スタートライン
「あわわ、あわわ。コ、コーチ、どうしましょう」
「口であわわって言う人を初めて見ました」
「私、場違いじゃないですか? 浮いてませんか?」
「場違いって言ったら、どうするんです?」
「......どうしましょうね」
「そうであろうとなかろうと、やることは変わりませんよ。あ、ペグ持っててください」
天気は薄曇り、気温は高くないが前日に降った雨のせいで湿度は高い。
一日中どんよりと曇り続ける予報であるから、汗はかくが走りやすい日にはなるだろう。
手に持ったペグを芝生に打ち込み、折り畳みテントを固定する。
周りには鍋島以外にも、大がかりな天幕を少年少女が協力しながら組み立てている姿が見られる。
「ま、こんなものですか。貴重品は基本的に私が管理するので、それ以外の荷物はここに置いておいてください」
「分かりました! 私、テントに入るの初めてです!」
個人用のちんまりとしたテントではあるが、人目を避けて寝ころぶことができるサイズはある。
ロープを張り終えると、摩那が歓声をあげながらテントの中に入って行く。
そんなに興奮するほど設備が整っているわけではない。
地面の冷たさが伝わらないようにマットが敷いてあるだけの簡素なものだ。
記録会で使用される競技場は、ホームストレートに設置されたスタンド席と、コースの周囲に作られた芝生席の二つに分かれる。
芝生席はトラック内の芝生と違って細かく管理されているわけではなく、常識から逸した範囲でなければペグを打ち込んだり重たいテントを立てる行為は自由である。
第一コーナーの芝生席にテントを立てる鍋島の周りにも、トラックを挟んだ向こう側の芝生席にも似たようにテントを立てる人の姿であふれている。
学校の名前が書かれたのぼりを設置する生徒、補助員として大会の運営を手伝う生徒、朝のウォーミングアップのためにトラックに挨拶をする生徒。
見慣れた光景が眼前に広がり、鍋島は奇妙な安心感と高揚感を覚える。
テントを満喫した摩那が荷物を置いて出てくる頃には平常心に戻っていたが、足はすこしうずいたままであった。
「着替えとかいらない荷物は置きましたよ」
「スマホや財布などの貴重品は?」
「財布は今日は小銭しか持ってきてないので大丈夫です! スマートフォンも、お母さんに預けてきたので今はないので気にしなくていいですよ」
「分かりました。さて、今日の流れを確認しましょうか。マットに座ったままでいいので、聞いてください」
「はい」
「今日は記録会当日ということで、市の競技場に来ています。夏の大会もここの競技場で行われます。今日のうちに設備の把握は済ましておいてください。受付はもう済ませてあり、今日のプログラムをもらっているので後で目を通しておいてください」
「プログラム......あぁ、日程表のことをそう呼ぶんですね。へー、走る人の名前と学校名が全員分書いてあるんですね! あ、私の名前も書いてありますよ!」
「注目すべきところはそこではなく、競技開始時間と招集時間ですね。競技の進行は落雷などの天候トラブルがない限り、その時間通りに絶対に進行されます。招集時間も同様に厳格に時間が決められており、その時間までに係の人間に受付を済ませなければいけません」
「厳しいですけど、そうじゃないと一日で終わりそうにないですもんね。これだけの競技があると、大変そうです」
当たり前の話ではあるが、大会には大勢の人間の協力があって成り立っている。
各学校には参加人数に応じて補助員の選出が義務付けられているし、審判以外の運営にはボランティアとして参加してくれている人もいる。
円滑な運営のために協力するのは選手としての責務である。
招集時間に遅れて失格になった、というのはよくある話であるし同情の余地はない。
鍋島が見ているとはいえ、摩那にはそういった凡ミスがないようにしっかりと教え込む。
「女子800mの競技開始時間は12時30分に一組目スタート、招集時間は30分前の12時ちょうど。この時間は特別なアナウンスがない限り絶対です。守れない人間は出場できないので、厳守でお願いします。レース開始前にも最終招集があるので、係の人の呼びかけも注意してください」
「うぅ、時間に遅れたことはないですけど、緊張しすぎて声が聞こえなくなりそうです」
「夏の本番はもっと人がいるんですから、これぐらいの規模には慣れていただかねば困りますね」
「今もたくさんいるように見えるんですけど、夏はもっと多いんですか?」
摩那が周りを見渡して、普段とは違う弱々しい声をあげる。
一番最初の競技が始まる前の時間であるからスタンド席には空きが目立つが、トラックには既に多くの選手が各々動いている姿が見える。
これより人数が多い光景を想像して弱気になっているらしい。
さっきまでは楽しそうにテントを満喫していたのに、ころころと変わる表情だ。
「今日は市が主催であり、あくまで対象は市が所属する地区だけです。夏の大会は県が主催で、県内の選手がほとんど集まりますからね。日程も二日間に分けての開催なので今日なんか比じゃないですよ」
それに、摩那には言わないが今日の記録会は位置づけとしてはどうでもいいものだ。
主力の学生は5月の半ばにある県大会に向けて調整を始めており、レースで調整するタイプの選手しか出てこない。
今日の主な出場選手は、県大会まで駒を進めることのできなかった学生か、参加できる大会が少ない個人で続けている社会人ぐらいだ。
よくトラックを見てみれば、空気はどこか弛緩していて身を刺すような緊張感というものが欠けている。
競技というよりも、イベントに近い朗らかな雰囲気である。
地方の記録会は、負けても失うものはないと思っている者やお遊び気分で来ている者が多い。
これぐらいの雰囲気で、ビビってもらっては困る。
「この程度で──」
「? コーチ?」
摩那に口を開こうとして、口をつぐむ。
記録会とはいえ、摩那にとっては初めての公式のレースなのだ。
緊張するのは当然だ。
鍋島にとっての当たり前は、摩那にとっては全て新鮮に見えるだろう。
野村に教わった指導力とは、相手のことをしっかりと見ることであった。
摩那の目的はなんだ?
自分がすべきことはなんだ?
首筋に指を当て、脈拍を測る緊張したときのおまじないをする。
いつもより鼓動は若干速い。
久しぶりの競技場で、知らず知らずのうちに自分も気が逸っていたのかもしれない。
深く息を吸って、意識を切り替える。
でかい大会だろうと、小さな記録会だろうと、摩那には関係ないはずだ。
「そんなに緊張していたら、楽しめませんよ? 待ち望んだ楽しく勝つ舞台ですよ。笑っていきましょう」
「............はい! 分かりました、鍋島コーチ!」
「良い返事です。約束は覚えていますね?」
「私が結果を出したら、呼び捨てにしてくれるんですよね!」
「えぇ。組で二着、全体で五位以内に入れたら良い結果としましょうか」
「よーし、燃えてきたぞー!」
楽しみたい。
それが摩那が走る全てだ。
それだけは、自分は絶対に忘れてはならない。
そして、陸上のレースが楽しめるかどうかは、全ては今日の摩那次第だ。
「開会式っていつからやるんですか?」
「記録会は開会式ないですよ。開催者がスピーカーで挨拶して、終わりです。格式ばった大会じゃないから、サクサク進行しますよ」
「えっ、そうなんですか!? 折角出る初めての大会なんだから、出たかったのに!」
「......前から思ってましたけど、形から入るタイプですよね、摩那さんって」
「だってその方が、楽しいじゃないですか」
「うーん、人によると思いますけどね」
すっかりといつもの調子になった摩那をつれて、トラックの縁に立つ。
摩那もトラックに入るのではなく、鍋島の横に立って背筋を伸ばしている。
教えたことは頭から抜け落ちていない。
どうやら、ちゃんと落ち着いてきたようだ。
「「よろしくお願いします!」」
トラックに、二人で挨拶をする。
さて、今日はどうなることやら。
「そういえば、コーチは走らないんですか?」
「エントリーはしてますよ」
「え! 私聞いてないですよ!?」
「言ってませんからね。自分の走りに集中してください。ほら、よそ見してるとぶつかりますよ」
***
「やぁ、肇。やっぱり選手に復帰してるじゃないか。プログラムに名前が載っているから、出るんじゃないかとワクワクしていたよ」
「直前まで棄権するつもりだったんですけどね。どうせエントリーしたなら、出た方が得かと」
「素直じゃないね、相変わらず。楽しみにしてるよ。肇の走りにも、君の教え子の走りも」
「摩那さんの方は期待しないでほしいですね......」
「くっくっ、体験入部のときからどう変わったか、特等席で見物させてもらうよ」
運営本部の奥の席で、野村が喉を鳴らして低く笑う。
その周りを、大会スタッフを示すオレンジ色の帽子を被っている人間が忙しく動き回っている。
本来は一般人は入ってはいけないのだが、運営スタッフに縁がある人間は鍋島のように挨拶のために足を踏み入れることがある。
芳志高校は今回記録会には参加していないが、野村は国体のスカウトも兼ねてほとんどの大会には審判として参加している。
鍋島が中学生だったころから変わらない習慣だ。
横をチラリと見ると、同じくオレンジの帽子を被った姫井が不貞腐れて地面を見つめている。
「......なんで姫井さんもいるんですか?」
「見ればわかるだろ。補助員だよ。ビデオ判定係さ。本当なら休みなのに、無理矢理つれてこられたんだ」
「県大会の調整はいいんですか?」
「メンタルトレーニングと座学の一環だよ、肇。これから全部のレースを見て、一位の良かった点と悪かった点を考えさせるんだ」
「はぁ、面倒すぎる」
「......頑張ってください」
今から行われる苦行を想像してか、姫井の表情はげっそりとしていていつもの覇気がない。
あまり深入りして、変に絡まれても面倒くさい。
挨拶は済ませた、もう長居する意味はない。
そそくさと運営本部を後にして、摩那が待っているテントに戻る。
トラックは競技開始直前のため、もう走っている人はいない。
審判と補助員が指定の位置につき、最後のチェックを行っている。
試射の号砲が曇り空に響き、電光掲示板にはテスト表示が流れる
弛緩していた会場の空気が、段々と張りつめていくのを感じる。
五月の頭、この記録会が初めてのレースとなる人も多いだろう。
最初は初めての競技場に浮かれていた気分も、ようやく地に足がついて実感が湧いてくるころか。
さて、うちのは委縮していなければいいが。
「あ、コーチお帰りなさい! もうそろそろリレーが始まりますよ! 四継っていうんですよね、4×100mリレーって」
「......楽しめと言いましたが、観客気分になりすぎでは?」
「だって、まだアップまで時間あるのに今から緊張していたら身が持たないじゃないですか!」
「それはそうですが」
摩那は萎縮するどころか、ただの観客のようにキラキラと目を輝かせてトラックを見つめていた。
これから始まるリレーを単純に楽しみにしているようで、プログラムに目を通して一人一人の名前を確認している。
……まぁ、いいか。
「それじゃあ、私は車の中にいるので何かあったら来てください。アップ前にはテントに顔を出すので、はしゃぎすぎないように」
「え? 一緒にテントで見るんじゃないですか?」
「一人用ですし、マットもブランケットも一人分しか持ってきてないので」
「詰めれば二人座れますよ! ブランケットも結構デカいですし、横で色々教えてくださいよ、コーチ!」
「いや、狭いでしょう?」
「狭いのは太一で慣れっこなので大丈夫ですよ?」
テントの入口に置いたマットをポンポンと叩き、摩那が横に座るように促してくる。
琥珀の瞳には一切の濁りはなく、ただ思いついた言葉をそのまま口にしただけのようで深い意図はなさそうだ。
年の近い異性と、肌が触れそうな距離にいることに抵抗はないのだろうか。
兄と弟で慣れているのか、単純に男として見られてないのか。
ここで意固地になって拒否するのは、自分だけが意識しているようで滑稽に見える。
諦めて、あまり座り心地の良くない固いマットに腰を下ろした。
ふわりと金木犀の香りがして、鼓動が一つ大きく跳ねる。
立花からは嗅いだことのないような、女子らしい甘い匂いは否が応でも鍋島の意識を固くさせた。
人付き合いが得意ではない鍋島には、少しでも身じろぎをしたら肌が触れるこの距離は非常に慣れないものだった。
……立花だと思い込もう。
彼女はもっと近い距離感で鍋島に接してくるのだから、それを考えれば問題ないはずだ。
「あ、人が出てきましたよ。あれ、2走の人たちが地面に何か貼っていますよ?」
「……あぁ、スタートする目安です。バトンを受け取る際に、自分がどのタイミングでスタートすれば全力で走ってくる前走者と良い位置でバトンパスができるかあらかじめ決めておくんです」
「へぇー、よく見たらスタートの人以外は、皆貼ってますね。コーチは物知りですねぇ」
ダメだ、立花と比べたら可憐すぎる。
言動や好みがオッサン臭い立花と、素直な摩那では比較にならない。
グルグルと思考が取り散らかりながら空回りし続ける。
今さらだが、女子高校生と二人きりというのはマズいのではないか?
今回は芳志高校がいないからいいが、いつかは練習場や大会でバッティングする日が来るだろう。
その時に、鍋島と摩那が二人でいる姿は良からぬ噂の種になるのではないか?
今までは気にならなかった人の目が、段々と気になり始めてきて少し顔が熱くなる。
幼稚な精神を自覚して、さらに気恥ずかしさが募る。
摩那の視線がトラックに釘付けなことだけが救いだった。
人生で一番の緊張を覚えていると、会場に設置されているスピーカーから無機質な声が響いた。
「On Your Marks」
ざわついていた会場が、その一声で物音一つ聞こえない静寂に変わる。
どうやら全ての準備が終わったようで、リレーの一組がスタートするようだ。
バトンを持った人たちが、それぞれスターティングブロックに脚をかける。
「Set」
号砲が曇り空を切り裂いた。
それに呼応するように、弾丸のように一斉にスターティングブロックから人が疾走する。
応援の歓声が会場全体から地鳴りのように轟く。
「わぁ......始まりましたね、コーチ! 私、本当にココで走るんですよね!」
「えぇ、そうですよ。少なくとも、今日を入れて二回。望めば望むほど、レースする機会はあります」
「その一歩が今日......ドキドキしてきましたよ!」
摩那が鍋島の手を取って、ぶんぶんと大きく振った。
伝わる手のひらの温もりに、思わず小さく笑いがこぼれてしまった。
なんと無垢で、熱い手だろう。
バカらしい、何を意識してたんだか。
ここにいるのは、一人の陸上選手だ。
くだらない噂など、走りで吹き飛ばしてしまえばいい。
そう、自然と思えた。
握られた手に、力を込めて握り返す。
「では、その一歩は大きく踏み出しましょうか」
「え?」
「走るだけが練習ではありませんからね。自分のレースまで、人の走りを見てフォームの良し悪しを勉強しましょう。やることと覚えることはたくさんありますよ。実りある一日しましょう」
「……なんか、急にスパルタのスイッチ入ってませんか、コーチ?」
「そういう気分になったので。嫌ならやめますが?」
「いえ、いえ! どんとこいですよ! ふふ、夏の私が楽しみだなぁ!」
こうして、小さなテントで一人の少女の陸上人生の第一歩が踏み出された。
同時に、本当の指導者としての自分が始まった気がした。
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