指導者として
摩那が在籍する芳志高校。
創設から一世紀を超える歴史を誇り、毎年難関大学に数十人もの現役合格者を輩出する日本屈指の公立高校。
全国でも有数の進学校であるこの公立高校は文武両道を掲げており、施設は私立高校と遜色ないほど充実している。
OB、OG達の寄付金がふんだんに使われた校舎は、一般的な公立高校とは一線を画している。
そのおかげで部活動もそこそこに強く、夏になれば校舎には何枚か全国大会出場を告げる垂れ幕が垂れ下がるだろう。
二つあるグラウンドは野球部と陸上部で半々で分け合っており、今も生徒たちの叫び声が途絶えることなく聞こえてくる。
職員玄関の前にあるグラウンドでは野球部が活動をしており、陸上部は校舎の裏手側にあるグラウンドの方で活動をしている。
卒業生ではない鍋島がなぜ芳志高校に詳しいのか。
理由は二つある。
一つは摩那の存在だ。
摩那の家庭教師を受け持ったとき、芳志高校を調べたからだ。
特に、陸上部については過去の大会データのほとんどに目を通すほど調べた。
調べた際に鍋島が抱いた印象は、県内では強豪であるが全国大会にはあまり縁がない、という印象だ。
どの年も県大会決勝にはいくつも芳志高校の名前を見つけることができるが、その後の地区予選を突破できる人間はあまり多くはない。
県内ではトップレベルだが、あくまでトップレベル止まりだ。
私立強豪のような、抜けた強さはない。
まぁ、今の世代に限って言えば一人突出した人間がいるのだが、そういう人間は私立公立に限らずたまに現れるものだから平均にはカウントしないほうがいいだろう。
一年生ながら800mで全国大会出場し、今年も活躍が見込まれている女子がいる。
摩那と同学年だが、彼女の口から高校の話は聞かないのであまりよくは知らない。
そしてもう一つの理由は、鍋島にも縁がある人間がおり何回かグラウンドに直接足を運んだことがあるからだ。
事務室で来客用のストラップをもらい、陸上部のグラウンドの方角に向かって歩き出す。
帰宅中の生徒たちを横目に道を少し歩くと、土のよく整備されたグラウンドが見えてきた。
既に部活の時間は始まっているようで、十数人ほどの人物が一塊になってランニングしているのが見える。
その様子を眺めている、細身で長身の男性の元へ向かう。
記憶が正しければ、今年で六十になったはずだ。
その男性の目は開いているかどうか分からないほど細く、口元には豊かな髭が蓄えられている。
近くに駆け寄り、頭を下げる。
鍋島の頭上に、低くしわがれた声が投げかけられる。
「久しぶりだな、肇。身長、伸びたかい?」
「お久しぶりです、野村先生。高校から12cm伸びました」
「じゃあ、今は172cmか。だいぶストライドが変わっただろう」
「そうですね、ストライドとピッチの兼ね合いは、まだ怪しいですが」
「くっくっ、お前は全部頭で考えるタイプだからな。苦労しただろう」
「いえ、競技自体は引退してるので、苦労というほどでは」
野村と呼ばれた男は、細い目をさらに細めて愉快そうに笑った。
厳つい見た目と貫禄のある声ではあるが、お茶目な面があることを鍋島は知っている。
アイスクリームが大好きで、夏場の練習終わりには何回もおごってもらった記憶がある。
「引退したのか。てっきり、まだ走ってるもんだと思ったよ。体が、衰えてないからな」
「見ただけで、わかるんですか?」
「何十年陸上の指導をしてると思ってるんだ。それぐらいわかるさ」
内心で舌を巻く。
鍋島も走っている姿を見れば、それが優れているかそうでないかの判断はできるが、野村のように立ち居振る舞いだけで判断することはできないからだ。
これが、指導者としての長年の経験がなせる技なのだろうか。
良い、指導を仰ぐ相手が優秀だとわかっているのは、精神的にとても良い。
「それで、指導側の視点が欲しいんだって? 私に指導して欲しいんじゃなくて?」
「いえ、実は今、陸上の家庭教師を頼まれてまして。陸上の知識を教えることはできるんですけど、それが指導として適切かどうか判断ができなくて」
「あぁ、君の学生時代はしっかりとした顧問がいなかったもんな。なるほど、独学で学んだことを教えるのは不安か」
鍋島の心境をお見通しのようで、野村は髭を撫でながら鍋島の方を見つめている。
鍋島が今まで摩那に教えたことは、ほとんどが鍋島が一人で学んだ知識であって、第三者の指導を真似しているわけではない。
大会の出場規則のような明確なルールがあるものと違って、練習方法やフォームの指導の正しい知識があるわけではない。
摩那に間違ったことを教えているとは思わないが、自信を持って断言できるかと聞かれれば怪しいラインだ。
そういう訳で鍋島の数少ない知り合いの中で、頼れそうな大人に声を掛けたのが現在になる。
野村はただの公立の先生というわけではなく、県での国体の中距離コーチかつ県陸上競技普及委員会の強化部長でもある。
鍋島が国体の選抜選手として選ばれたときから、何かと目をかけてもらった恩師である。
「いいよ、後進の育成は先達の務めでもあるからね。いくらでも見ていくといい。なんなら、一緒に練習するかい? 生徒らも君と走るといい刺激になるだろう」
「なりますかね? あまり変わらないような気がしますけど」
「君は自分を低く見積もりすぎだね......それは悪癖だと思うんだが、まぁいいか。丁度ウォーミングアップが終わったようだし、皆に挨拶をしてもらおうか」
グラウンドを数周し、それぞれ柔軟体操を終えた生徒たちが野村と鍋島の前に並ぶ。
学年別に並んでいるのか、一番前の列はすこし大人びた顔つきなのに対して、後ろの列の生徒はまだ幼さが残っている。
鍋島に向けられる好奇の視線は、どの生徒も大して変わりがなかったが。
「今日から練習の見学にくる肇だ。年食った私と違ったフレッシュな視線があるから、ドンドン質問するといい」
「鍋島 肇です。今日から不定期ではありますが、皆さんの練習にお邪魔させていただきます。専門は中距離ですが、短距離も長距離もある程度の知識はありますので、相談には乗れると思います」
頭を下げる鍋島に、生徒たちは拍手で返してくれた。
明確な拒絶を示されないことに安堵すると、一番前の生徒から困惑の声が漏れた。
「鍋島って、あの鍋島さんですか?」
「有名人?」
「馬鹿、お前県記録保持者だぞ! 俺らが中学のとき、インハイで二人日本記録を破ったって話題になっただろ!」
鍋島を知っているのか、坊主頭の生徒が瞳を輝かせて声を上げる。
好奇の色が、より濃く鍋島に絡みつく。
鍋島にとってそれはあまり誇りたくない記録ではあるのだが、高校生にとっては盛り上がる話題だったようだ。
少しの間生徒間でのお喋りは止まらず、野村が手を叩くまでは居心地の悪い視線が鍋島に降り注いでいた。
「知っている生徒もいるようだが、肇は日本で数少ない全国大会入賞経験者だ。日本記録を抜いた過去もある。そのレベルの選手と一緒に居られるのは、滅多にない機会だ。貪欲に活用したまえ」
「日本記録保持者だったタイミングは一秒もなかったので、あまり期待はしないでほしいんですけどね」
高校三年生の夏、鍋島が人生で一番の走りをしたインターハイの舞台。
あのとき、鍋島はかつての日本記録を更新するほどの優れたパフォーマンスを見せた。
自分の目の前を走る人影さえなかったのなら、鍋島の名前が日本に刻まれていただろう。
現実は一位の名前だけが燦然と記録に残り続け、鍋島のなの字も残らなかったのだが。
一時的な話題には確かになった。
それでも、鍋島のことを覚えている人間は少ない。
人は、一位のことしか気に留めないのだから。
それ以外の存在など、特別優れたキャラクター性がない限りすぐに記憶から消えていく。
日本で一番高い山は富士山であるが、二番目に高い山を多くの人は知らないだろう。
もし二番目の山が北岳と知っている人でも、富士山と違い標高まで覚えている人はごく少数だ。
全国の一般人が知っているような一位と、県内の陸上に関わっている少数の人間しか知らない二位。
鍋島は自分の記録を、そういったものだと認識している。
自分のことを低く見積もってるつもりはない。
記録が、順位が全てだったのに、鍋島の手元には何も残ってはいない。
鍋島の価値観に照らし合わせれば、自分には価値がないということだった。
「さぁ、格上に見られても恥ずかしくない練習をしろよ!」
「「「はい!!!」」」
野村の号令とともに、生徒たちが各々散らばっていく。
長距離の選手は走り込みのためにロードワークへ、短距離の選手は動きづくりのためにラダーを作ったドリルをするようだ。
それぞれがまとまって行動をするなか、一人の女生徒だけがポツンと浮いていた。
真っ黒な髪を後頭部で一つに纏めた、日に焼けた肌を持つ少女だった。
身長は160cmあるかどうか、姿勢がいいおかげで背が低いとはあまり感じないが、小柄ではあるようだ。
アンツーカーのスパイクを履いているところを見ると、もう走り始めるのだろう。
スパッツから覗く太ももには無駄な贅肉はなく、練り上げられた筋肉が浮かんでいる。
(あの子か、インハイ出場者は)
なんとなくではあるが、本当に速い選手には風格というものが備わっているように見える。
動きに無駄がないのだ。
洗練されているといってもいい。
短距離ブロックに指示を出し終わった野村が、ポケットからストップウォッチを取り出す。
同じタイミングでスタート位置についた少女が、よく通る声で宣言した。
「200インターバル、一本目、行きます」
「「「はーい!」」」
他の生徒たちが返事をする前に、少女が走り始めた。
加速は滑らかで無駄がなく、フォームには力感がまったくない。
テンポよく、一定のピッチで体がグングンと前に進む。
(速い、それに足運びが綺麗だ)
フォームの汚い人間が、土のグラウンドをスパイクで走ると後ろへ土を蹴り上げてしまう。
地面からもらった反発を前への推進力とするのではなく、ひっかくように足が後方に蹴り上がってしまうからだ。
多分、摩那が全力で走ったらひどい土煙ができあがることだろう。
目の前を走る少女にはそういった汚さはなく、スパイクを履いていないと思わせるほど土が飛び散ることはない。
「27……28……29! 飛ばし過ぎだ! 31設定だぞ! 抑えろ!」
タイムを読み上げた野村の声がグラウンドに響き渡る。
インターバルの200mで29秒か、女子高校生にしては破格のタイム設定だ。
こないだの摩那が40秒でひぃひぃ言っていたことを考えると、全国レベルとの差を痛感させられるタイムだ。
「何本ですか?」
「設定は10本だが、あいつはワガママでな、多分15本までやるな」
「最後までイーブンペースで?」
「あぁ、そうだ。どう見える? 鍋島の目から見た姫井は」
「素晴らしいですね。言うことが何もない。全国レベルなだけはある。野村先生の指導の結果ですか?」
「いや、姫井はフォームだけなら最初から完成してたよ......30! レース本番もそうやって飛ばすつもりか!?」
二本目を走った姫井と呼ばれた少女は、野村の声を特に気にする素振りもなく淡々とダッシュの合間のジョグをこなしている。
……少し、感情的なタイプか?
設定タイムを守らない、決められた本数に満足しない。
貪欲的であると言えば聞こえはいいが、精神面に未熟さがあるようだ。
野村の指示を気にしていないのではなく、気にしないようにわざと無視していると言った方が正しい気がする。
鍋島が姫井の性格を理解したことを察したのか、野村が小さく笑った。
「勝気すぎてな、性格の方は実は手に負えてないんだ」
「野村先生でも手に余るなんてことがあるんですね」
「あるさ。性格を無理矢理矯正するなんて許されないしな。メンタルが安定したら、インハイ決勝も楽に行けるタイムはあるんだが、最近ずっと掛かり気味でな。いくら注意しても、メンタルだけは強くならん」
「あー、勝ちきれないタイプですね」
「そうだ。弱い選手なんだ。タイムがいい分、勝ちきれないことがストレスでまた本番でミスをする。余裕がないってやつだな......31! そのペースを崩すなよ!」
ずいぶんと贅沢な悩みだ。
タイムがいい? 勝ちきれない?
自分の教え子はそれどころではないというのに。
黙々と走る姫井の姿を見ながら、ふと野村は摩那のことを覚えているのか気になった。
摩那が入部していたら、姫井と競い合って良い関係を築けていたような気がするが。
それに、野村のような大らかな人間が入部拒否するようには見えない。
触れていい話題なのかどうか、鍋島が逡巡した間に野村が口を開いた。
「はぁ、本当なら競争相手がいたはずなんだがなぁ。相手がいれば姫井にもいい刺激があったろうに、口惜しい」
「本当なら、と言うと?」
「去年の体験入部のときに、素材型の生徒がいたんだ。すごいぞ、あいつは全国を狙える。中二から一人で毎日練習しているようでな、教え甲斐がある体をしていたよ」
「へぇ......」
ドクンと、心臓が跳ねた。
野村が口にしているのは、おそらく摩那のことだ。
全国を狙える。
実際に全国の舞台に何人も生徒を送り込んできた指導者の口からその言葉を聞くと、自分が教えるという行為にとてつもない責任がのしかかったような錯覚がした。
過去を思い出しているのか、野村は鍋島の様子には気がつかなかった。
まだ走り続けている姫井や、ドリルが終わった短距離の面々に指示を出した後、小さく唸り声が聞こえた。
「もったいなかったな。自分の手で教えたかったよ。肇のレースを初めて見たときを思い出すほどにね」
「......どうして入部しなかったんですか、その子は」
「他の生徒の安全のため、かな。言い訳にしかならんがな」
自分に対する評価は聞き流し、摩那のことを聞くと驚きの答えが返ってきた。
そういえば、備品を壊したんだったか。
詳しいことを摩那の口から聞いたことはない。
あまり話したがる様子もないし、鍋島も無理に聞き出すことはしなかったから、体験入部周りの実情はあやふやなままであった。
いい機会だし、当事者から全て聞いてしまおう。
「股関節周りの柔軟を見るために、ハードルを使ったドリルをしたんだ」
「あぁ、ありますね。自分も野村先生が呼んでくれた練習会でやった記憶があります」
「そのドリルのときにな、ハードルを蹴り壊したんだ」
「は?」
「さすがに老朽化も原因だとは思うんだがな。なんというか、その子は身に付いているパワーを持て余してる感じでな。他の生徒から、怖いと苦情が出たんだ」
陸上のハードルというものは、そう脆くはない。
木材であったりプラスチックであったり素材はまちまちであるが、そのどれもが多少蹴っ飛ばしたくらいで壊れるものではない。
それを蹴り壊したとなると、さぞインパクトのある絵面になっただろう。
自分もその現場を直接見たのならば、多少の恐怖心は抱く気がする。
「人数が少ない部活ならそれでも良かったんだがね。二十人近い生徒がいると、一人だけ集中的に面倒を見るわけにはいかない。俺が練習を見られない日もある。そういう時に、生徒間でトラブルが起きないと断言はできなかったんだ。ま、俺の指導力の問題だな」
「野村先生の問題なんですかね、それは」
「生徒の入部希望を受け入れられなかったんだ。俺の責任でしかないさ。どうだ、肇。指導する側も大変だって実感し始めただろう?」
「それはもう、嫌って程に」
人目を憚らずに、大きなため息をついた。
結局、何十年も教鞭をとっている人間ですら、指導力に悩むのか。
それならば、自分の悩みが解消される日などこないのではないだろうか。
ちょっとした無力感に苛まれ、心に浮かんだ疑問がそのまま口からこぼれた。
「じゃあ、指導力ってどうすればいいんですかね」
「そうだなぁ、相手をしっかりと見てやることだな。それだけは忘れちゃいけない」
「相手ですか」
「そうだ。例えば肇を知っていた坊主頭の男子がいただろ? あいつの目標は県大会出場だ。姫井やお前のようなレベルの人間からしたらちっぽけな目標だが、それでも本気で取り組んでいるし、それを楽しんでいる。一人一人に目標があって、それを忘れてはいけないんだ。最低限の話だがな」
「......技術とか、心持ちの指導はしなくていいんですか?」
「できたらいいが、今時インターネットで誰でも調べられるからな。熱意のある奴なら自分で調べるさ。指導者はその練習の正誤が判断できればいいし、責任を取る覚悟さえあればいいさ」
「そういうものですか」
「もちろん、自分の指導力の無さに打ちひしがれるタイミングはくるが、それはあくまで自分自身の問題だ。やけっぱちになって、教え子に当たらないようにな」
肇なら大丈夫だろうと野村は笑ったが、鍋島には少し刺さる内容で笑えなかった。
言葉で摩那に当たったことはないが、視点が自分にばかり寄っていてあまり摩那のことを見ていなかったような気がする。
フォームやメニューはもちろん注視していたが、摩那の内面にはあまり気を遣ってこなかった。
楽しみたいという摩那を、鍋島は理解できないし、理解しようと努力もしてこなかった。
これは、反省すべきところだ。
指導力という曖昧なものに逃げ込んで、自分ができることをしてはいなかった。
ひたむきに汗を流す生徒たちに声を上げる野村はきっと、全員の陸上を続ける動機を覚えているのだろう。
それに比べ、自分は教える人間が一人しかいないというのに、何という体たらくか。
鍋島は自分の怠慢を自覚し、もう一度ため息をついた。
「......短距離の練習、混ざってもいいですか」
輝く瞳を持った生徒たちに混ざれば、自分も摩那の気持ちを理解できるだろうか。
楽しいと笑う摩那に、自分も楽しいと言える日がくるのだろうか。
鍋島には陸上が楽しいという感覚は分からない。
それでも、分かろうとする努力の重要性を教えてもらったばかりなのだ。
理解しようとする努力は、しなければならない。
「肇は、不器用だな」
野村の細い目が、愉快そうにこちらを見つめている気がした。
***
「んんー、日の長さもだいぶ伸びたなー」
「わっ、ビックリした」
「ゴウちゃん、もう時間だよ」
大きく伸びをし、座りっぱなしで凝り固まっていた体を解放する。
バキと大きな音がして、横に座っていたゴウちゃんが小説から目を上げ驚いている。
私とゴウちゃんは図書委員に所属していて、たまにこうして当番として夕方まで学校に残ることがある。
進学校なだけあって勉強をしている生徒も多く、閉館時間まで残る生徒も少なくない。
その人たちが全員帰ってから、司書の先生に報告をして私たちも図書館を後にする。
空は真っ赤に焼けて、グラウンドから飛び込んでくる掛け声も今はあまり聞こえない。
「あーあ、私も走りたいなー」
「摩那っち、練習しすぎてコーチから完全休養の日を作るように言われたんでしょ? 言いつけは守らないと、愛想つかされちゃうよ?」
「コーチはそんなことしないよ」
「お、信頼だねぇ」
「お金を払っている間は絶対に、面倒を見てくれるよ。真面目だから」
「……うーん、その言い方は誤解を招くかも」
ゴウちゃんが呆れるように言うが、私はこの表現を間違ってはいないと思う。
鍋島コーチは、真面目だ。
真面目の前に、クソがつくほどの真面目さである。
練習メニューは細かく調整してくれるし、足繁く家に来てまで様子を見に来てくれる。
私の自主トレの様子も知りたがるし、教えるとしっかりとフィードバックまでくれる。
コーチにも大学や塾の準備があるだろうに、私にかける手間暇は惜しまずにしてくれている。
最初はクラスの男子のように、ちょっとした下心があるんじゃないかと警戒もしたけれど、コーチからはそんな気配が微塵も感じられない。
……乙女心としては複雑な、負けた気分がしないわけではないが、安心できる人だと思う。
コーチがそこまで真面目な理由はきっと、仕事だからだろう。
私の要望に応えるために、貰っている給料に報いるために、コーチは力を尽くしてくれている。
(私より才能がある人が、コーチに家庭教師を頼んだら、私は捨てられるのかな......)
沈み始めた夕日を見ながら、そんなことが脳裏をよぎった。
私とコーチを繋ぎ合わせているものは、契約と金だ。
それ以上でもそれ以下でもない。
もし私より優秀な人間が、よりよい契約と潤沢な金を提示したとき、コーチが私を選んでくれる自信はなかった。
(私は、逆の立場になってもコーチを選ぶけどね)
コーチより優秀な指導者、というものがあまり想像できなかったが、私はずっと鍋島コーチに教わりたいと思っている。
それほどまでに、あの日に見たコーチの走りは摩那の脳裏に焼き付いている。
当時はまだ小柄だった体格を、全身余すことなく躍動させて走る姿に心が震えたのだ。
私も、ああ走りたいと。
たったそれだけの感情が、今の私の原動力となっている。
「んにゃ、グラウンドのあれ、姫井と誰だ? 見たことない人がいるな」
考え事をしていたせいか、先を歩いていたゴウちゃんが窓の下にいる人影を見つめて首をかしげる。
校舎のすぐ近くにあるグラウンドでは、陸上部の姫井さんが誰かと話している様子が見えた。
誰にでも(私以外)フランクな姫井さんが誰と話していてもさして興味は湧かないなぁ。
そう思い、ゴウちゃんが向いている視線を追う。
瞳がその相手を捉えた瞬間、持っていたバッグが私の手から滑り落ちた。
「あれ、鍋島コーチ......」
「へぇー、あの人が摩那っちのコーチなんだ。暗そうだけど、そこそこイケメンじゃん。なんで学校に居るんだろうね?」
「分からない、何も聞いてないよ」
換気の為か、開け放たれていた窓からは二人の会話がわずかに聞こえてくる。
盗み聞きははしたないと思っても、足はその場から動いてはくれなかった。
姫井さんの、力強い声が私の耳に入る。
「鍋島さん、僕の専属のトレーニングパートナーになってくれ」
ピシッと、何かヒビが入る音がした。
「おぉ、逆スカウトってやつ? リアルでもあるんだなぁ。いや、摩那っちも似たようなことしてるか」
「コ、コ、コ、コーチが......」
「ん、摩那っち?」
「コーチが私以外の女に手を出そうとしてる!!!」
「摩那っちも別に出されてないでしょ。って、あちゃ~、行っちゃった」
ゴンちゃんが何か喋っているようだったが、私の耳には届かなかった。
落としたバッグも走ってはいけない廊下のことも、何もかも忘れて私は走り出していた。
コーチ、私を見捨てないですよね?
評価、感想、誤字指摘等していただけると嬉しいです。




