招集、集中、夢中
(ゼッケンよし。ユニフォームよし。体調、すごくよし!)
招集場で荷物を一つ一つ丁寧に確認し、自分の体調も把握する。
ウォーミングアップをしたときも体に違和感はなかった。
朝ごはんもたくさん食べたし、競技の三時間前にも栄養補給は済ませてある。
万全の状態だ。
軽く柔軟体操をしながら、辺りの様子を見渡した。
私の周りには中学生くらいの女子達がおり、皆緊張した表情をしている。
私と同じ、初めてのレースに出る子たちなのだろう。
プログラムには学年も記載されていて、一組に出走する人はほとんどが中学一年生だった。
(皆若いなぁ。私一人だけ、浮いてる気がする)
この少女たちは去年まで小学生だったと考えれば、幼く見えるのも当然か。
視線を近くから、遠くにずらす。
招集場の奥の方には、幾分か大人びた顔立ちの集団ができており、和気あいあいとした雰囲気を醸し出している。
緊張で固くなっている個人と、リラックスして談笑する集団で一つの場所でとてつもない温度差が生まれていた。
アップ中にコーチが言っていたことを思い出す。
『タイムがいい人間は顔を合わせる機会が多くなるから、必然と顔見知りになる。逆に、遅い人間は誰も見向きをしないので一人ぼっちになりがちです。まぁ、摩那さんは気にしなくていいですよ』
この招集場の温度感が、コーチの言っていた言葉の意味なのだろう。
そう思って、顔をパンパンと強く二回叩く。
横にいた少女が驚いたような顔でこちらを見ているが、気にしない。
コーチが気にしなくていいと言ったのだ。
私は、私のことだけに集中するべきだ。
目をつむり、コーチからもらったスパイクを胸に抱きかかえる。
初めてのレース、練習期間はたったの一か月、誰も見向きもしないような小さな記録会。
そんなことは私には関係ない。
コーチに教えてもらったことを、コーチからもらったスパイクで、私が鍛えてきた体で。
全力で楽しむだけだ。
全力で走って、全力で勝ちにいく。
ゆっくりと目を開いた時には、周りのことは気にならなくなっていた。
奥から聞こえる楽しそうな笑い声も、隣に座る青ざめた少女の貧乏ゆすりも、何も私には届かない。
(一周目はゆっくり走って、二周目に入ってからスパートをかける。最後は苦しくなるけど、粘って粘って粘る!)
事前に決めていた作戦を、念入りに頭の中で繰り返す。
コーチに指導される日々を経ても、まだ私は理想の自分の走りというものをイメージできない。
自分が不格好に走っているという自覚すらあまりないし、どう修正したらいいかも分からない。
ただ、想像できないのは私の体の動かし方だけであって、レース展開は想像ができるしラップタイムの計算はできる。
レース展開を、何回も脳内で思い浮かべる。
リズム感のない私が勝つ方法を、運動音痴の私が一着でゴールラインを走り抜ける瞬間を。
負けるという発想はない。
コーチが絶対に勝てると言ったのだから。
緊張や不安はもうない。
コーチがその必要はないと言ったのだから。
気持ちの切り替えと同時に、係員から私の名前が呼ばれる。
「9レーン、ゼッケン8332、上條 摩那さん!」
「はい!」
「ゼッケンはユニフォームの前後についていますね。腰番もよし。スパイクも、タータン用でピンも規定の長さですね。はい、招集完了です。最終招集はスタート地点で行うので、忘れないようにしてください」
Tシャツをまくって事前に着ているユニフォームを見せ、レースで履くスパイクを見せれば招集は完了だ。
レース開始時間までは、あと20分ぐらいか。
体を冷やさないように、かといって疲れすぎないように。
適度に体を動かす必要がある。
この辺りは、個人個人で慣れるしかないらしい。
(もっと、コーチに色々聞いておけばよかったなぁ)
レース直前の水分補給はどの程度飲んでいいのか、スパイクはどのタイミングで履いておけばいいのか、いつユニフォーム姿になればいいのか。
分からないことはたくさんある。
(次回につなげるために、分からないことは全部覚えておこう!)
表情は真剣に、それでも足取りはいつもより軽く招集場を後にする。
分からないことがたくさんある。
それは、成長の種だ。
分かるようになった時、私はまた一つ成長するのだ。
あぁ、楽しみだ。
今から始まるレースも、将来の自分の姿も。
いつかはあの日見たコーチのように、自分も綺麗に走るのだ。
***
「問題はなさそうだな......」
女子800mの後にある種目は、鍋島が出場する男子800mだ。
レース時間がズレているため摩那と別れ一人で行動していたのだが、早めにアップを切り上げて招集場に来て摩那の様子を見に来ていた。
バレないようにこっそりと招集場を眺めている姿は不審者に違いないが、摩那の集中の邪魔になりたくはなかった。
摩那は最初お上りさんのようにきょろきょろと落ち着きがなかったが、頬を叩いた辺りからスイッチが入ったのかいい集中ができていた。
口元が歪み、悪役のような微笑みをずっと浮かべていたのが気になったが、集中した人の姿というのは十人十色だ。
摩那は深く集中すると笑みがこぼれるタイプなのだろう。
悪くないタイプだ。
競技において、集中とは大きく分けて二種類ある。
自然と意識が深くまとまるタイプと、意図的に集中状態を作り出そうとするタイプ。
前者が理想的ではあるのだが、人間の意識とはそこまで便利ではない。
天候、周囲の雑音、体調、外的要因でも内的要因でも思考というものはまとまりが乱されて、一つになることは難しい。
そのために、自分が集中できるトリガーを作ることが大事になってくる。
いわゆるルーティンというやつだ。
摩那の様子を見るに、頬を叩くことと笑うことが集中するのに必要な動作のようだ。
どちらも意図的に行いやすい行為であって、普段からも取り入れやすい。
だから、悪くない。
練習でも集中しているときは笑っているし、次の練習からはその辺りのメンタルコントロールも意識させていこう。
そう考えながら鍋島は女子がはけ始めた招集場に入り、ベンチに腰をかけ自分の名前が呼ばれるのを待つ。
しばらくしてから、ぞくぞくと同じ競技に出場する選手たちが集まり、やがて点呼が始まった。
(摩那さんのレースは見れそうだな)
順調に点呼が進む様子を見ながら、スタート地点で最後の準備をしているであろう摩那のことを思う。
最初の予定であれば鍋島は棄権をして、スタート直前まで摩那の近くにいるつもりであった。
ただ、立花のダル絡みの結果ユニフォームとスパイクを買ったし、摩那本人の強い要望で結局棄権せずに走ることになった。
『ぜっっっったいに出た方がいいですよ! 私もコーチの走る姿見たいですもん!』
朝一に、エントリーだけは済ませてあることを伝えると、摩那は瞳を輝かせてそう言うのであった。
自分なんかの走りを見て、本当に楽しいのだろうか。
そう考えて、野村に卑下する癖は直した方がいいと言われたことを思い出して頭を振る。
「5レーン、ゼッケン8333、鍋島 肇くん!」
「はい」
名前を呼ばれると、鍋島の頭はスッと冷たさを取り戻す。
鍋島に、集中するためのルーティンは必要ない。
必要なこと、必要なだけする。
楽しいかどうか、そんなものは自分にとってはどうでもいいのだ。
立花と一緒に選んだユニフォームと派手なスパイクを係員に見せ、淀みなく招集を済ませる。
あとは、レース直前に行われる最終招集だけだ。
招集場を出てトラックを見ると、もうすぐ女子800mが始まるタイミングであった。
ホームストレートの奥に、黒のユニフォームに身を包んだ摩那がいた。
その姿を捉えた瞬間、競技者としての自分はどこかに消えてギリリと胃が痛くなった。
(......初めてするタイプの緊張だ。見るのが怖い)
鼓動が速くなり、息が浅くなる。
摩那が一位を取れるという確信はなくなってはいない。
鍋島が怖いと思うのは、レース内容だけだ。
練習はいつも鍋島とマンツーマンであったから、摩那は二人以上で走るのは今回が初めてになる。
(怪我だけはさせないでくれよ......)
摩那の心配はしない。
相手が中学生なら、軽く弾き飛ばせるだけのフィジカルが摩那にはある。
接触によって相手を怪我させたり、レースがトラウマになることの方が怖い。
野村からのアドバイス通り、摩那個人の理解を深めようとしてから分かったことが一つだけある。
彼女は、初めてのことでもアクセルをベタ踏みできる、ブレーキがイカレている人間であるということだ。
接触は怖がらないだろう。
レースも全力で走り切るだろう。
それが良い方に転ぶか悪い方に転ぶかは、鍋島には分からなかった。
神のみぞ知る結末だ。
「ただいまより、女子800mタイムレース、予選一組目を開始します」
アナウンスの声がスピーカーから流れる。
無意識の内に胸の前で組んだ両手に気づいて、鍋島は初めて何かに祈るという体験をした。
***
「はぁ、帰って体を休めたい」
「なんだ、もう飽きたのか。霧子は堪え性が足りんな」
「格下のレースを見て何を学べって言うんだ?」
「真の上級者というのは全てから学びを得るものだ。それに、他人を格下と侮れるだけの格を姫井 霧子君、君は持ち合わせてはない」
「......ちっ」
椅子に深くもたれかかり、悪態をつく教え子に野村は強い言葉を吐く。
霧子は聞く耳をもたずに、ぼんやりと天井を見つめている。
その様子を見て、野村は内心頭を抱える。
霧子のその態度は一見、不真面目な人間そのものだ。
年上の忠告を聞き流し、自分の意にそわない行為には不機嫌を隠すことをしない。
ただ、それは性格の悪さからくるものではない。
思い込みが強く、自分が勝てる側という自信が持てない。
今も野村のアドバイスを聞くよりも、インターハイまでのイメージトレーニングに夢中になっているのだ。
帰りたいというのも建前で、本当は練習がしたいのだろう。
霧子が抱える問題の大部分は、メンタルの弱さからくるものである。
精神的な弱さゆえに余裕がなく、何かに強迫されているように練習に取り組む。
それを解消するために野村は色々な方策を試しているのだが、タイムがよくなるばかりでメンタルが改善される気配が一向にない。
今回連れてきたのは座学の一環であるのだが、隠れて練習することを防ぐ試みでもあった。
肇が練習に参加するようになって多少はマシになったが、改善というにはまだ程遠い。
県規模の大会であれば、自信が持てるのか笑っていい走りができるのだが。
「女子800mが始まるな......いい機会だ、霧子。800mという競技を説明してみろ」
「はぁ? それになんの意味があるんだ?」
「お前がどれだけ競技を理解しているかのチェックだ。まさか、自分が走っている競技の特性を知らないとは言わせないぞ?」
「......最初の100mまでレーンを走って、ブレイクラインを越えたらオープンレーンになる。200m過ぎの第三コーナーに入るまでに、前目の位置取りをするのが重要な競技だ。理想は先頭の右後ろ。風除けにも使えて、前が垂れてきても即座に抜くことができて、後ろからのスパートに反応できる場所だからだ」
「それで? お前はどういうレースが理想なんだ?」
「僕は短距離型の体だから、ロングスパートはできない。逆にラスト200mまでに先頭から離れなければ、ホームストレートのスパート勝負で負けることはない。先頭付近でスローペースのレースメイクできるのが理想だ」
「ふむ、流石に自分の勝ち筋は理解しているか」
スラスラと喋る霧子の言葉に大きく頷く。
極端な理想を言えば、最初から最後まで先頭を走り続けることだが、そんなことが許されることは滅多にない。
大きく実力差が開いているか、よほど展開がうまくかみ合うことがない限り見られない。
基本的に目指すべきレースとは、いつでもスパートをかけられる場所取りをしつつ先頭に風除けをしてもらうことだ。
そのために各選手で作戦を立て、レース中に駆け引きが繰り広げられる。
接触、ロングスパート、大逃げ、デッドヒート。
調和のとれた集団が、目を離した瞬間に混沌として入り乱れる。
それが中距離の醍醐味だ。
これから行われるレースは、どんな展開が繰り広げられるのか。
トラックの方に目を向けると、ぞろぞろとユニフォーム姿の選手が自分のレーンに向かうところだった。
「一組目に上條がいるのか。肇め、提出書類にでたらめなタイムを書いたな......まぁいい。お手並み拝見といこうか」
「はっ、どうせ大したタイムじゃないさ。あんな運動音痴」
「なんだ、喧嘩でもしたのか? こないだは仲良く話してたじゃないか」
「仲良くない! 好きな人があいつのことを好きだったんだ。あいつなんて大嫌いだ!」
「......霧子も恋愛するんだな」
「......あっ!」
盛大に口を滑らせたようだ。
日焼けした肌の上からでも分かるほど真っ赤になった姿を、野村は愉快そうに見つめる。
あごひげをいじることで笑わないように自制していたが、霧子は恥ずかしさのあまりこちらを見ることができないようだ。
こういったドジなところがあるから、悪態をつかれても霧子のことをあまり嫌いになれない。
もう一皮むければ、選手としても人間としても成熟するのだが。
なにかきっかけが欲しいところだ。
「上條は、霧子のライバルになれるかな?」
「......どうでもいい」
「嫌いじゃないのか?」
「今は、アンタの方が嫌いだ」
「くっくっくっ、今は、か」
からかってみたが、霧子は反応せずにトラックの方を向いたままであった。
それならそれでいい。
レースさえ見てくれていれば、学習にはなるのだから。
「さて......」
野村も霧子と同じ方角に視線を向け、一番外のレーンで大きくジャンプをして体をほぐしている少女を瞳の中心に捉える。
慣れていない動きなのか、ぎくしゃくとしてあまり綺麗な形ではなかったが、バネのように弾む肉体は素質を期待させる。
運動音痴なことは一目見ても分かる。
それでも、目を惹かれるほどの才能の原石がそこにはある。
自分が指導したかった人間のポテンシャルを見る機会をくれた肇に心の中で感謝する。
野村は、人を見る目はあると自負している。
その目が、合っていたのか間違っていたのか。
久しぶりに、号砲が鳴る瞬間が待ち遠しいと野村は思った。
それに、上條以外にも今日はもう一つ見たいレースもある。
楽しい時間になりそうだ。
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