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ぶちかませ800   作者: アストロコーラ
陸上を始めよう

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13/28

 野村との交流を済ませて、鍋島は目の前の問題の解答を得た。

 指導力という曖昧な指標に頼るのではなく、対象となる相手をしっかりと見つめること。

 相手に応じた練習メニューを作っていたつもりであったが、それは肉体面だけの話だ。

 摩那という一個人に寄り添った指導ができていたかと問われれば、鍋島は首を横に振るしかない。

 優れた身体能力も、救いようのない運動音痴も、出力された摩那の一面でしかない。

 鍋島はいまだ、摩那を理解とは程遠い位置にいる。

 四月の終わりという、比較的早い時期に問題にぶつかりそれを解消することができて良かった。

 夏の大会まで二か月、十分に理解する時間はある。

 ……そのはずだ。

 自信がないのは、目の前の少女を自分が理解できるとは思えなかったからだ。


「あの、摩那さん?」

「ぷいっ」

「何で怒ってるんですか? そんなふくれっ面されても困るんですけど」

「自分の胸に問いかけたらどうですか? 褐色ボクっ娘に言い寄られていい気分になっていたその胸にね!」

「別に良い気分ではなかったんですけど......」


 どうやら姫井の一件をまだ引きずっているようだ。

 そっぽをむいた摩那に、困惑の声が漏れる。

 逆スカウトの日から数日経っているのに、顔を合わせるたびにこうやって怒りの意思表示をされるので鍋島は困り果てている。

 練習の時はいつも通り素直であるし笑顔が見られるのだが、練習終わりにはまた不機嫌な様子を態度に出してくる。

 信頼はされているのだと思う。

 怒りのような不機嫌な感情を隠すことなく全面にアピールしてくるのは、不器用な子どもの甘え方だと塾長から教わったことがある。

 高校生がやる仕草にしてはずいぶんと幼いが、摩那もまだ子どもの範囲であることは間違いではない。

 自分より年上の立花が同じ仕草をするなら即座に張り倒したが、年下の摩那がするには可愛いものだと流せなくもない。

 それでも、多少の仕返しをしたくなるのは自分も思ったより幼稚な精神なのだろう。


「そんなに不貞腐れてるなら、本当に姫井さんに鞍替えしますよ。摩那さんより運動できそうだし、教え甲斐がありそうだ」

「なぁっ! コーチの薄情者! 冷酷人間!罪悪滔天(ざいあくとうてん)! 」

「意味の分からない四字熟語で暴言を吐かないでください。反応に困る」


 よく分からない四字熟語ではあったが、漢字の雰囲気からして多分悪口だろう。

 いつものように夕方に練習場に来ているのだが、トラックを目の前にしても摩那は不機嫌のままだった。

 トラックについた時は今すぐにでも走りたそうな顔をするのに、今日は雰囲気が違った。

 無言のまま摩那を観察していると、顔をそらしたままの姿勢で瞳だけがチラチラとこちらを見ている。

 ……あぁ、会話はしたいのか。

 期待に満ちた目は、何か鍋島からの言葉を待っているようだった。

 察しはしたが、別にそれに付き合う義理はない。

 どうして摩那が面倒くさいことをしているのか、鍋島は直球で問いかける。


「摩那さん、今週が記録会だからって、緊張してますね?」

「ぎくっ」

「はぁ、記録会は別に大したものではないと何度も言っているでしょう。今からそんなに身構えなくてもいいですよ」

「だって、私の初めてのレースですよ! 緊張しないほうが無理ですよコーチ!」


 摩那の練習を見始めてから一か月、もうすぐ四月が終わり五月になる。

 今年は例年より暑い日々が続くようで、春だというのに夏日になる日もあった。

 日差しの熱をため込んだタータンはひどく熱く、その上に立っているだけで体力を奪われていく。

 摩那はいつも通りの黒いジャージの裾をぎゅっと握って、タータンの上で立ち尽くしている。

 まだウォーミングアップも済ませていないというのに、額にはじんわりと汗をかき始めていた。

 熱さだけではなく、週末の記録会を想像して緊張しているせいもあるだろう。


(緊張か。こればかりは、慣れてもらうしかないな)


 鍋島にとって、記録会というものは緊張の対象にはなり得ない。

 摩那と鍋島では、記録会というものの認識が違っているからだ。

 記録会とは()()()()()()()()()()()()、鍋島にはそれぐらいの認識でしかない。

 なぜなら、記録会で一位を取ったところで上に繋がる大会なわけでもなく、全国や国体の選抜対象外になりがちだからだ。

 全国大会への参加条件となる標準記録突破とは、どのタイミングで出してもいいというわけではない。

 指定された大会で、好タイムを残すことが求められるのだ。

 つまり記録会とは、一位を取ろうが良いタイムを叩き出そうが、何の影響もない大会ということになる。

 これは鍋島だけの認識ではなく、陸上競技の上位勢はみな似たような考えを持っている。

 あくまで県大会などの大きな大会に向けての仕上がりや調子を確かめる場であって、全力で挑む場所ではないのだ。

 ただ、固い表情をした摩那にそれを言っても納得しないことは鍋島も理解していた。

 摩那の緊張を解くために、すぐに練習を始めることなく言葉を紡ぐ。


「いらない緊張をしているようなので気が楽になるようなアドバイスをしましょう。摩那さんは記録会、絶対に一位になれますよ。余計な心配などしなくても、これは確定事項です……なんで褒めてるのに、顔をしかめるんですか?」

「コーチが私を褒めるときは、大抵裏があります。今回はなにがあるんですか?」

「心外ですね。摩那さんのことは本気で高く見積もってますよ。だから野村先生にも頭を下げて指導方法を教わったりしてるんです」

「むぅ。それはありがたいんですけど......じゃあ、本当に心から一位を取れるって信じてくれてるんですか?」

「えぇ、もちろん信じてますよ」


 鍋島の一言に、摩那の表情がいくらか和らいだ。

 鍋島は摩那を信じているというよりも、自分の言葉を確信していると言った方が正しい。

 記録会の仕組みを理解しているから、摩那が負けるはずがないと。


「だって、同じ組には速い選手がいませんからね」

「へ?」

「記録会は名前の通りタイムだけを狙う会になります。そのため、一般的な大会のようにランダムに組み分けされるのではなく、実力が近い人が集まるようにレースの組み分けがされます。摩那さんは一組目、誤解を恐れずに言うならば、一番タイムが遅い人たちの組になります。摩那さんの今回の目標タイムが2分40秒切りだとしたら、周りは3分で走れるかどうかというレベルです。負けるわけがない」


 800mで20秒も差があれば、恐らく独走状態になるだろう。

 一番速い組で独走ならば称賛に値するのだが、遅い組でそれをやったところで意味はない。

 自分と同じ実力の人間と競い合う機会を失ったわけであるから、独走する方もされる方もいいことではない。

 これは単純に、鍋島のミスである。

 大会の申請時には、出場する選手の自己ベストを記入する必要がある。

 その際、摩那のように公式記録のない人間はおおよその目安で提出することになる。

 記録会を申し込んだタイミングではまだ摩那の身体能力を見る前だったため、その目安を鍋島は低く見積もりすぎた。

 その結果、摩那は一組へ振り分けられてしまった。

 摩那のような逸材が他に埋もれている可能性もなくはないが、鍋島が出走表を確認した限りそういった選手はいそうにない。


「だから、緊張する必要はないんです」

「結局裏があるじゃないですか! 私の実力だけで勝てるわけじゃないですよ、それって!」

「実力がない人間は遅い組でも勝てませんよ。ちゃんと摩那さんの実力ですから、安心してください」

「あんな話を聞いた後だと、手放しで喜べませんよー!」


 摩那は鍋島の首元を掴んでぐわんぐわんと体を揺すってくる。

 男兄弟がいるからだろうか、摩那は鍋島に触れることに抵抗があまりない。

 先ほども思ったが信頼されている、そう思えば悪くないのかもしれない。

 ……いや、力強いな。

 揺れる視界の激しさに、段々と気分が悪くなる。


「酔う、摩那さんやめてください。酔う」

「そのまま吐いてください! 私に隠していること悪だくみしていること全部吐いてください!」

「待って、本当に、うっぷ」


 太一がゴリラと言っていた理由が、今更になって理解できた。

 体幹がしっかりとしているから、パワーを発揮しやすいんだろうなぁ。

 気持ち悪くなりつつも、頭はぼんやりと摩那のことを評価していた。

 がっしりと握られた肩からは力と熱が伝わってきて、ふりほどくには鍋島も相当力を入れなければいけない。

 運動音痴がここでも出ているのか、テンポ悪く不規則に揺すられる体は気持ち悪さを加速させている。


「吐けーー!!!」


 摩那の叫び声が、初夏を迎えつつある空に響き渡った。

 揺らされている頭にその声がガンガンと響いて、本当に吐きそうになった。


 ***


「......どうしたものか」


 自分の部屋で、こたつの上にあるA4サイズより少し小さい長方形の布を穴が開くほど見つめる。

 四桁の数字が書かれた見慣れたそれは、ゼッケンだった。

 摩那を陸上競技連盟に登録したとき、ついでに自分の分も登録したのだ。

 鍋島としては、選手として復帰することは考えていなかった。

 記録会にもエントリーしているが、それは走りたくてエントリーしたわけではない。

 レースをする会場にて、選手でなければ使用できない施設やサブトラックの説明を摩那にするためについでにエントリーしただけで、自分のレースは直前で棄権するつもりだった。

 だから、本当は悩む必要など一切ないのだが。

 心の奥底で、じゅぐりと傷が痛む。

 膿んだまま未だ治らない傷が、気だるげな熱を発して思考を鈍らせる。

 未練? 後悔? 執着?

 競技者としての自分に、そこまでの熱量はもう持っていないはずなのに。

 理解ができない痛みと熱が、延々と過去の敗北を反芻し続ける。

 勝てない競技者に、価値はない。

 だから、勝てなかった自分の陸上人生に価値はない。

 ……それなのに、まだ体は走りたがっているようだ。

 摩那さんや姫井さんを見てきたからか、その熱にあてられているのかもしれない。

 本心から楽しんでいる摩那と、焦りの中でも勝ちを諦めきれない姫井。

 きっとこの気持ちは、その二人のせいで芽生えた錯覚だろう。

 自分の本心ではない。

 そう結論付けて、棄権することを決意しゼッケンを捨てようとしたとき、玄関のドアが乱暴に開いた音がした。

 ノックもチャイムもなしに無遠慮にドアを開ける人間を、鍋島は一人しか知らない。

 強盗ですら、もう少し慎み深く開けるだろう。

 足音うるさく、主のように我が物顔で部屋に入り込んでくる女を見る。


「ハジメー、塾まで送ってくれー!」

「......立花さん、今日は塾無い日ですよ?」

「作りかけのプラモがあんの忘れてたんだよ! 完成させないと落ち着かないんだよ」

「なんで塾で作ってるんですか。アパートで作ればいいでしょう」

「ここシンナー禁止だろうが、塗装までしたいんだよ。ほら、早く車出して──おっ? また懐かしいもん持ってんな」

「えっ? あぁ、これは──」

「ようやくうじうじ期抜けたのか。ずっとずっと未練がましい顔してたもんなあハジメちゃんよぉ」


 馴れ馴れしく肩を組んできた立花が、鍋島の頬をつつく。

 摩那が太一にするように、立花は鍋島に対して距離感というものはない。

 鍋島ももはや立花を異性とは認識しておらず、豊満な胸が体に当たろうとも心には彼女の発言に対する反抗心しかない。

 単純に、うざったい。


「うじうじしていたつもりはありません。未練も、ない」

「朝っぱらから体が衰えないようになげー時間走ってるくせに?」

「健康のために運動しているだけです」

「食事だってバランスのいいもんばっかでアタシが誘わなきゃラーメンすら食いやしないのに? 本当は好きだよなぁ、こってこてのラーメン」

「たまに食べるから美味しいのであって、毎日の食生活は気を遣った方がいいでしょう。立花さんみたく、太りたくはないんです」

「はぁー、良く回る口だこと。心残りがあるなら走る、それだけでいいってのにさぁ。誰にそんな言い訳して生きてるんだか。あと一言余計な?」


 言い訳をしているつもりは鍋島にはない。

 運動も食生活も、健康的に送りたいというのはごく普通の願いのはずだ。

 鍋島には特殊な欲求というものはない。

 一般的な人生を送れるのならば、それに越したことはない。

 そう、思っているはずだ。

 ──本当に?

 ()()()()

 心に焦げ付いた痛みが、自分に問いかけてきたような気がした。

 握りしめたゼッケンを、結局鍋島は捨てることができずにそのままこたつの上に戻した。

 立花の体を振りほどいて、鍋島は車のキーを手に取った。


「塾まで送ればいいんですか?」

「あー、やっぱやめだ。服とスパイク買いに行こうぜ。どうせお前、ユニフォームもスパイクも新調してないだろ? 大会用に良いやつ買おうや」

「立花さんに、関係ないのでは?」

「ハジメ一人だとまた思い悩みそうだからさぁ、アタシが付いて行ってあげるって言ってんの。見てないところでうじうじしても、誰も構ってくれないぞ~」

「ほざけ」

「お、昔みたいになってきたじゃん。いいねぇ、その調子であの頃の熱血少年になろうか」

「熱血だった時代はない」


 軽口を叩く立花を無視して、そそくさと車に移動する。

 こうなった彼女の相手はするだけ無駄だ。

 ダル絡みされる前に、さっさと買い物を済ませてしまおう。

 適当に安いやつを買って、それで終わりだ。

 そう思っているはずなのに、まだ見ぬ新品のスパイクに心躍らせている自分もいることに気がついて困惑した。

 もう、陸上競技に心残りはないはずなのに、変だな。


「あ、帰りに斉藤さん誘ってラーメン行こう。新しい店見つけたんだ」

「......前も新しい店見つけたって言ってなかったか?」

「今度のは塾のガキのおススメ。太麵が上手いんだとさ。お、斉藤さんもオッケーだってよ。ちゃっちゃか買い物済ましちまおう」

「塾長も、フットワーク軽いよな」

「あの塾で根暗なのはハジメだけだぜ」


 何も言い返せず口をつぐんだ。

 自分が暗いのではなく、周りが明るすぎるだけだ。

 どうしようもない言い訳が心に浮かんで、少しだけ惨めな気分になった。

 ……出るか、記録会。

 レースに出て、未練はないと証明する。

 悩むことはない。

 たった二分、走るだけでいいのだ。

 それだけで自分の悩みに決着をつけることができる。

 決して、立花にいじられ続けるのが面倒になったというわけではない。

 ため息を一つついて、立花が助手席でシートベルトを着用したのを見て車を走らせる。


「スパイクは、カッコいいの選んでくださいよ」

「まかせとけよ。アシンメトリーのやつとかどうよ。左がオレンジで、右が蛍光色の緑のやつ。根暗な分、足元だけはピッカピカにしようぜ」

「それバカ高いやつでしょう? 安いのでいいんですけど」

「いいだろ、金使う趣味なんてないんだから。酒たばこギャンブルもやらないで、ハジメは健全な大学生とは程遠いもんなぁ?」

「まだ未成年なんだよ……それに、リッカの考える健全は健全じゃない」

「こまけぇことはいいんだよ。あー、早く成人してくれよ。競馬とボートと酒は絶対に教えるんだ。振り回せる相手が欲しいからな」

「絶対にやらんからな。あと、リッカのお母さんに報告はさせてもらう」

「あ、バカ絶対やめろよ!」


 立花の考える将来に思わずため口が出る。

 大会に出ようが出まいが、どう転ぼうと面倒になることは変わりはないことが確定していた。

 口からこぼれた言葉は、少し前一人で部屋にいたときと同じ言葉であったが、今は意味合いがだいぶ変わっていた。


「......どうしたものか」


 頭が痛くなるような未来とは裏腹に、じゅぐりとした心の痛みはどこかに消え去っていた。

 トラックの上、風をまとう自分の姿が脳裏に浮かんでいた。


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