谷底に佇む母子
十数年前のこと。
私は理由あって山奥に暮らしていた。母と義理の父と一緒だった。
3人とも仕事の休みがバラバラで、揃ってどこかへ出掛けるといえばいつも夜だったのだが、その日は何故だか憶えていないが、明るい時間帯だった。
雨が降っていた。
義父の運転する車の後部座席に私は座り、何も喋らずに外を見ていた。
母も義父も黙り込み、車の走行音と雨の音だけの静かな世界だった。
頭の中で当時好きだった音楽を奏でながら、山裾を走る車の窓から谷底を見下ろしていた。
深い谷の底がだんだんと上がりはじめ、木々の葉っぱの形もわかるほどに谷底が近くなった時、そこに母子は佇んでいた。
白い洋服を着て、白い赤ちゃんを抱いた若いお母さんが、じっと私のほうを見ていた。
顔がわかるほどに近くはなかったが、その目が何かを私に訴えかけようとしているように思えた。
なんであんな草木しかないような深いところにいるんだろう、私はぼうっとそんなことを考えた。
雨が降っているというのに、彼女達は少しも濡れていないように見えた。
やがて私達の車が通り過ぎようという頃になって、彼女はゆっくりと腕を上げた。
弱々しく人差し指を立て、雨降る天を指した。顔は私のほうを向いたままだった。
赤ちゃんはずっと動かなかった。
後から聞いたのだが、その辺りは首吊り自殺の名所らしかった。
彼女が私に何を訴えようとしていたのか、いまだにわからない。