表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ぶちかませ800   作者: アストロコーラ
陸上を始めよう

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

10/27

間違わない、それだけのこと

水曜日、日曜日以外にも書きだめに余裕があるときは投稿していきたいと思います。

 綺麗な字を書くためのコツを知っているだろうか?

 字の形を整えるためにはやや右上がりに書けばいいし、読みやすい文章を書こうと思えば間隔を均等に空ければいい。

 筆圧を一定にし、漢字は大きくひらがなは小さめに書き、文字の重心を右下に置く。

 正解のない文字の世界には、明確な不正解にならないためのコツがいくらでもある。

 陸上も、同じだ。

 重心は地面からの反発を適切にもらえる位置にあるか?

 背が曲がっている、または胸を反りすぎて、体幹に歪みはないか?

 ひどくがに股や内股になっており、脚がロスなく前に進まない形になってないか?

 まだまだ、まだまだ綺麗に走るためのコツなどいくらでも出てくる。

 鍋島という人間は、何かを始めるときはこういった不正解にならないためのコツを知ることから始める。

 陸上を始めたときは速く走るコツを、勉強を始めたときは正しい学習方法を、料理を始めたときはレシピ通りに作ることを。

 知識は、効率のいい成長には必要不可欠だ。

 大学生になり二十歳を控えた今も、それは変わらないと思っている。

 だから、これもその通りにしたはずなのだが。


「先生、弱いよ......」

「おかしいな、ちゃんと勉強したのにな。コンボレシピも有利不利フレームもちゃんと頭に入っているのに」

「その知識に指が追いついてないよ、先生」

「やっぱり、勉強だけじゃ足りないか」


 前回同様、地面に倒れ伏した自分のキャラクターにため息をつく。

 いくら知識があったところで、それを出力するものがポンコツであったのなら意味がない。

 格闘ゲームの場合は、指か。

 思った通りに動かない指先では理想の動きなどできるはずもなく、今日も無様に黒星を喫し続けた。

 仕方がない、プレイ時間の差があるのだ。

 コツはあくまでコツでしかなく、それを覚えたからといって即座に強くなるわけではない。

 自転車の補助輪のようなものだ。

 成長しやすくなるだけであって、それ単体で走ることはできない。

 50時間にも満たない鍋島のプレイ時間では、勝てないのも致し方なないだろう。


「太一はこのゲーム、どれくらいやり込んでいるの?」

「えぇーとね、しっかり数えたことないけど、500時間ぐらい?」

「そりゃ勝てないな、十倍もプレイ時間に差がある」

「お姉は僕の倍はやってるよ」

「......プロでも目指してるのか、摩那さんは?」

「さぁ? でも、お姉はハマったものはとことんやるタイプだから」


 とてつもないプレイ時間に一瞬の間頭がくらりとしたが、摩那の性格を考えれば別におかしなことではない。

 一つのものに夢中になれる集中力があり、人と実力を競い合うことに興味を持ち、練習が苦ではない性格だ。

 1000時間も彼女にしたら、きっと辛い時間ではなかったのだろう。

 それがどれだけの日数をかけて達成された時間なのかは分からないが、今もプレイしているというのだから根気は相当に強い。

 密度というものは大事だが、それ以上に継続することが一番大事なのだ。

 そのことを、鍋島は身に沁みて実感している。

 マウントをとりたいわけではないが、鍋島も陸上の練習時間に限れば数千時間はいくだろう。

 それだけの練習を積み重ねたのだから、鍋島は高校時代にある程度の結果を残すことができたのだ。

 ゲームにおいて、時間という積み重ねがない自分が太一に勝てないのはある種必然だろう。

 ふと、摩那へのコーチングのことに考えがよぎる。


(結局、どれだけ時間をかけられるかだよなぁ)


 かけた時間というものは、凡庸な人間をひとかどの人物に変容させる。 

 時間さえかければ、下手くそなギタリストでも聞ける演奏ができるようになるし、20㎏も持てなかったトレーニーが80㎏を持てるようになる。

 その時間が、摩那には圧倒的に足りていない。

 摩那の大会まで、三か月。

 補助輪をつけ、走る道を綺麗に整備し、質の高い自転車を用意したとしても、漕ぐ時間が少なければ遠くに行くことなどできやしない。

 摩那の練習を見れば見るほど、鍋島の心は焦りで焦がれていく。

 もっと早く出会っていれば、もっと自分に指導力があれば、もっと摩那に運動神経があれば。

 ないものねだりがいくつも湧き上がってきて、鍋島の瞳を曇らせようとする。

 全国を目指せるスペックがある。

 全国の舞台で走ってきた鍋島にとって、摩那の身体能力はそれほど目を見張るものなのだ。

 こんな実績もなにもない、ちんけなコーチの下で燻らせていい素材ではない。

 ちゃんと部活に入り、相応しい舞台で走るべきだ。

 適切な場所で、適切な人物の下、仲間と競い合い切磋琢磨し、時間をかけて成長する。

 それが、摩那にとっての最適な状況のはずだ。


(三年、いや、今年中に部活に入れてもらえるための実績は作っておきたいな。夏に結果を出せば、少なくとも入部拒否はないだろ。入った後に追い出されることはあるかもしれないけど)


 ただ、鍋島がそんな焦りで暴走せずに済んでいるのは、摩那のおかげでもあった。

 いつも明るく、楽しそうに走る彼女の顔を見るたびに穏やかな気持ちを取り戻せるのだ。

 自分の勝手な思い込みを、摩那の下手くそなスキップを見るたびに消し去ることができる。

 ただ、最近スキップをさせすぎたせいか日頃の練習のおかげか、少しずつであるが綺麗な形になりつつある。

 新しい動きを多く教えることはせず、特定の動きばかり繰り返しているおかげで徐々に体が覚えつつあるようだ。

 記憶力はいいが、体の覚えは悪いので当分は綺麗なフォームになりそうにないが、少なくとも同じ手足が出ることは減ってきた。

 ……完全には、なくなってはいない。

 やはり、自分の指導力が足りていないせいだろうか。

 歴戦の指導者ならば、摩那の運動音痴もすぐに改善できるのだろうか。


「そういえば、先生は何しに来たの? お姉、今日は図書館で勉強する日だから帰ってこないよ」

「知ってるよ。今日はね、スパイしにきたのさ。太一に、普段の摩那さんの様子を聞きたくてね」


 堂々巡りの思考に沈みつつあった意識が、太一の声で我に返る。

 今日の目的は、太一と遊びに来たわけでもなければ、答えの出ない思考に溺れることでもないのだ。

 その要件を、早く済ませなければ。


「今までと違って、摩那さんの体に負荷のかかる練習をしているんだけど、家での様子が変わったりしていないか? 歩く姿が辛そうだったり、部屋に閉じこもる時間が増えたりとか、食欲が落ちてるとか」

「お姉に直接聞けばいいじゃん」

「もちろん、摩那さんとも話はしてるよ。でも、そういったマイナスのことを正直に言いそうにはないだろ、摩那さんは」

「あー、確かにそうかも」

「だから、太一に聞くのさ。嘘をついてる様子はないけれど、練習があまりにも負担になっているようならメニューを変えないといけないからね。プロでも何でもないただの高校生なんだから」


 陸上を教える身としては、日常生活全てを陸上のために捧げる存在に作り変えたい。

 今年は無理でも、高校三年の全国大会は確実に行けると思わせるだけのスペックなのだ。

 ただ、それはあくまで鍋島の願望である。

 摩那には摩那の生活があり、それを捻じ曲げるようなことをしてはならない。

 自分の指導が彼女の日常生活に悪影響を及ぼしているのならば、改善する必要がある。

 摩那は練習が楽しいと鍋島に笑顔を浮かべてくれるが、無理を隠している可能性もゼロではない。


「えー、でもなぁ。お姉のこと勝手に話すと、怒られそうだからなぁ」

「和恵さんに、太一のことを褒めておくけど?」

「何でも聞いてよ!」


 チョロいな、小学生。

 塾では希望者に対して普段の様子を親御さんを交えて話す三者面談があるのだが、次回の三者面談に和恵さんも出席を希望していた。

 太一は勉強関連で家ではちょくちょく叱られているようで、教室で愚痴っていたのを覚えている。

 そんな太一にとって、三者面談は辛い時間になるだろう。

 本音を言えば、勉学面に関してはもっと頑張ってほしいが、明るい性格でクラスが朗らかになっているのでそれを褒めるつもりだ。

 嘘は言っていないとも。

 少し、汚い言い方をしただけだ。


「それで、先生は何が聞きたいの?」

「最近、摩那さんに変わった様子は?」

「特にないよ。あぁ、でもご飯の量は増えたかも。朝ごはんと夕ご飯で食べるお米の量が増えたし、通販でプロテインも買ってたよ。体重計に乗るたびに、ぐぇーって叫んでるね」

「へぇ、それは教えてもらってないな。グロッキーになってないのならいいけど、なんで隠したんだろう?」

「お姉も女子なんだから、体重が増えてることは隠したいでしょ。先生、女心分かんないの?」

「......少しぐらい太っても、受け入れられる寛大さはあるよ」

「それは先生の考えでしょ? 女子は少しも太りたくないのが普通なんだよ。分かってないなぁ」


 小学生に女心を説かれるダメな大学生の図が、そこにはあった。

 正直、本当によく分かっていないのが事実なので反論はできない。

 あれだけ鍋島の前で肌を露出する格好をしておいて、体重が少しだけ増えることが恥ずかしいと言うのは、何かおかしくないか?

 スパッツ姿の方が恥ずかしいと思うんだが、女心とはよく分からないものだ。

 これを太一に言っても、共感されるどころか冷めた目が返ってきそうだ。

 話題を元に戻そう。


「あー、なんか体が痛そうにしてたりとかはある? 寝る時間がいつもより早いとか、起きる時間が遅いとか」

「そういうのはないかなぁ。寝る時間は変わってないと思う。あ、最近は朝練するって早起きしてるらしいよ。僕は寝てるから分かんないけど」

「摩那さんの自主トレって学校から帰ってきてからじゃないの?」

「それとは別に、朝も走るようにしたんだって」

「......なんというか、パワフルだな」

「筋トレも僕、ずっと付き合わされてるんだよ。僕が見てないとメディシンボール使っちゃいけないって先生が言ったから、お姉が満足するまで僕もやらされるんだ」

「それはなんというか、ゴメンな?」

「楽しそうだからいいけどさぁ、パワフルすぎてゴリラだよ、お姉。先生と出会ってから、ドンドンとゴリラになっていくんだ」

「......あー、太一。一旦、ストップしようか」

「いや、聞いてよ先生。ホントにお姉、ゴリラなんだよ。僕を撫でる手も力が強くて乱暴になってきたし、毎朝バナナ食べてるし、こないだなんて──」

「誰がゴリラだって? ねぇ、太一。私の目を見て言ってみて」


 ひゅっと、太一の喉が鳴った。

 実は話してる途中で玄関が開いた音がしていたが、話に夢中になっていた太一はその音に気がつかなかったようだ。

 制服姿の摩那が、氷のような表情を張りつけ太一の真後ろに立っている。

 完全な無表情というわけではなく、口元はピクピクと痙攣しながらほほ笑みの形を作っている。

 予想より早い摩那の帰宅に、太一は口をパクパクとさせている。


「......お帰り、お姉。えー、あー......そう、動物! 先生と動物の話をしてたんだよ。ほら、春の遠足に行く動物園の目玉がゴリラらしいからさ」

「へぇー、ふーん。動物園ねぇ......ねぇ太一、日本でゴリラがいる動物園って六か所しかないけど、本当にそんなとこに行くの?」

「え? ゴリラってそんなに少ないんだ。動物に興味ないから知らなかった……あっ!」


 墓穴を掘った太一の頭に摩那の手が伸びる。

 いつものように乱暴に撫でると思ったが、今回は普通に暴力であった。

 ヘッドロックを容赦なく弟に極める光景を、姉弟のじゃれ合いと眺めるべきか教育者として止めるべきか、判断に迷うところであった。

 ……先に悪口を言ったのは太一だしな、止めなくていいか。


「だからストップって言ったのに」

「普通に教えてよ! 痛いって、痛いよお姉!」

「コーチに他に変なこと言ってない!? 正直に話したら離してあげる!」

「言ってないよ、言ってないから離して! 先生も何か言ってよ!」

「ご飯食べる量を増やしたらしいですね。いいことですよ、できたら直接教えて欲しかったですけど。たくさん食べることも練習の一環ですからね。多少の体重増加は大歓迎ですよ。摩那さんはまだ細いですからね」

「太一ぃぃぃぃぃ!!」

「先生ぃぃぃぃぃ!!」


 おぉ、叫び声はよく似ている。

 細かいところにも、血のつながりというものは現れるらしい。

 お茶をすすりながら、しばらくの間二人の仲睦まじい姿を眺めていた。


 ***


「本当にもう帰るんですか? 私と全然お話してないですよ?」

「様子を見に来ただけですから。元気そうなんで安心しましたよ」

「僕は元気じゃないよぉ......」

「太一が変な事をコーチに教えるからでしょ!」

「聞かれたから答えただけなのに......」


 ソファにぐったりと寝込んだ太一に、心の中で手を合わせる。

 ありがとう、自分が帰ったあとも多分絞られるだろうけど頑張ってくれ。

 玄関まで見送りに来た摩那に手を振って帰る。

 太一の話と自分の目で実際に見た摩那の姿から、本当に練習のダメージが深くないことを確認できたことは最大の収穫だ。

 そして、現状の問題把握も済ませることができた。

 摩那の肉体にケガの心配はなく、牛の歩みほどではあるが技術にも進歩が見られる。

 変わっていないのは、鍋島だけだ。


(指導力、指導力ね......足りないとは思ってるけど、何が足りないかと聞かれたら答えられないな)


 今、一番の問題は鍋島の指導力だろう。

 鍋島が得意なことは、不正解を避け正解とされるものに近づくことだ。

 正しいメニューを作ることはできる、正しい走り方を教えることはできる、適切な大会を選ぶことはできる。

 ただ、それだけだ。

 陸上をかじっていた人間ならだれでも自分と同じことはできるだろう。

 それではダメなのだ。

 あくまで、鍋島は家庭教師だ。

 金銭をもらって教える人間が、その程度の指導力しかないのは問題だと鍋島は思っている。

 鍋島は既に金という対価をもらっている。

 それに見合うだけの価値を、摩那に示す義務がある。

 コツや知識なんて、インターネットや市販の本でいくらでも調べられる。

 摩那は体の動きこそ拙いものの、鍋島が言ったことは熱心に覚え意欲的に練習している。

 その摩那に、本当に自分は応えられているだろうか?

 楽しく、勝つ。

 摩那の期待に応えるだけの、指導ができているとは鍋島にはどうしても思えなかった。

 その原因は分かっている。

 陸上選手としての経験ではなく、指導者としての経験不足だ。

 陸上競技のまともな指導を受けた経験が少ない鍋島にできることは限られている。

 塾の場合は、塾長や立花といった先輩がいたから初めての指導もなんとかなった。

 陸上の指導の仕方も、誰かに学ぶべきだろう。


「気が進まないけど、やるか」


 スマートフォンを取り出して、連絡帳を開く。

 目的の人物の名前を見つけて、数秒深呼吸をしてから発信ボタンをタップした。


「もしもし、鍋島 肇です。お久しぶりです。今お時間大丈夫ですか──」




評価、感想、誤字指摘等していただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ