雰囲気......)
言いようのない焦燥感が心の奥底からワッと湧き上がり、その場から逃げ出したい気分になった。
スポーツの世界に身を置いたことのない私にとって、それは初めての体験だった。
怖い、逃げ出したい、なかったことにしたい。
臆病な自分が叫び始める。
本気で人と争うという実感が、この場に立って初めて湧いてきた。
舐めていたわけでも、油断していたわけでもない。
それでも本番という舞台は、経験のない私の心を容赦なく襲い掛かる。
気圧されてはいけないと顔を叩こうと自分の手が頬に触れたとき、ある事に気がついた。
(……私、笑ってる?)
無意識のうちに口角が上がっていたようだ。
ドクンと、鼓動が大きく跳ねた。
歪んだ唇を手で触り、自分が笑っていることを確認すると、その歪みはさらに大きくなった。
そうか、私は、楽しめる人間のようだ。
怖いし、体は血の気が引いたような冷たさがあるが、それでも私は笑える。
なら、なにも問題はない。
初めての舞台で見失いかけていた自分の原点を、しっかりと胸に抱きしめる。
楽しめる。
それだけで私は走れる。
「各選手、スタート位置前についてください」
スターターの指示に従い、レーンに引かれた白線の前に立つ。
私の価値とかコーチとの契約とか、不純な思考が頭から消えていく。
レースのことだけに、思考が埋め尽くされていく。
これが、本当に集中している状態なのだろう。
「On Your Marks」
その声に合わせて足を白線に合わせる。
中距離以上の種目に、Setの掛け声はない。
次に会場に響き渡る音は、号砲の音だ。
今すぐにでも走り出しそうな足をぐっとこらえて、と耳を澄ませる。
まだ、まだ、まだ、まだ、まだ、パン。
乾いた音がした瞬間、抑えていたばねが跳ねるように私の体が走り出した。
悪くない反応だとか、初めてにしてはいいスタートが切れたとかは思い浮かばなかった。
さっきまでの静寂が嘘のように色んな人の声が空に響いて、私の体が空気を切り裂いて前に進む。
グングンと体が加速するこの感覚は、気持ちがいい。
加速が終わりトップスピードになると、コーナーの終わりが見えてくる。
(コーン! ここからオープンレーン!)
ブレイクライン上にある赤いコーンの通過を確認し、内側のレーンにじりじりと移動する。
アウトレーンから一気にインレーンに入ると他の選手とぶつかる可能性がある。
理想は走りながら確認することらしいが、走ることにいっぱいいっぱいの私にそんな芸当はできない。
私にできることは、事前にコーチと決めた作戦通り走ることだけだ。
(後ろについて、ロングスパート! 後ろについてロングスパート!)
異変に気がついたのは、バックストレートを抜けて第三コーナーに差し掛かった時だった。
眼前に見える光景が、いやにスッキリとしていた。
天幕が並んだ芝生席、水の入っていない水濠、なだらかなカーブが続くレンガ色のタータン。
誰の背中に邪魔されることなく、視界一杯にトラックが映りこんでくる。
(......私が、先頭?)
その事実に気がついたとき、頭が真っ白になった。
これは、ちっとも想定していなかった。
初めてのレースで、最初から先頭に立つことはないと思っていた。
コーチは余裕で勝てるレースと言っていたが、その発言はリップサービスだと考えていたから、こんな展開は頭にない。
前もって立てていた作戦が、全て崩れ落ちていく。
(どうすればいいの? このまま先頭でいい? 一回後ろに下がる? 私の後ろはどうなっているの?)
と思考が形にならず、釣られるように足が重くなる。
余裕のあるはずの肺が苦しくなり、新鮮な酸素を求めて顎が上がる。
まだ立て直せるはずだ。
キツイ練習を積んできて、楽しむと決めてレースに臨んだのだ。
肉体の余裕はまだある、レースは半分も終わってはいない。
まだ、まだ立て直せる。
……どうやって?
ペースを下げて誰かに先頭を引っ張ってもらう?
無理だ、そんな駆け引きができないから最後方からのロングスパートが作戦の根幹になっているのだ。
私は今どんなペースで走っている?
このペースで最後まで先頭を走り続けられるのか?
(どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう──)
パニックに陥った脳では、答えを導くことなどできない。
フォームは不格好に崩れて、唯一の取り柄の姿勢の良さすら曲がりそうになった時、誰かの必死の声が私の鼓膜を揺らした
「そのまま最後まで押せ!スパートタイミングは変わらない! やることは何も変わってない!! 前向いて!!」
ホームストレートに入る直前にある、100mのスタートラインに立っているコーチの姿が見えた。
見たこともない必死の形相で叫ぶその顔が私の瞳に映ったとき、思わず笑みがこぼれてしまった。
鍋島コーチ、そんなに顔を崩して、大声をあげることもあるんですね。
「いつも通り! 練習通り! 摩那さん、行け!」
(──はい!)
心の中で返事をし、上がった顎を引き締める。
崩れかかった体幹がスッと伸びあがり、地面からしっかりと反発をもらえる体勢を維持する。
一度大きく息を吐いて、吐いた分力強く吸う。
新鮮な酸素が肺を満たし、体の隅々に行き渡る。
思考を乱すノイズは消え去って、前だけを見つめてホームストレートを駆け抜ける。
乳酸が体に溜まり、呼吸も体も何もかもが辛くなってきたのに、不思議と口角が上がる。
冷静になった脳が告げる。
今の状況は想定外であったが、最悪な状況ではない。
むしろ、悪くない。
ペースを崩して先頭に立ったわけではない。
自然な私のリズムで走った結果が、先頭になったのだ。
それならば、私の独壇場だ。
自分の慣れ親しんだリズムで走れるのならば、私はそこまでひどいフォームにはならないから。
身体能力だけならば、コーチのお墨付きなのだから。
ラスト一周を告げる鐘が、会場に響き渡る。
その鐘を聞くと同時に、私の体がぐんと加速する。
コーチと一か月間体に染み込ませてきたペースを再現するために、ひたすらに腕と脚を動かす。
(苦しい! 苦しい!)
肺がねじ切れそうな痛みを訴え、ふくらはぎは燃えているかのように熱を発している。
腕は肩から先の感覚がなく、本当に私の体についてるかすら分からない。
視界は狭まり、耳はなんの音も拾わない。
苦しい、辛い、歩きたい。
それでも、私は笑っていた。
(楽しい! 全力を絞り出すこの感覚、楽しい! もっと! もっと捻りだせるはず!)
無我夢中で走り続ける。
景色がどんどんと視界後方に流れていく。
バックストレートを抜けて、最後のコーナーを抜けて、歓声が上がるホームストレートを必死に駆ける。
何も分からないまま体を動かし続け、かろうじて目が捉えた白線に転がるように走り抜けた。
疲れ切った体は姿勢を維持することができずに、ゴールした勢いで本当にゴロゴロと転がってしまった。
「かひゅ! はあっ、あぁ! ごほっ! はぁ! あぁっ!」
酸素を求めて、口からは意味のない言葉が漏れ続ける。
背中からは熱のこもったタータンの熱が伝わってきて、それでようやく自分が仰向けに寝転がっていると自覚する。
息苦しさと、全身の痛みがドッと脳に押し寄せてきてしばらくは寝たままの姿勢で動けなかった。
特に、お尻が横に割れるような痛みが走って身じろぎすらしんどかった。
このまま寝れたら、気分がいいかもしれない。
曇天を霞む視界で眺めながら、そんなことを思った。
(......あぁ、コーチに褒めてもらわなきゃなぁ)
一着でゴールしたのだから、あの堅物なコーチも今回は褒めてくれるだろう。
あれだけ必死に応援してくれたのだ。
この結果には満足してくれるだろう。
「......はぁ、あっついなぁ......」
完全に燃焼しきった体から、滝のような汗が流れ出てタータンを濡らしていく。
体はもうピクリとも動かせる気がせず、満身創痍であった。
こんな無様を晒すまで体を動かしたのは、人生で初めてだと思う。
そうなるほど全力で走った。
楽しいから、最後まで走り切った。
(もっと速く走れたら、もっと楽しいのかな?)
唯一まともに動かせることができる思考は、まだ貪欲に楽しさを欲していた。
私の心についた火はいつまで経っても衰えることなく燃え盛っている。
唇が、また歪む。
もっと、心躍る未来の予感がしていた。
***
「反省会をしましょうか」
「......あの、褒めたりとかはないんですか?」
「褒められる内容だと思ってるんですか? 途中テンパりすぎて頭真っ白になっていたでしょう? 見ていて丸わかりでしたよ」
「うっ......でも、一着ですよ一着! タイムもコーチが想定した2分40秒よりも5秒も速かったんですし、 結果だけ見れば十分褒められると思うんですよ!」
「そこに至るまでの過程がひどすぎます......思い出しただけでお腹が痛くなってきた......人生で一番緊張した......」
「......私、そんな見てて危なっかしいですか?」
鍋島は腹をさすりながら、まだベンチで荒い息をする摩那と会話する。
女子の部門が終わり、これから男子の800mが始まるところだ。
走り終わった女子は、もうほとんどが支度を済ませて去って行った。
今この場にいるのは、これから走る男性の部と摩那だけであった。
アップに余念のない者、真剣に靴ひもを結んでいる者、集中しているのか隅でタオルを被って俯いている者。
色々な人間がこれからの競技に向けて行動しているなか、鍋島は自分の準備もそこそこに摩那へ説教をしていた。
摩那が凹んでいるようなら励ましたが、浮かれている様子なので厳しめにマイナスの点を指摘していく。
鉄は熱いうちに打て。
反省というものは時間が経てば経つほど意識から消えていく。
今が、一番厳しく指導できるタイミングだ。
「まず、スタートダッシュで気持ちよくなりすぎです。あれだけ飛ばしたら、そりゃ先頭に立ちますよ」
「そんな飛ばしてるつもりはなかったんですけど……いつも通りのペースで走ってるつもりではいましたよ?」
「レースはアドレナリンが出てるので、いつも通りに走ると普段より力が出すぎるんです。今回は結果的に一周目がスローペースの展開になったので、最後までスタミナが持っただけです」
「一周目スローペースだったんですか? 必死だったんでよく分からなかったんですけど」
「そのペース感覚のなさも問題ですね。一周目が1分22秒、二周目が1分13秒です」
「おぉ、二周目は良い感じじゃないですか」
「よくないです。これが普通のレース展開なら、ラップタイムが二周目の方が速くなるなんてことはないんですよ。異常なレースだったということは肝に銘じてください」
「走り終わったばっかなのに、コーチは辛辣だ......」
「全体で六番目のタイムでしたからね。約束していた良い結果ではないので、辛めに採点しますよ」
「え、もう分かるんですか?」
「電光掲示板にレースごとのタイムが表示されてましたからね。摩那さんのタイムだけ覚えておけば、上に何人いたか数えるだけです。大会によっては着順ではなくタイムで決勝進出を決めるタイムレースという形式もあるので、自分の出た種目はこまめに電光掲示板を見ておくといいですよ」
「へぇー。走り終わった後に周りを見る余裕なんてなかったなぁ」
「寝転がってましたもんね。次のレースの邪魔になるので、どんなにきつくても走り終わったらコース外までは這ってでも出てください」
「うぅ、分かりました」
ようやく体力が復活してきたのか、摩那はユニフォームの上からジャージを着始める。
いくら強靭な肉体を持っているとはいえ、初めてのレースは相当疲労したようだ。
それでもグロッキーになっている様子はないので、タフなのだが。
「それで、満足はしましたか?」
「え?」
「走ってる最中も走り終わった後も、ずっと笑ってましたね。楽しかったですか?」
「うーん、どうでしょうね?」
「私に聞かれても困るんですが......笑っていたのに、楽しくなかったんですか?」
「いや、楽しかったですよ。でも、なんて言えばいいんでしょう。上手く言葉にできないんですけど、もっと楽しめる気がするんですよ。だから、満足はしてません」
「......向上心があって、大変よろしい」
「えへへー」
力強い摩那の瞳と断言に、鍋島の口元が緩む。
どんな形であれ、一位を取るという体験を摩那はした。
それで満足するようであったのならば、鍋島は家庭教師の契約を打ち切ろうと思っていた。
それで満足するようであれば、小さな記録会に個人でエントリーし親の送迎で出ればいいからだ。
そこに自分が関わる必要はない。
ただ、彼女はもっと上へ行く意思を持ったようだ。
現状への満足は、アスリートを殺す怠惰な感情だ。
絶え間ない向上心だけが、選手としての格を上げる。
素人だった少女は、このレースを通して選手としての心構えを手に入れた。
悪くない。
いや、本心を言おう。
素晴らしい。
この精神をずっと保てるのならば、本当に来年は全国大会も夢ではない。
二か月後の大会も、決勝進出までは可能性が見えてきた。
本人の熱意があるのならば、練習強度を上げることができる。
よりよい食事メニューを、より質の高い練習を、より専門的な座学を。
鍋島の頭が指導者として回転し続ける。
勝つための方法を、勝たせるための指導を。
考えることは無限にある。
「男子800m、最終組の選手はレーンについてください」
青写真を描き始めた鍋島の耳に、係のコールが聞こえた。
補助員の一人がこちらをいぶかし気に見つめている。
何か、あったのだろうか。
……あぁ、自分も走るのだった。
一向に準備をしない自分が不思議だったのだろう。
他の選手はもうレーンに出て、最後のアップをしている段階だった。
鍋島は慌てることなくジャージを脱いで、立花が選んだ黒を基調とした白のメーカーロゴだけが入ったシンプルなユニフォーム姿になる。
スパイクは店頭に置いてある中で、一番高い蛍光色のライムグリーンの派手なものを買わされた。
二年ぶりのスパイクのピンがタータンに食い込む感覚に、選手時代を思い出す。
何回か地面を軽く蹴って、感覚を研ぎ澄ませる。
新品の靴は足裏に馴染んでいるとは到底言えなかったが、問題はない。
いつも通り走るだけだ。
レーンに出る前に、摩那に向かって宣言する。
「800mのお手本を、摩那さんに見せましょう。最終的には、摩那さんにも同じようなレースをしてもらいますからね」
「記録会の最終組って、一番速い人の集まりなんですよね? ブランクのあるコーチに、理想通りのレースはさせてもらえないんじゃないですか?」
「レースに絶対はないですからね。その可能性もなくはないです」
「なら、安定を取った方が──」
「それでも断言しますよ。このレースの一着は──俺だ」
そう言い残し自分のレーンに向かう。
摩那に背を向けた瞬間、心は凪いで顔から表情が消えるのが分かった。
首元をトントンと指先で叩く。
脈拍は乱れることもなく、静かに一定のリズムを刻んでいる。
レーンナンバー標識の前に立った頃には、摩那のことは既に頭から消えていた。
やることは、初めて陸上を知ったあの日から変わらない。
必要なことを、必要なだけするだけだ。
微風、高湿度、曇り、レースコンディションに変わった異常はなし。
二年のブランクで鈍った試合勘も、さして問題はないだろう。
「On Your Marks」
さて、行こうか。
評価、感想、誤字指摘等していただけると嬉しいです。
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