コロナ禍による分断を超えて〜セカオワ「Dragon Night」(2015年)〜
コロナ禍による意見の対立がメディア上やSNS上で可視化され、社会の分断が加速している。ここに、よーよーからの緊急提言を掲載したい。
今こそ、セカオワの「Dragon Night」の精神が必要になってくると思うのだ。
歌詞を引用してみる。
---引用始め---
人はそれぞれ「正義」があって、
争い合うのは仕方ないのかも知れない
だけど僕の嫌いな「彼」も彼なりの理由があるとおもうんだ
ドラゴンナイト 今宵、僕たちは友達のように歌うだろう
ムーンライト、スターリースカイ、ファイアーバード
今宵、僕たちは友達のように踊るんだ
(中略)
人はそれぞれ「正義」があって、
争い合うのは仕方ないのかも知れない
だけど僕の「正義」がきっと彼を傷付けていたんだね
---引用終わり---
一番大きな対立は、右派と左派の対立だと思う。どちらの側も自分が正義だと思って譲らない。 僕は簡単に右や左に流されるよりも、なるべくその間から物事を見ていたい。なぜなら、感情のおもむくままに右や左に流されるのは危険だからだ。
人は惰性でどこまでも流される。 それでも僕が左右に寄っていることは分かっているんだ。だけど、感情の流れに抵抗していたい。中庸の立場から止揚したい。
一面的になるな。多面的になれ。世界と人生の複雑さを引き受けるには、多面的であるべきだ。常に思想的には孤独であれ。何らかの人間や思想を盲信的に信用するな。これは、信頼できる複数の思想を止揚した多面体の思想だ。
ザ・スミスのモリッシーが左翼から右翼に転向したのを見ていると、個人の思想の上でカギとなるのは、寛容性という気がする。左翼も右翼も他の思想に寛容ではないという点で共通しているから、簡単に転向できる。 そして、この世界は徐々に寛容でなくなってきている。中道は危機に瀕している。
左右の対立以外にも、コロナ禍の社会では、自粛派と反自粛派、マイノリティと反マイノリティ、家事や育児をめぐっての男女間など様々な対立がある。
セカオワの「Dragon Night」は対立のどちらの側にも正義を認め、一夜だけ友達になれると歌う。そして、「コングラッチュレーション」と歌い、その一夜を祝福するのだ。
自分と違う立場の人を最初から拒絶せずに、その正義を理解しようとしてほしい。完全に理解することなんて無理だけど、理解があれば共感も生まれるから。
こういうふうに考えているのだなと分かれば、もう怖くないよ。 分断をなくすために、言葉や理性や共感があるんだよ。それに、一人一人は違う人間だけど、同じところも多いんだよ。
人の思想には立場があり、どの立場にも正義がある。立場間で争いあって社会は作られていく。
立場間の争いはより良い社会を目指す上で必要だが、その争いによる分断の溝を埋めていきたい。現在、人々は両極によって引き裂かれている。
セカオワの「Dragon Night」が流行った2015年、人々の間で半ばふざけながら「ドラゲナイ」と言うのが流行った。正義の対立による憎しみという障害を打ち砕いたからこそ、あそこまで幅広く認知される歌になったのだと僕は考えている。
2015年に僕らは「Dragon Night」の夢見がちなEDMサウンドを聴きながら、社会の分断の溝がなくなる夢を見ていたんだ。




