5
保健室で目を覚ました僕はぼんやりとした頭のままとりあえずベッドから降りて、締め切られている白いカーテンを開けた。
「お。起きたか」
そこにはパイプ椅子に中途半端に背中を預けだらしなく足を組んで座った若松先生がいた。保健の先生はいないようだった。
若松先生は選抜クラスの生徒指導の先生だ。佐城先生が勉強に関する指導を、若松先生は主に勉強以外の生活面のフォローをしてくれる。寮生活に慣れなかった一年生の頃、僕は若松先生のところへ弱音を吐きに何度も行っていた。
「……若松先生」
「佐城が心配してたぞ。頭を打たなくてよかったってな」
先生はのんびりとした声でニヤニヤしている。散々世話になったけど、佐城先生のような怖さはなく教師らしからぬ不真面目なことを言ってみたりする、イマイチすべてを信用できない風体の先生だ。嫌いかと言うとそうではないのだけど。佐城先生とは同い年らしい二十六歳。
……そしてその佐城先生が心配するのは僕の頭ってことか。
「ええと、僕は……」
「校長先生の話の途中で意識を失った。後頭部から倒れようとしたお前を後ろの新名が受け止めて事なきを得たというわけだ」
なんか目の前が黄色くなったのは覚えてる。ああ、なんか意識がぼーっと拡散していくなって思って……。
「そう、ですか……」
壁の時計を見れば十時を回っていた。九時から始業式が始まって、校長先生の話が始まった時間を引くと多分、僕は三十分以上寝ていたかもしれない。みんな教室に戻ったのだろうか。新名にもお礼を言わなくちゃいけない。重かっただろう、悪かったな。
「あの、僕はもう教室に戻っていいですか?」
目覚めは悪くなかった。頭痛もないし吐き気もない。寝不足で貧血だったんじゃないかと思うんだけど。
「お前、具合は大丈夫なのか?」
「はい、寝たからかすっきりしてます」
「そうか……お前、そこは元気なのか?」
先生は僕を指さした。
「はい?」
「ココロだよ、体じゃなくて、心の方。ホームシックは克服したのか?」
「……いつの話をしてるんですか。僕はもう三年生です」
「いっつも泣きそうな顔して俺んとこ来てたもんな。帰りたいんですけどっつって」
「……一年生の頃は」
「いい家庭なんだろうなって思ったよ、そん時」
「母子家庭ですけど母親のことは嫌いじゃなかったですし、母方の親戚付き合いも悪くはなかったですし……」
「お前、駄菓子やったら嬉しそうに部屋へ帰っていくからちょろかったわ」
「一年生ですしね……」
とは言うものの、もちろんお菓子だけにつられて踏みとどまったわけじゃない。先生のいい加減さとのんびりさ加減にちょっと癒されて。もう少しだけ頑張ってみよう、とそれが詰み重なって今日まで来た。
「それでもお前、クラスで成績は一番だったもんな」
「一年生の頃は……」
今じゃ一番下だ。
「ま、ちょっと座れ」
「え?」
「俺が何のためにここにいると思う」
「保健室の留守番」
「ちげえよ。お前と話をしようと思って起きるのを待ってたんだよ」
「お前さ、この先に何があるか知ってるか?」
「この先?」
「お前さんたちの進路だよ」
「先生方が教えてくれないので誰も知りませんよ」
「だよな」
的を得た答えだと思ってくれたのか、先生はニヤリと笑った。
「俺は行ったことがないから知らんが、だんだん自我を失って国家のロボットだ。優秀なコンピューターとして政府の中枢でお国のために仕えることになる」
SFみたいな、ぞっとする言葉が先生の口から出た。
「選抜クラスはそのための、優秀な頭脳を持った生体系コンピューター養成クラスだな」
「……それって、人間じゃなくなるってこと……ですか?」
嘘だろ。そんな話。
「いやいや、ちょっと怖がらせすぎか。改造人間とか人体実験とか、そんな物騒な話じゃない。仕事に邁進するあまり人間らしい生活を失いやすいってことだ。ワーカーホリックってやつだな。それだけ過酷で重要な仕事ってことだ」
……改造人間に近い気もしないことはない。人間らしい生活ってなんだと思うけど、趣味とか友達と遊ぶとか一日中布団の中でゴロゴロしてるとか、そういうことができないほど忙しくなるってことだ。そうなるしかない人間になってしまうってことだ。
「お前、そんなところへ行きたいと思うか?」
……なんでそんな話を僕にするのだろう。みんなは知らないのに。みんなは知らずにそこへ行くというのに。
「行きたいというか、何かわからないけど高待遇のそこへ行くために僕たちはこのクラスに入ったので行きたくないなんて思ったことはないです。実態を知らないわけですし」
「今知ったろ? どうだ?」
「どうだって……僕がここへ入った理由の一つは母親を楽にしたいからです。行けるものなら行きたいですよ。仕事が大変なのはどんな職業だって同じでしょう?」
「だが、あそこは病んでまで行くところじゃない」
「……僕は寝不足になるほど勉強しでますけど病んでなんかないですし、先生は行ったことないんでしょう? 何がわかるんですか」
「そう言われると俺はぐうの音も出ないんだが、佐城の受け売りだ」
「佐城先生?」
「無理をしていくところじゃないって奴は言ってたぞ、適正がある人間だけが行けばいいと。そう言ってあいつはあそこから逃げ出してきた人間だ」
「え?」
「うまいことやって佐城は人間コンピューターをやめてここへ戻ってきた生還者だ。過去そんな奴はいないらしいからな、やっぱ頭は抜群にいいんだろうな」
生還者って……。
「ちなみに病んでるって言ったのは俺じゃない。上広と新名だからな」
「目は血走ってるし、話しかけてもたまに頓珍漢な答えが返ってくるし、休み時間も参考書広げてブツブツ言ってるし、って、上広は自分よりキモいって言ってたぞ」
「僕はそんなひどい状態じゃ」
「本人はわからんもんだろ」
……僕はどうしたらいいのだろう。
どんなところかわからないのに行きたいと思うのはおかしいのかもしれないけど、そこへ行くために今日までみんなと一緒に勉強してきた。まだ足りないけど。なのに、やめとけと言う。
「多分お前は国語、満点取れないよ、来週の学年末も」
「……」
最後の引導を渡された。
……若松先生は国語の担当だ。
「諦めろ。国語のテスト一枚で無茶をするべきじゃない。体を壊してまで行った先でまた体を壊してしまう。向いてないってことなんだよ、お前。それは悪いことじゃない。向き不向きとできるできないは違う」
言葉はキツかったけど、先生の声色はとても優しかった。
「上へ行けなかった奴はこの先ウチの大学の教職課程をとって、ここの教員として五年間奉公だ。その後は自由の身だな。ま、別にちゃんと給料も出るし社会人として普通だ。その後は希望すれば政府系の仕事を斡旋される。零れたとは言え、優秀な人材であることは間違いないからな。そう言われるだけの力は今の時点で十分持ってる」
「先生は病んで潰れて使い物にならなくなってしまう前にサルベージする係なのですか?」
「嫌な言い方するなあ、お前。どうとってくれてもいいけど、潰れていく生徒を見過ごす教師がいるか? 俺たちはお前たちでもあるんだぞ」
「え?」
「佐城のことはさっき言ったが、俺も選抜の出身だ。要するにコンピューターになれなかった落ちこぼれだな。経験者じゃないと全教科満点取れなんて滅茶苦茶なことを生徒に対して言えないだろ」
「……」
「誰よりもお前たちに近い存在だ。お前たちの気持ちは大概わかってるつもりだけどな。百パーとは言わんが」
僕が若松先生に癒やされていたのはそういうところだったのだろうか。無意識に先生の愛情を受け取って助けられていたのだろうか。
「上に行けないということはお前の努力が足りなかった、かもしれない。国語ができない、それは欠点なのかもしれない。でもな」
「はい」
「一つぐらい欠点があったっていいだろう? そんなに困ることか? 誰のための欠点だ? それを埋めるのは誰のためだ? 上へ行けないことがお前の生死に関わる事か?」
そんな矢継ぎ早に言われても。
「むしろ行こうとすることが生死に関わることだろ。病んでしまうくらいならやめろ。適正のある奴だけが上へ行けばいい」
言ってることはよくわかったけど。
「お前の不安も解消してやれるぞ。ウチの大学に入って選抜の教員として働く五年間の計九年はちゃんとお母さんには支援金が入る。保護者の待遇は上へ行くのと変わらない」
まあ。
僕が一番懸念するのはそこだ。というよりそこがすべてかもしれない。
……先生の言う通り。
欠点とは、僕が求められたいと思う事において満たされていないということだ。つまり僕がそれを望まなければ、欠点は一転して欠点ではなくなる。国語の教師を目指している人間が国語ができないのは欠点だが、数学教師をめざすのであれば国語ができないことは欠点ではない、ということだ。できないよりできた方がいいのはもちろんだけど致命的なものではない。
だったら。
僕が上へ行きたいと願わなければ、欠点だと騒ぎ立てることもなくなる。僕の真の望みは代替案で叶うというのなら。
ぶっちゃけ、国語ができないというのはやっぱり悔しいし、克服できるのならしたいとは思う。
だけど、それは急がなくてもいい。
要は僕は母親に楽をさせたい、それには上へ行くことだけど叶いそうにない、でも代替案が見つかった、母親に同じように楽をさせてやれる。
そういうことなのだ。努力して欠点を埋めることは良いことだし、欠点を欠点と認めて諦めることも悪くはない。でも欠点を欠点でなくすことも時には大事だ。ズルかもしれないし逃げかもしれないけど、体と心が健康であればいい。それで僕自身と母親が幸せになれるならいいと思う。
そして。
僕はやっぱり最後の試験で一つだけ満点が取れなかった。
先生と話をしてからは睡眠時間を削ってがむしゃらに勉強しなかった分、顔色は良くなったし、ご飯も美味しかった。
このクラスは妙な同情もないけど、だからといって貶めるようなことを言う奴もいない。出た結果に対してとてもクールだ。
学年末テスト後は三年生は自由登校になって。
僕は難なく系列の大学へ推薦が決まり、自由登校期間は声をかけてくれた若松先生の仕事の手伝いをしていた。日払いの報酬は駄菓子で。一、二年生の単元テストの印刷とか先生が積み上げるだけ積み上げた資料等のプリントの整理とか、教育実習はこんな感じだったりするのだろうかと思いながら毎日のんびり手伝っていた。たまに佐城先生のも。佐城先生は僕が上へ行けなかったことについて何も言わなかったけど、元気そうでよかったです、と不愛想な顔のまま言ってくれた。
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