Ep.1
プロローグ前編。
雲一つない快晴の青い空。地平線をかき消す横浜の街並み。
その中に建つ、新築の様に汚れの少ない純白のマンション。
グレーのスーツを着た一人の男が、地下にある駐車場から、エレベーターを使ってマンションを登っていく。
男の容姿は、ややくせ毛はあるものの色艶は綺麗な、黒に近い濃い茶色の髪に、ナイフの様に鋭いキリッとした目つき、その先にある金色の瞳、顔立ちはとても良く、ファッション雑誌のモデルの様に美しい。グレーのスーツも程良く似合っている。手には黒革のビジネスバッグを持っており、大きく切り付けられた様な大きな古傷が目立つ左手の薬指には、銀色の指輪をはめている。
天井から腰の辺りまで貼られている厚いガラスの前に立ち、横浜の街を見つめながら、エレベーターが目的の階に辿り着くまで待つ。
エレベーターが止まり、六階の通路に降りて歩き出す。
折り返しとも言える場所で立ち止まり、薄い水色のドアの方に振り向く。傍らの壁に貼られている黒い表札には白い筆書体で「天羽」と彫られている。
銀色のドアノブを掴んでドアを開けると、隅々まで掃除が行き届き、靴もキチンと並べられている玄関が迎える。
玄関に足を踏み入れてドアを閉め、身体の力を抜くようにふぅっと息を吐いて、キリッとした目つきを緩めて、明るい声調で言う。
「ただいま」
ネクタイを片手で緩めながらそう言うと、部屋の奥から返事が来る。
「おかえり~」
どこか幼さがあり、癒される様な甘い声質の女性の声だ。
声のした方から一人の女性が、嬉しそうな笑顔をしながら、男のもとに小走りでやってくる。
なめらかで綺麗な長い黒髪を後頭部で束ねてポニーテールをしており、丸く少し垂れた様な目つきに、ルビーの様に淡いピンクの瞳、そして何より、童顔で天使の様に愛らしい顔つきをしている。白い長袖シャツとベージュのタイトパンツが、彼女の体つきの良さも映し出している。
彼女の左手の薬指にも、男と同じ銀色の指輪がはめられている。
「おかえりなさい、アナタっ!」
そう言いながら、男が持つバッグを受け取る。
「ただいま、”愛華”」
二人はお互い向かい合って、ニッコリと笑って見せた。
* * *
”天羽愛華”。ごく普通の家庭で生まれ育ち、高校卒業後横浜で職に就いていた所、この男、”天羽修作”と出会い、二年の交際を経て、つい数か月前に結婚した。
この出会いと交際に至るまでにもさまざまなことが起きたが、今語ることはできない。
ただ言えることは、この二人はとても仲睦まじい新婚夫婦だということだけだ。
日が暮れて夕食時になった。二人はリビングに居り、キッチンの近くにあるテーブルと共に並べられている椅子に向かい合って座っていた。広いリビングの壁際には、黒い大型のテレビが置かれており、クイズのバラエティ番組が映し出されている。
愛華の作った手料理がテーブルに並んでいる。今日はあっさりとしたサバの塩焼きに切り干し大根、わかめの味噌汁だ。どれも綺麗に盛り付けられ、漂う香りも食欲をそそってくる。
修作はサバを箸で割って骨を取り除いて口に運ぶ。右頬に寄せてからよく噛み、しっかりと味わってから飲み込む。
「今日ちょっと塩気が薄かったかな…?」
不安そうにしながら言う愛華に、修作はニッコリと目を閉じながら笑って、
「そんなことないよ、すごく美味しい」と言ってくれた。
「ふふっ、ありがとっ」
二人が和気あいあいと食事を進めていると、修作はテレビから流れた速報のテロップに気づいた。愛華も音に気付いてテレビの方を向く。
《【速報】横浜港で身元不明の男性の遺体を発見》と表示されている。
「物騒な事件だね…」そう呟きながら修作の方に振り返ると、彼は何か考え事をしているのか、箸を止め、真剣そうな目つきをしながらテレビに注視し、ピクリとも動かなくなった。
「…アナタ?」
その声でハッと我に返った修作は、「あぁ、ごめん。考え事してた」と、強張った表情を崩して、再び食事に戻る。
数時間後。食事や片づけを終えて、愛華は浴室の風呂に入り、一日の疲れと汗を解消した。
長い髪をドライヤーで乾かし、薄ピンクのパジャマに着替え、脱いだ服やタオルを持って廊下を歩く。
すると、修作の仕事部屋である書斎の前で…
「__だ。あまり派手に動き回るな…仕方ないだろ。アイツだって全部を隠せるわけじゃない」
修作が小声で誰かと話している声が聞こえてきた。急な要件だったのか、部屋のドアが閉まり切っていないせいで会話が聞こえてきているのだ。
そっとドアに近寄り、ドアノブを掴んでドアをゆっくりと開ける。
「明日早めにそっちに行って__…っ!?」
修作は愛華の方に勢いよく振り向いた。かなり焦っているのか瞳孔が開いて、やや青ざめている。右手に持っていたスマートフォンもさっと隠した様だ。
「ご、ごめんなさい。電話の邪魔しちゃって…」
「いや、大丈夫。大した用じゃないから…」
「…お風呂、上がったよ」
「うん、わかった」
部屋を後にしようとした愛華に、何かを思い出して声を掛ける。
「そうだ愛華。明日ちょっと早めに出勤するから、弁当は作らなくて大丈夫だよ」
「そっか…分かった」
愛華はドアをしっかりと閉め、リビングに向かっていった。
部屋中の電気を消し、二人はダブルベッドで共に横になって眠りに就こうとする。
愛華は、先程の修作の電話の内容が気になって、あまり眠気が無い様だ。
左隣に居る修作の方に寝返りをうつと、彼も眠っていなかった。目を開け、静かに天井を見つめていた。
「…アナタ。眠れないの?」
「ん…?あぁ…ちょっと気になることがあって…」
「お仕事?」
「あぁ…でも大丈夫、愛華には何の障りも無い…」
「…張り切りすぎて、身体壊さないようにね…」そう言いながら愛華は、修作の頬にそっと手を当てる。彼女の暖かい肌の温もりが、修作の頬を伝っていく。
彼はその手をそっと握り返しながら、彼もまた愛華の方に寝返りをうつ。
「…ありがとう、愛華」
「…もう寝よ?」愛華は微笑みながらそう促す。
「あぁ…おやすみ…」
二人はまた眠りに就こうと、互いの手を離して、仰向けに戻って目を閉じた。
* * *
翌日の朝。外のベランダの柵に留った小鳥が鳴き始める頃、愛華は起床した。
起き上がって隣を見ると、修作は既に出勤したのか姿が無かった。
普段着に着替えてから軽めの朝食を作って食べ、いつも通りの家事をこなす。
ベランダに置いたプランターで育てているミニトマトやキュウリなどの様子を確認した。丁度良い熟れ方をしている。明日の朝食に使おうと、今は収穫しなかった。
お昼時に家を出て、夕食と明日の朝食の食材を買いに出かける。マンションの地下にある駐車場に停めてある、修作がワックスで磨き抜いたピュアホワイトの日産・デイズに乗り込んでスーパーへと向かう。
スーパーで食材やパンを買って、デイズのトランクに入れている最中、スーパーの近くの大通りを何台ものパトカーがサイレンを鳴らしながら走り抜けていった。パトカーは中華街の方へと向かって行った。
それに気づいて中華街の方を見ると、濃い黒煙が立ち込めていた。
「火事かな…?」
帰宅し、テレビを点け、買ってきた食材を冷蔵庫などに入れつつ整理をしていた時、テレビではニュース番組が流れていた。
〈__先程午後0時頃、横浜中華街の店舗で、銃を持ったグループが、店内に居た男性五名を射殺し、逃走しようとした男女三名の乗った車が爆発し死亡する事件がありました。
犯人グループは、中華街の歩道に車を乗り上げそのまま店に突っ込み、駆け付けた警察官が三名を現行犯逮捕し、二名が未だ逃走中の模様です。
神奈川県警は、昨日の横浜港で遺体となって発見された男性との関連を疑っており、引き続き捜査を行っていくと__〉
昨日に続いて、物騒なニュースだ。そんなことを思っていると、愛華のスマホにメッセージが届いたことを知らせる通知音が鳴り、愛華は手に持っていた牛乳パックをシンクに置いてスマホを取り出し画面を見る。
メッセージは修作から来た物だった。
〈早めに帰る〉とだけ書かれていた。
メッセージが届いて数十分後。
修作が帰ってきた。いつもより静かに部屋に入ってくる。それも愛華が気づかないほどに。
愛華が気づいた頃には、修作はリビングに入っていた。
急に姿を現したかの様な修作に気づいて驚いたが、それよりも気に留ることがある。
修作の表情がかなり曇っている。顔が下に向いており、肩もうなだれている。いつも向けてくる笑顔も無い。
「おかえり!早めに出勤したから上がるのも早かったの?」
修作が返事をしない。無言で立ち尽くしている。
「…アナタ?」
修作はゆっくりと顔を上げて愛華の方を見た。
「……愛華…ただいま」
「おかえり…どうしたの?元気ないよ?」
「…あぁ、ちょっと色々あって…」
そう言って修作は書斎に向かって歩いて行った。彼の後ろ姿は非常に哀愁が漂い、とても寂し気な雰囲気を漂わせていた。
「……?」
夕食を終えて、食器をシンクに入れていると、修作が愛華の隣にやってくる。
表情が妙に険しく、真剣な眼差しで愛華を見つめてくる。それに気づいた愛華は修作の方を向き、お互い向かい合って目を合わせる。
一体どうしたというのか。用を訊ねようとすると、修作が先に口を開いた。
「愛華…今夜、寝る前に…
子供、作らないか…?」
修作の突然の一言に、愛華は動揺を隠せなかった。
子供を作る…それはつまり、セックスをするということ。少し想像しただけで、愛華の頬がやや赤く染まる。
普段は全く、その様なことを気にもしていないであろう彼が、結婚して数か月どころか、出会って二年以上経ってようやく言い出したのだ。
「こ、子供…?ほしい、の…?」
「…嫌か?」
「えっ…えっと…ちょっと待って…急すぎて心の整理が…」
今夜、彼と行為をすれば、自分の処女を捧げることになる…夫婦としては当然ともいうべきことではあるが、愛華は恥ずかしそうにしながら両手で顔を覆う。
「修作さん…アナタは、私と…したい?」
そう聞くと、修作は愛華の両肩を両手で掴み、再びお互い顔を見合い、修作は真剣な口調で言う。
「愛華…今日じゃなきゃダメなんだ…」
その言葉に、何か引っかかるものがあった。だが、彼の真剣で真っ直ぐな眼を見ていると、否定する気持ちも次第に消えていく。
ここはやはり、彼の気持ちに応えるべきだ。
顔を覆った手を降ろし、照れて火照った顔を見せて修作に言う。
「…わかった。じゃあ…一緒にしよっか…」
それを聞くと、修作は愛華の肩から手を離す。
「…ありがとう」
そう言う時も、彼は笑顔を浮かべることは無かった。
あれから何時間経ったのだろうか。
愛華が目を覚ました頃には、目覚まし時計が丁度鳴り始め、朝日がカーテンの隙間から部屋に差している。
お互い半裸のままでおり、愛華は修作の腕に抱かれたまま眠りに就いた様だ。
愛華は修作の腕をどけながら上半身を起こす。昨夜の修作によって味わされた新しい感覚がまだ膣に残っている。
口の中にも妙な粘り気とほろ苦い味のする液体が薄っすらと残っている。唇に指先を当てると、乾燥した液体が少し残っていた。パジャマのトップスにも零れた液体が付着したのか一部がガビガビと固くなっている。
隣の方を見ると、修作はまだ眠っていた。疲れ果てた子供の様に、スヤスヤと…。
愛華は先にシャワーを浴びてから、普段着に着替えて朝食と修作の弁当を作り始める。この日はベランダで育てた野菜をサラダにするため収穫してからキッチンに向かった。
テレビではニュースと天気予報が映っており、今日は午後から雨が降るそうだ。
焼き上がった食パンにベーコンエッグを載せてそれを皿に移し、洗い立ての生野菜のサラダを小さな深皿に盛り付ける。
すると、修作もシャワーを終え、仕事用のスーツを着てから、愛華のもとにやってきた。
「おはようっ」
昨日何事もなかったかの様に、いつも通りの挨拶をする。
だが、修作の顔は、曇ったまま晴れない。それどころか、より暗くなった様に見える。
すると突然、修作は愛華の後ろから抱き着き始めた。
「ちょっ…修作さんっ!?どうしたの朝から…」
急な出来事に困惑する愛華を他所に、修作は無言で愛華を抱き続ける。
そしてやっと彼が口を開いた。
「愛華…君と離れたくない…このまま、一緒に居たい…
…仕事に行きたくない」
一体何を言い出すんだ、と思ったが、昨日から続く様子から察せる気がした。
「…昨日から、調子悪そうだったもんね…
じゃあ、今日は休んで、二人で過ごさない?」
そう言う愛華の言葉に、修作は首を横に振った。
「そういうワケにもいかないんだ…今日に限っては…」
修作の声が震え始める。まるで泣いてる様だが、彼の頬には何も流れていない。
愛華を抱く力が強まる。本当に、このまま離れたく無い様だ。
辛そうにしている彼を突き放す様なことはしたくない。愛華はそう思って、皿から手を離し、自分を抱きしめる修作の腕にそっと手を添えた。
「…いいよ。気が済むまで、こうしてても」
「…ごめん…ありがとう…」
朝食を終え、修作は弁当の入ったバッグと黒革のビジネスバッグを持って玄関に行き、革靴を履く。
愛華が見送るため玄関にやってきた。
「今日、午後から雨が降るって言ってたから、傘持ってって__」
「大丈夫。どうせ雨に濡れるのは車だけだ」
「…そっか」
靴を履き終えた修作は立ち上がり、一旦床に置いていた二つのバッグを手に取り、愛華の方に振り向く。
その表情は、先程にも増して悲し気な顔つきだった。今にも泣きだしそうに、目元が震えている。
「…いってきます」
「…いってらっしゃい」
修作はドアを開け、部屋を出た。
ドアを閉める直前、再びドアが開かれ、修作が顔を出して愛華に言った。
「愛華っ…!」
「……?」
「っ……愛してる…」
そう言い残して、その場を去ろうとする。
またドアが閉められようとしたその時、
「私も、愛してるよ。アナタ…」
愛華のその一言が修作の耳に届き、一瞬動きが止まったかと思えば、突然カバンを落として部屋に走る様にして戻り、愛華に抱きついた。
驚いた愛華を他所に、修作は愛華を抱きしめる。
彼の口から小さな嗚咽が聞こえ始め、床にポタポタと涙が落ちる。
「しゅ…修作さん…!?」
「ありがとうっ…!僕と出会ってくれてっ…!僕の、妻になってくれて…っ!ありがとうっ…!」
叫ぶ様にそう愛華に伝える修作。
愛華は、修作の背中にそっと手を当て、答える。
「私も…修作さんと出会えて良かった…幸せにしてくれて、ありがとっ…」
修作の小さな嗚咽が玄関に響き、やがて彼は、愛華を抱くのを止めて、そっと彼女のもとを離れる。
「…ありがとう、愛華」
そう言って修作は、昨日帰宅してから見せなかった、それも満面の笑顔を愛華に見せた。涙が流れつつも、心底喜んでいるのが伝わる。
修作は部屋を出て、落としたカバンを広い、ドアを閉めた。
一人玄関に取り残された愛華…。
何故だろうか。もう彼とは会えないんじゃないか…。
重く寂しい空気に包まれながら、そう感じてしまった。
* * *
その日。
いつも通りの家事を終え、リビングの椅子に座って本を読んで過ごした。空が曇り始めると、ベランダに掛けた洗濯物を部屋に掛ける。
やがて雨が降り始め、最初は小雨程度のものだったが、時間が進むにつれ強さが増す。やや近い所で雷が鳴り響き、音が届くと窓が小刻みに揺れる。
本を読み終え、テレビを点けると、関東全域に大雨警報が出ていた。
部屋の灯りを強めても、どんよりとした暗い雰囲気が抜けない。
寂しさが強まり、心が不安になってくる。
こんなにも誰かが一緒に居ないことに恐れを抱くのはいつ以来だろうか。
「…修作さん、早く帰って来ないかなぁ…」
そう呟きながら、椅子の背もたれにもたれかかり、天井の灯りを見つめた。
その願いとは裏腹に、修作は日が暮れる時間になっても、夕食時を過ぎても、一向に帰宅する様子は無かった。メッセージや電話も無い。
修作に電話を掛けても出ず、愛華は仕方なく夕食を一人で食べ始める。修作の分は上からフードカバーを被せてテーブルに置いておくことにした。
だが結局この日、修作が帰宅することはなかった。相変わらず彼からのメッセージも何も無い。
彼の職場に電話を掛けても繋がらなかった。
愛華は入浴を終え、寝ている間に修作が帰宅するかと思って、ベッドに修作のスペースを作ってから眠りに就いた。
夜が明けて起き上がり、隣を見ても、修作の姿は無かった。外はまだ雨が降り続いている。スマホを開いてもやはり何のメッセージも無い。
着替えて朝食を済ませ、僅かな洗濯物も掃除して室内に掛ける。
家事を終えて椅子に座り、昨日とはまた別の本を読み始めた。それから正午に近づいても、修作が帰ってくる気配は無かった。
すると、部屋のインターホンが押され「すいませーん」と玄関の扉の向こうから声がした。初めて聞く声だった。
本を置いて玄関に居き、ドアを開ける。
そこには、スーツを着た見知らぬ男二人が立っていた。一人は愛華の父親くらい年齢が離れているであろう、顔に皺が見える白髪で色黒の中年男性、もう一人、彼の後ろに立っているのは爽やかそうな顔つきの若い男性だ。
愛華が「どちら様ですか…?」と聞くと、中年の男性が「突然失礼します。我々、こういう者です」と言い、二人は懐から警察手帳を取り出して愛華に見せた。
中年男の手帳には”警部補 伊達隆一”。若い男の手帳には”巡査 山辺大智”と書かれていた。付いている警察バッジも本物の様だ。
警察手帳を仕舞い、中年男が愛華に「”天羽修作”さんの奥さんですね?」と聞いてきた。愛華がそうですと答えると、「ご同行願います」と返ってきた。
何が何なのか分からないが、正真正銘の警察とあれば、断るワケにはいかない。愛華は一旦その場を離れ、自身のドレッサーから薄手のコートを取り出して着こみ、玄関に置いてあった傘を持って、二人の刑事に同行した。
案内されたのは、横浜県警察の本部、それも霊安室だった。
二人の刑事と霊安室の担当者に案内されながらその部屋に入ると、一人の人の遺体が、全身に白い布を被された状態で静かに佇んでいた。
そして、愛華の脳裏に、嫌な予感が走る。
いや、まさか…そんなことはない…。
そう思いつつも、不安で心臓の動きが激しくなっていく。
「あ…あの…この方は…?」震えだすか弱い声で、恐る恐る遺体のことを刑事達に聞くと、伊達が前に出て、遺体の左手がある部分の布に手を掛ける。
「今朝、港で発見された遺体です。頭部が無くなっており、身元の特定が困難でしたが、所持品に”天羽修作”という方の身分証が入っており…」
その言葉を聞いただけで、愕然とした。目の前にある遺体が、あの愛した、つい一昨日見送った彼なのか…そう思うと、溜まっていた不安が一気に溢れようとしてくる。
「お辛いかもしれませんが、念のため、本当に彼が天羽修作さんなのか、ご確認をお願いします…」
そう言って伊達は、白い布を軽く掴んで捲り上げた。
そこには遺体の左手が見えた。
…その左手を視界に捉えた瞬間、愛華の涙腺が、ついに崩れた。
薬指には、愛華とお揃いの、銀色の結婚指輪…そして何より決定づけたのは、見覚えのある、大きく切り付けられた様な大きな古傷…。
間違いない…この遺体は、修作だ。
そう確信すると、愛華の目から涙が流れ、頬を伝って床に落ちる。そして膝から崩れ落ち、溢れ出る涙を両手で抑えようと顔を手で覆う。それでも、涙は流れ続けていき、彼女の悲痛な嗚咽が霊安室に響き渡る。
「…天羽さん。旦那さんで、間違いないですね…?」そう聞きながら、伊達は愛華の隣でしゃがみ、彼女の背中を摩った。
愛華は震える声で「はい…!」と答えた。答えてしまった。
それはもう、本当に彼が、修作がこの世に居なくなったと本当に認めてしまったということだ。
伊達は「しばらく一人にしておこう…」と愛華に気を遣い、山辺と霊安室の担当者を連れ、霊安室を出ていった。
一人、目の前の現実に打ちひしがれ、修作の遺体の前で泣き続ける愛華。
「なんで…どうして…こんなっ…!?」
彼女の悲鳴の様にも聞こえる泣き声が、いつまでも、霊安室に響き続けた。
霊安室を出て、刑事達らの居る捜査課のオフィスで、修作に何があったのか聞いた。
刑事の話だと、彼の遺体の首元は、刃物で斬られた様なキレイな痕をしており、事件性が高いと判断しているそうだが、詳しいことはまだ判明していない。
「仕事に行く前日や、朝の様子で、おかしな点はありましたか?」
紙をデスクに置きボールペンを握る伊達の質問に、愛華はすすり泣きながら、震える声で恐る恐る答える。
「いつもより…辛そうにして帰ってきて…次の日の朝も…仕事に行きたくないって…言ってました…」
「その理由は聞いてますか?」
「…いいえ…普段から、仕事の話は滅多にしなくて…」
「そうですか…」
結局、愛華の持つ情報だけでは何の役にも立ちそうになかった。
* * *
一週間後。
修作の遺体の司法解剖が終わり、遺体が愛華のもとに届けられ、葬式の準備が行われた。
解剖の結果は、やはり首を刃物で斬られて頭部を落とされた、ということしか判明しなかった。
葬式当日。
濃い雲に覆われ雨が降り続く中行われる。
既に、愛華と親しい友達や、親戚などが集まっている。
だが、修作が勤めていた会社の同僚や上司などはほとんど見かけない。近親者や友人も見当たらない。仕事の都合で来れない人が多いのか、そもそも修作はあまり交友関係が薄かったのか…。
喪服姿の愛華と、それに続いて歩くのは、愛華の両親だ。三人は廊下を歩きながら会話している。
「愛華…彼は、立派な夫だった。せめて、笑顔で見送ってやろう」愛華の父はそう言って彼女の背を優しく摩る。
修作の葬儀場に着くと、沢山の花束が並べられた祭壇の中央に、修作の写真が飾られている。
手前にある棺には既に誰かが花を入れていた。焼香もやった様だ。
三人は祭壇の前で立ち止まり、修作の写真を見つめる。
本当に、何故こうなってしまったのか…彼の死を実感して一週間経つが、未だに分からない。
すると、葬儀場に二人の男女が入ってきた。その方に振り向くと、愛華の知っている人物達だった。
男の方は、修作の勤務先の会社の部長、前頭部が白みがかった薄毛でオールバックの様な髪型、顔の皺が薄らにある、平らな瞼で細い目つきに厳格そうな顔つきをしている、50代半ば程の男”敷島義純”。
女の方は修作と同期だという、亜麻色の長い髪をし黒いヘアゴムで束ねて後頭部下に収め、目尻がキリッとしている、縁が太い黒の眼鏡を掛けた、冷たい真顔の様な表情をしている若い女性”夜凪暮葉”だ。
二人は愛華達に会釈し、敷島は愛華に歩み寄った。
「天羽愛華さん…この度は、お悔やみ申し上げます…」
「…いえ。ようこそ、お越しくださいました…」
愛華は、あまり彼らが来ることに乗り気じゃない様だ。修作との最後の日、仕事に行きたくなくても行かなくてはならないと言っていた…きっと、彼が修作の死の真相を知っていると感じているからだ。
「彼は私の部下の中でも、特に優秀な男でした…彼が居なくなってから、職場も寂しく、居づらくなってしまいました…彼の同期の皆も現実を受け入れられないのか、ほとんど出席しなくて…私と、助手の彼女が代表として…」
「そうですか…
…敷島さん、夫の…最後に会った日の様子を、教えていただけますか?」
そう聞かれた敷島は少しの間、思い出そうとしているのか、はたまた何かを隠そうとしているのか、考え事をする様に黙り込む。暮葉も愛華達から顔を逸らす。
敷島がしばらくしてからまた口を開いた。
「あの日…最後に出社してきた日、午前中はいつも通りデスクワークを行い、昼食をとり、午後からある商談に向けて会社を出てから、連絡もつかなくなりました…」
「……それは、本当ですか?」
「…えぇ」
「…分かりました…ありがとうございます…」
葬儀の終わりが近づく。
お経と焼香、そして遺体を火葬場に移動させた。
大半の人物が帰り、火葬場に残ったのは愛華達一家のみとなった。
修作の遺体が、火葬炉の手前に移されると、火葬場のスタッフが「では、最後のお別れをしてください」と言われ、三人は棺を囲う様にして立つ。
愛華の両親は「アナタは良い夫だったよ…」「大変だったろう…向こうで少しの間休んできなさい…」と言うが、愛華は、何も言葉が出てこなかった。やはり、まだ彼の死が信じられない様だ。
遺体が火葬炉に入れられ、蓋が閉じられ、炎が点いて棺を覆う。
三人は数珠を握りながら、焼かれる修作の遺体に向けて手を合わせ念じる。
炎に焼かれ続ける棺を見つめているうちに、愛華は耐えられず、その場を出ていった。愛華の父がその後を追い、二人は火葬場の外に出る。
愛華は壁を背にしてうずくまりながら、溢れ出る涙を手で拭きながら泣き続けた。
「なんで…なんであの人が、こんな目に遭わなきゃならないの…!なんでなの…!」
そう言う愛華の背中を、父がしゃがんで優しく摩った。何か励ましの言葉を言おうにも、事が事、それも詳しいことは分からないままでは、何も言葉が出なかった。
* * *
修作の葬儀が終わって三日後。
朝と呼べる時間が過ぎた頃に起床した愛華は、修作の仏壇が置かれた、物寂しく暗い雰囲気のリビングで、椅子に座りながらただただ打ちひしがれていた。妙に頭が痛み、吐き気もする。髪を束ねたりする気力も沸かない。
自分は今何をするべきなのか…ただ一人遅めの朝食をとり、僅かな量の洗濯物を洗ったり、返ってくる人も来客も来ない静かな部屋をただ無心で掃除して、一日を終えるのか…。
色々なことを考えていると、頭痛が悪化していき、愛華は深いため息を吐いてから立ち上がり、パジャマの上からコートを着て前を閉じ、財布などが入ったカバンを持って部屋を出る。
地上に降りてドラックストアに行き、薬のコーナーで頭痛薬を探した。
確かな効果のある錠剤タイプの頭痛薬を手に取って会計に向かおうとしたその時、愛華の視界にある商品が入り込んできた。
妊娠検査薬だ。
愛華は思い出した。修作と子作りのためにした、あのことを…。
頭痛薬と妊娠検査薬を買って帰宅した愛華。
まずは一番気になる、妊娠検査薬を試す。
トイレで紙コップに尿を注ぎ、検査薬を使う。二本線が出れば、妊娠していると分かる。
結果は…
二本線だった。
愛華はその結果に驚愕し、それもつかの間、修作の葬儀で枯れる程流れたはずの涙がまた沸き上がる。だが今度の涙は違う。悲しみではない、喜びの涙だった。
「修作さん…!やったよ…!アナタの子供、できるよ…!」
久しい嬉しさの感情で気が高まり、愛華は心の中である決心をした。
絶対に、この子を産んで、育てる…修作が残した、一つの命を守り続けると__。
数日後。両親が部屋にやってきた。愛華の生活を支えるためだ。
二人とも、孫が誕生する期待に胸を馳せている。
「愛華、子育ては大変な仕事だ。だが、父さんと母さんもついてる。安心しなさい」父はそう言って愛華の頭を摩る。
「家事はお母さんに任せて、愛華は赤ちゃんのために、しっかり身体を労わるのよ」と母も愛華に笑顔を向ける。
「ありがとう…!お父さん、お母さん…!」
数か月が経った頃。
愛華のお腹も大きくなっていた。よく、お腹に手を当てると、中に居る赤ちゃんが動くのを感じる。
ある日、愛華と学生時代から親しい女友達が両親と共に、愛華と修作の寝室だった場所を片付け、ある物を置く。
ベビーベッドや、天井から吊るされる回るおもちゃなど、赤ちゃんを迎え入れる準備だ。
「重たい作業させてごめんね…」友達にそう言うと、
「何言ってんの!困った時はお互い様!」「力になれるならなんだってするよ!」「赤ちゃん、無事に生まれてくるといいね!」と励ましてくれる。
「うん…!皆ありがとう…!」
妊娠が判明してから数か月後。
ある日の昼下がり、愛華は診察を終えて病院を後にし、近場のタクシー乗り場でタクシーに乗って自宅へと向かっていた。
彼女のお腹は小さな膨らみがある。この中に、修作が残した命の結晶が宿っている…。
タクシーの後部座席でシートベルトを締めて、ベルトの間から覗く服越しのお腹を優しく撫でながら微笑む。
(修作さん…あともう少し…もう少しで、アナタとの赤ちゃんが生まれるよ…!)
新しい命の誕生への希望と、修作がこの世に居ない悲しみによって込み上げてくる涙を、愛華は指で拭い、それでもなお、お腹を撫で続けた。
タクシーが交差点を青信号で進んでいく。
その時だった。
赤信号である横の道路から、一台の小型トラックが飛び出し、そのままタクシーの側面に衝突した。
タクシーは割れたガラスと剥げた塗装、そして花火の様に激しい火花を舞わせながら、後輪を時折宙に浮かせてスピンし、歩道の段差にタイヤがつっかえてようやく停止した。
トラックはそのままブレーキを掛けることなく、電柱に正面から衝突して停止した。
タクシーの運転手がドアを開け、頭から血を流しながら地面に転がり落ち、ボロボロになったタクシーを掴みながらゆっくりと立ち上がり、後部座席に居た愛華の方を向いて呼びかける。
愛華はぶつけられた衝撃で頭や身体を強く打ち、意識が無い。
「お客さん…!お客さんしっかり…!」
意識が戻って目を覚ました愛華は、いつも通っている病院の病室だった。
愛華は病室のベッドから上半身を起こし、身体の状態を探る。頭には包帯が巻かれており、体のあちこちにも傷が多い。
ちょうどそこに、普段愛華を診察している産婦人科の先生がやってきた。
「起きましたか、天羽さん…」
「あの…一体何が…?」
先生は何があったかを話した。タクシーとトラックの事故に巻き込まれたということ、その事故から既に二日経っているということ、トラックの運転手は酒気帯び運転をしており、タクシーと接触後に降車した際も、かなり足取りがおぼつかない様子だった、ということも。
「天羽さん…大事なお話があります…」
先生はそう、心苦しそうな顔つきで語り始めた。
「…お腹のお子さんなんですが…
残念ながら、事故の衝撃で…」
その言葉だけで、愛華は全てを察してしまった。本当は察したくなかったが、あれだけの事故に遭ってしまえば…。
それでも、受け入れたくは無かった。
「う…嘘ですよね…!?嘘って言ってください…!」
瞳が涙で満たされようとしている愛華は、動揺のあまり勢いよく先生の白衣の腕を掴んで、叫ぶ様に言った。
「先生、お願いします…!この子の父親は、もうこの世に居ないんです…!夫が最後に残した、大切な命なんです…!」
「天羽さん…お気持ちはわかりますが…もう、諦めてください…」
「そ…そんな…」
愛華の白衣を握る手は、次第に力が抜けていき、白い布団の上に落ちる。
愛華は先生に背中を擦られながら、修作が死んだと分かったあの時の様に、胸が張り裂けそうになる哀しみの涙を、枯れてもなお流し続けた。
* * *
修作が亡くなってから最初の冬がやってきた。
愛華達の願った希望も虚しく、生きて産まれることもなく、手術によって愛華の身体の中の赤ちゃんが取り出されてから、一か月以上が経っている。
空は黒に限りなく近い濃さの雲に覆われ、チラチラと雪が降り始めている。
退院した愛華は何日も、赤ちゃんの部屋になるはずだった寝室で、使う宛が無くなったベビーベッドに、倒れる様によし掛かっている。
髪は乱れ、着ている服も乱雑だ。部屋も掃除がされておらず埃まみれで、床には手術後しばらく飲むように言われた鎮静剤も散乱している。ベランダの野菜も手入れされておらず枯れ果てていた。
愛華はもはや、生きる気力を失った様に、虚ろな目でどこを見てるのかもわからない、絶望に満ちた表情をしている。
自分は、これからどうすればいいんだろう…職にありつく気力も失せ、このまま堕落し続けていくのか…。
そんなことになるくらいなら…もう、いっそ…。
愛華はベビーベッドを掴みながらユラユラと立ち上がり、埃まみれの部屋を見回す。
「…全部、片付けよっか…」
物置に行き、箒と塵取りを持ち出して、部屋中を掃く。一通り終わると、バケツに水を汲み、雑巾を漬けて絞り、家具を拭いてから床などを拭く。
ただひたすら、無心に。何も考えず、部屋中を歩き回り、綺麗になったかも確認せず、ただひたすら同じ動作を繰り返す…。
道具を物置に戻し、次は本や装飾品の始末を…
物置から出てそう思った矢先、ある場所が目に入った。修作の書斎だ。
普段から滅多に、彼が亡くなってからはもうドアノブを握ることすらしなくなった。きっと他の部屋より埃が溜まっているだろう。
(…そういえば、あの日から開けて無いなぁ…)
愛華はふらついた足取りで、修作の書斎に近づき、ゆっくりとドアを開ける。やはり全体的にかなり埃が溜まっていた。デスクトップパソコンのキーボードは文字が見えなくなりそうな程埃が溜まっている。
そのパソコンが置かれているデスクに近づく。
すると、一番上の引き出しだけ、少し前に出ている。
気になってその引き出しを開けると、一つの封筒が入っていた。その封筒には、『愛華へ』と書かれている。
「……?」
封筒を手に取ると、数枚の紙が入っていた。
中を開け、紙を取り出して、書いてある文章を黙読する。
《最愛なる僕の妻へ
この手紙が君の手元にあるということは、僕はもうこの世に居ないんだろう。
きっと、心の整理がついて、僕の仕事部屋に入って、この手紙に気づいたんだろう。
君と出会ってからの二年半は、本当に最高の日々だった。
あの頃君が働いていた店で、君が対応して一緒に色々考えてくれたこと。
太陽にも負けない、美しい輝きを持つ君が、こんな僕と結婚してくれたこと。
毎日料理を作って家事もしてくれたこと。
僕の帰りを待ってくれたり、いつまでも隣に居てくれたこと。
本当にありがとう。》
一枚目の紙を読み終え、二枚目に移る。
《もし、困ったことや、このマンションを離れる時は、この人に相談して。
XXXX-XXX-XXXX
その人がダメだったら、僕の妹にも相談してみて。
OOO-OOOO-OOOO
僕が信頼してる、君のことを任せられると思える数少ない人達だ。この二人なら、きっと力になってくれるから。》
二枚目を読み終え、最後の紙を読む。
《最後に。
人生の最後まで、一緒に居られなくてごめん。
でもきっと、僕なんかよりもっと素敵な人が、世の中には居ると思う。
僕は君に沢山隠し事をしたままだし、嘘も沢山ついてきた。最低な人間だ。
僕より君を幸せにすることができる人が、きっと居る。
だから僕なんかのことは忘れて、新しい人生を歩んでほしい。
それが、最後の僕の願いだ。
短い間だったけど、本当にありがとう。
僕はとても幸せだったよ。
元気でね。
天羽修作より》
愛華の手に持つ三枚の紙に、彼女の涙がポタリポタリと落ちる。
堪えようとしてもできない、溢れ出てくる涙が頬を伝って流れ落ちていく。
嗚咽を上げながらその場に崩れ込み、紙を抱くように胸に当てて、泣き叫んだ。
「無理だよぉ…!忘れるなんてできないよぉ…!修作さんのばかぁ…!」
悲痛な声を上げたままうなだれ、いつまでも泣き続けた。
いつまでこんな悲しみを続ければいいのか、あと何度涙を流せばいいのか。これから先、きっと彼のことを思い出す度、何度も繰り返すことになるだろう。
クシャクシャになった手紙を持ったままフラフラと立ち上がり、手紙をデスクに置いた。
手紙を置いた時、下に向いていた目線。
その先にある、手紙が入っていた一段目の引き出し…。
底板が少しズレている。手紙を手に取る際に少し動いたのだろうか。下に何か黒い布が見えた。
「……?」
手紙から手を放して、残った涙を拭い取り、その板を掴もうとする。しかし真空状態でピッタリと張り付いているのか、素手では取れそうにない。
物置に小走りで向かい、キッチンの小物入れなどに使う様なやや大きめの吸盤を持って部屋に戻る。
吸盤を板に密着させ、少し力を込めて持ち上げようとすると、板が上がった。
その下には、黒い布に覆われたもう一つの底。一つの金属の鍵があり、布の下に薄い仕切りがあるのか、綺麗に整って納められている。
「鍵…?」
板を抜き取って手紙の上に置き、鍵を手に取る。
どこの鍵だろうか…そう思いながら、他の引き出しを見ると、三段目の大きめの引き出しが目に入った。よく見ると、デスクの模様と同じ、擬態した様な四角い切れ込みを見つけた。
ここも素手では取れず、板に付いていた吸盤を取り外して、今度は切れ込みを中心に押し込んで引っ張る。
四角い切れ込みは鍵穴の蓋だった。
蓋と吸盤を床に置き、持っていた鍵を差し込んでみる。
鍵はあっさりと入って回すことができた。
引き出しを開けるとそこには、不気味な程真っ黒な、禍々しい雰囲気を醸し出す謎の箱が入れられていた。
それを取り出して床に置き、開けられるか試してみた。力を込めてこじ開けようとしてもビクともしない。
箱の外面をくまなく触りながら何かないかと探していると、一か所だけ空洞があるかの様にフワッと沈む様な部分があった。
そこを親指で押してみると、「ピッ」という電子音が突然箱の中なら流れてきた。
一瞬驚いた愛華だったが、そんなのもつかの間、押した部分が浮き上がってスライドし、携帯電話と文字列が酷似しているボタンが出現した。電子キーのようだ。
こういう物が出てしまってはお手上げか…そう思いつつも、この箱の中身が一体何なのか、気になってしまう。
修作ならどんな数字を設定するか…大事な物が入っているのなら、単純な番号を設定するはずがない…。
ただ、修作とも関係ありそうな数字を、とりあえず打ち込んでみる。
まずは「0617」。修作の誕生日だ。最後に♯を押してみる。だが何も起きなかった。
次に「0423」。愛華の誕生日だ。最後に♯を押す。
…すると、「ピピッ」っとまた電子音が流れると、箱の中から「カチャッ」っという音が聞こえてきた。
「当たった…の?」
あまりにもあっさりとした答えでやや拍子抜けしたが、そんなことよりも、まずは箱だ。
開いたであろう箱の上を両手で持ち上げる。
そこには、パスポートや束ねられた大量の書類が入っていた。
パスポートは、不自然な程数が多い。言語もバラバラだ。
いくつかのパスポートを手に取り、中を開ける。
ハングルが主体のパスポートには「チェ・ヨンファ」、アメリカ英語と思われる文のものは「ジェイソン・スピルナー」、日本の物もあり、これには「高岡 充希」という名前になっている。
貼ってある顔写真は、どれも完全に一致する様な同じ物ではないが、どの写真も修作だと判断できる特徴があった。
「え…?何で…?天羽修作じゃないの…?どういうこと…?」
パスポートを置いて、書類を手に取る。さっきはパスポートの山で隠れて見えなかったが、一番上の紙に大きく「TOP SECRET」と赤い判子が押されている。
TOP SECRET…つまり「重要機密」。
紙を捲り、内容に目を通す。
二千二十0年八月四日…フランス・パリにて。
パリ在住の若い女性や観光客の女性を拉致し、人身売買に流す悪徳組織のアジトに潜入。中枢から攻撃し組織のメンバーを一人残らず殺害。攫われた女性達を保護し、これまで女性達を買った顧客のリストと、売れずに殺害された女性の写真などの証拠品を回収。回収した品物をパリ警察の内通者に引き渡す。任務完了。
二千二十一年十一月二十七日…アメリカ・カリフォルニア州にて。
郊外に建造されたビルの地下にて、極秘に研究・製造されていた小型核爆弾の設計データを回収。その後、メインラボを爆破。”アメリカ支部”の仲介によりFBI等に研究内容が認知され、責任者は逮捕された。任務完了。
…他にも、公には断片的な情報しか流れていなかった、世界中で起きた事件の詳細が記載されていた。
まさか、これらは全て修作が行った事なのだろうか…?
「一体…どういうことなの…?」